興福寺のこと

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奈良に行くたびに目にする興福寺、なぜかいまだ記事にしたことが無い。
しかし、興福寺という寺は古い、、よく知られているように藤原氏の氏寺だ。

私どもが、奈良公園とか奈良のまちといっている広大な空間は、あらかた興福寺境内だったといっていい。

近鉄奈良駅を降りると必ず目にする行基像、家原寺(えばらじ、元は母の実家)で、百済から「論語」十巻、「千字文」1巻をもって渡来した和邇(わに、王仁)の子孫として生れる。

行基は「興福寺」、「元興寺」および総国分寺「東大寺」の建立に尽力し、生涯に48ケの大寺院を始め、全国津々浦々に寺院道場を約1400も建立したのに、「元興寺」の智光は行基の悪口を云ったので、地獄へ落ちた、その後蘇生して行基に謝ったと云われ、「元興寺」の屋根は、日本最古の瓦を使用し、行基葺と呼ばれている。

いまユネスコの世界遺産認定で、国宝の五重塔も、一時期は25円で売に出された、こんなのを買ってどうするのか?というと、なんと薪にするためだ。

幸いなことに買い手が出なかったので五重塔は薪になることはなかったが、他の寺院は悉く「仏風呂」にされてしまい、ボロボロになった興福寺境内は、いま奈良公園。

明治の廃仏毀釈で興福寺の僧侶たちは、自分たちが長年、拝んでいた仏像を薪にして風呂を沸かして「仏風呂」なんていってたという。

東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。

治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。

685年(天武天皇14)に完成した山田寺講堂本尊像の頭部、飛鳥資料館のレプリカ。

この像は1186年(文治2)に強奪され、興福寺東金堂に移されたが、のち火災にあって頭部だけが難を免れた。

南円堂、西国三十三所観音霊場の第九番札所。
 
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てになった八角円堂。

興福寺南大門は今はその跡を残すのみで、5月の薪御能の舞台として知られる。
また、春日若宮おん祭のお渡りでは交名(きょうみょう)の儀がここで執り行われる。

五十二段、この石段は,仏門に入る修行の階段。
善財童子が52人の知識人を訪ねて廻った故事に由来すると言われる。

興福寺の南側は、急勾配で、その先の猿沢の池から興福寺の五重塔は、見上げるような位置関係にある。

この寺が藤原氏の氏寺であり、かつては「僧兵」が暴れ回ったように、平城京における「藤原の城」だった。

その興福寺の地の利が、この急坂の上に立ってみると、はっきりわかる。

この興福寺の戦略上の意味が分かってくると、興福寺よりも坂を登った先にある巨大な寺・東大寺が、何を目的に作られたのか、そして何故「藤原」が必死に破戒工作を繰り返したのか・・・・・・

鶴福院町から望む五重塔、「ならまち八景」の一つだ。

奈良ホテル横の荒池越しの五重塔遠景。

猿沢池で采女祭 月明かりの下で優雅に

中秋の名月に照らされる五重塔、この時期優雅に「采女祭」が行われる。

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興福寺へのアクセス、行き方歩き方

興福寺公式サイト

奈良市登大路町48番地

近鉄奈良線近鉄奈良駅下車徒歩7分

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