大谷吉継の敦賀城跡

北陸
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大谷吉継は裏切りが常の戦国の世に、盟友・石田三成との堅い友情に殉じた武将、また晩年はハンセン病を患い、白い布で頭を覆って戦った武将として知られている。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはない。

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。

現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

この画像は永賞寺、大谷吉継の菩提寺。

永賞寺は曹洞宗の寺院。

大谷吉継の供養塔との伝承を持つ慶長14年造立の層塔がある。

吉継生前より菩提寺としており、毎年9月には供養祭も行われています。

敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。

2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。

八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。

大谷吉継が寄進したという龍の木彫。

敦賀城の欄間や礎石、鬼瓦、寄進した石灯篭、茶壷など吉継にまつわるるさまざまな歴史的遺産が残されている。

西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。

真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。

真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。
また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。

来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。

敦賀市立博物館が所蔵する「関ケ原合戦図屏風(びょうぶ)」、病のため顔を頭巾で覆った姿で手に槍を握り、家臣と向き合っている場面を紹介している。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。

しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。
関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。

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