万葉の旅 大和三山を訪ねる 藤原宮跡

我が国で初めて首都として計画的に造られた都市が藤原京。
日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)」という表現で登場する。

耳成山から藤原宮跡にむかう、ここは鎌倉時代から室町時代にかけて築かれた醍醐町環濠跡。

自衛の手段を講じるために築かれた環濠集落ですが、時に不当・過酷な支配者からの要求に反発するため、あるいは地方豪族の争いを避けるためにこのようなお濠が巡らされた。

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。
それぞれの門号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。

まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。
他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。

ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。

都が藤原京に移ったのは持統8年(694年)ですが、この都づくりを計画したのは天武天皇。

万葉集の中に「藤原宮の御井の歌」と歌があり、その歌の中に「藤井が原」もしくは「藤原」という地名が出てきます。これが由来となっている。

日本書紀を読み返すと、持統天皇の条に「高市皇子、藤原の宮地を観す」や「天皇、藤原に幸して宮地を観す」とあり、宮のある地名が「藤原」であったと分かります。

ところで、「藤原宮(ふじわらのみや)」は史書にも記載されている名称だが、「藤原京」という呼称は歴史上の名称ではない。

『日本書紀』では、「新益京あらましのみやこ」という名前を用いている。
「藤原京」と呼ぶようになったのは明治以降のことで、歴史学者の喜田貞吉氏がこの呼称を提唱した。

実はこの藤原京ですが、持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された、たった16年でその首都としての役目を終えてしまいます。

建設にも相当な時間と労力を要した藤原京が、なぜ、国家の首都ではなくなってしまったのか。

その理由には諸説ありますが、有力な説として、一つは衛生上の問題。
ただでさえ、川が遠く、水が不足するだろう立地。
そして、藤原京の置かれた場所の地形は南東が高く、北西が低い地形となっていました。

その高低差により、汚物混じりの汚水などが、京の中央にある宮にまで流れやすい構造をしていたという。
そこから考えると、疫病などが大変流行ったのではないか、という説。

そして、もう一つが、藤原不比等の意向説。

藤原京のあった場所は、飛鳥に近く、旧有力豪族たちが多く存在していた。
しかし、当時の廷臣で右大臣であった藤原不比等が権力を掌握するには、何かと不都合だった。

そのため、旧有力豪族たちから距離を離したかった藤原不比等は、何か不都合があったであろう藤原京を口実に遷都を進めたのではないかという説。

藤原ノ宮の御井の歌

やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日の経(タテ)の 大御門に 青山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯(ヨコ)の大御門に 瑞山と

 山さびいます 耳無の 青すが山は 背面(ソトモ)の 大御門に 宣(ヨロ)しなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天のみかげ 天知るや 日のみかげの 水こそは  常にあらめ 御井の清水

わが大君が、藤井が原に、皇居を初めてお作りになり、すぐ傍の埴安の池の堤の上にいつも立って御覧になると、青々とした香具山は東の御門の方に春の山として繁って立っている。

畝火の生々した山は、西の御門の方に瑞山として実に山らしく立派に立っている。
耳成の青菅山は、北の御門にいかにも好い姿で神々しく立っている。

名のうるわしい吉野山は、南の御門からはるか彼方、空遠くにある。(このうるわしい山々にかこまれた)御殿の水こそは絶えないで永久に湧いて欲しい。御井の清水よ。

作者について
 
「藤原宮の御井の歌」は公の場、たとえば前述の「元日朝賀の儀」などの場で謡われ、披露されたのではないでしょうか。
当時は「言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国」、すなわち「言語の呪力によって、幸福がもたらされている国」と信じられていました。

なのに、このようなたいへん重要な歌、それも藤原宮の栄えを祈る歌なのに作者がわからない、名前が残らなかったというのはおかしい。

歌柄から、作者は柿本人麿に間違いないと考える。
 
なぜ、「藤原宮の御井の歌」の作者の名が残らなかったのか?

万葉集 巻2 207 「天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の路(みち)は 吾妹子(わぎもこ)が ・・・ 」という歌が人麿の名を消したカギだと考える。

この歌は、決して妻にできない女性を妻としながら、人には絶対に知られてはいけない関係なのに妻の突然の訃報を聞いて、自失茫然のうちに軽の市(かるのいち)をさまよって妻の姿を追い求めたあげく、思いあまって妻の名を呼び袖を振った、というもの。
 
しかし、軽の市のような行き交う人の多いところで、決して口に出してはいけない女性の名前を呼び、袖を振るなど・・・。

突然の妻の死で自失茫然に陥っていたとはいえ、極めてまずかったのは言うまでもない。

人麿の制作年代がわかる最後の歌は『柿本人麿歌集』の大宝元年(701)十月の紀伊行幸に供奉して作ったという結び松の歌です。
その後、人麿は国司として石見の国に下り、その地で死去したと推定される。

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藤原宮跡へのアクセス、行き方歩き方

奈良県橿原市醍醐町

耳成駅下車徒歩約30分
畝傍御陵前駅下車徒歩約30分
大和八木駅→コミュニティバス橿原市藤原京資料室前下車徒歩約5分