桜の葉一葉、寂しさを感じる風景だ。
このところ一段と冷え込むようになり、人出もほとんどない。
今、日本水仙が盛りであちこちに咲く。
落ち葉がカサコソと風に舞う、時折人が通り過ぎる。
小池のあたり、紅葉が残る場所がある。
彼女飲み上げる先は見事な紅葉が残る。
メタセコイヤの林、紅葉が進み落ち葉が積もる。
10月桜が盛んに咲いている。
エンジュの木が葉を落とし、不気味な姿を見せる。
春を待ち焦がれる季節になりました。
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桜の葉一葉、寂しさを感じる風景だ。
このところ一段と冷え込むようになり、人出もほとんどない。
今、日本水仙が盛りであちこちに咲く。
落ち葉がカサコソと風に舞う、時折人が通り過ぎる。
小池のあたり、紅葉が残る場所がある。
彼女飲み上げる先は見事な紅葉が残る。
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10月桜が盛んに咲いている。
エンジュの木が葉を落とし、不気味な姿を見せる。
春を待ち焦がれる季節になりました。
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ツバキ園を奥へ進むと…!
”サザンカロード”と名付けたくなるほど、美しい濃桃色の花がたくさん咲いています♪
落ち葉の上に散る花弁も、どこか風情を感じますね。
椿とサザンカの見分け方①
•椿(ツバキ):花が散る時に、花首から落ちる
•山茶花(サザンカ):花が散る時は、花びらが落ちる
サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。
もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。
椿とサザンカの見分け方②
•椿(ツバキ)の開花時期:12月~4月
•山茶花(サザンカ)の開花時期:10月~12月
童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)でも有名です。
二番に山茶花がでてくる。
椿とサザンカの見分け方③
•椿(ツバキ):花がやや筒状で立体的で厚みがある
•山茶花(サザンカ):花がツバキから比べて平面的で薄い
「さざんか」は、住之江区の「区の花」です。
また、その花言葉は「困難に打ち克つ!」
椿とサザンカの見分け方④
•椿(ツバキ):中心の葉脈がクリア
•山茶花(サザンカ):中心の葉脈が黒っぽい
椿とサザンカの見分け方⑤
•椿(ツバキ):鋸歯が浅い
•山茶花(サザンカ):鋸歯がツバキから比べて深い
椿とサザンカの見分け方⑥
•椿(ツバキ):裏返してもほとんど毛がない
•山茶花(サザンカ):裏返すと葉脈に沿って毛が生えている
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丹波亀山城址、明智光秀によって丹波統治の拠点として機能した城郭。
丹波亀山藩が亀岡藩に改称したのは明治2年6月19日ですが、これはその1か月前に終結した戊辰戦争が関係しています。
前年の慶応4年に勃発した戊辰戦争では、伊勢亀山藩が新政府側、丹波亀山藩は旧幕府側にそれぞれつく形になりましたが、結果としては旧幕府軍が敗れています。
このため、版籍奉還に伴う形で丹波亀山藩は明治政府から改称を迫られて、現在の亀岡になったとされています。
江戸時代初頭には近世城郭として整備された。
大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。
戦後再建され、大本の本部が置かれている。
大円寺の創建は天文22年(1554)、専譽周公上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
13代室町幕府将軍足利義輝が帰依した事で寺運が隆盛し当地域の学問所として多くの学僧が集い影響力を持ちました。
古き良き雰囲気を感じられる関酒造は、明治8年創業で屋号は「井づ源」といいます。
関家は、江戸時代には今の亀岡市内に35町もの田畑を所有する富農であり、米相場の商いもされていました。
酒造りは江戸末期に副業として始め、現在の建物は江戸末期から明治にかけて建てられた物です。
昔ながらの手作りの袋しぼりで酒造りをされている。
白壁になまこ壁の伝統的な酒蔵建築が印象的な丹山酒造。
楽々荘(らくらくそう)は京都府亀岡市にある旧田中源太郎邸を使用したホテル。
1898年(明治31年)頃建築の洋館と七代目小川治兵衛作庭の日本庭園が有名。
2018年3月にがんこフードサービスが借り受けて「がんこ京都亀岡楽々荘」として改装開業した。
京都鉄道株式会社(現在の嵯峨野線)の創設者で衆議院議員・貴族院議員を務めた田中源太郎が自らの生家を改築したものである。
煉瓦造りの洋館は1898年頃に本邸として、書院造りの和館は同年頃に迎賓館として建設。洋館と和館の前に広がる650坪の枯池泉回遊式庭園は七代目小川治兵衛(植治)の作庭で、安土桃山時代の石燈籠や鉄製井筒などが亀山城から移設されている。
今日はこちらでお昼をいただいた。
庭を歩くこともできました。
広い芝生が続く向こう側や離れの前は日本庭園になっていて、欧米の庭園の影響を受けた明治時代の庭づくり特色が伺えます。
そして作庭したのは七代目小川治兵衛(屋号「植地」)の手になるものと聞いて納得。
小川治兵衛といえば平安神宮や丸山公園、無鄰菴をはじめとした南禅寺別荘街の庭を作庭した方。
近代庭園の先駆者であり明治の名作庭家で明るく開放的な庭を作っておられます。
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晩秋から早春にかけて亀岡盆地名物の深い霧(「霧の都 亀岡」とも言われる所以)が発生しており、この季節に京都市内から保津峡や老ノ坂峠を経て市内へ入ると景色が一変する。
霧の規模は全国的に有名で、最大、正午過ぎまで晴れないことも多い。
衛星写真では亀岡市全体が霧の影響で白く写ることもある。
真ん中のポールは両翼を風になびかせるカモメの姿をイメージした作品で、新設のスタジアムに隣接する広場のシンボルとなっている。
京都府亀岡市にあ式内社(名神大社)、丹波国一宮。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。
一面霧の海で神秘的でさえある。
2014年(平成26年)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆。
『徒然草』 第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」 聖海上人が参拝した際、獅子・狛犬が後ろ向きに立っていた。
これは他に例を見ないことできっと由緒のあることに違いないと思っていると、実は子供のいたずらだったという話。
教科書で教えられることも多い文である。
なお、現在の獅子・狛犬は、当時とは異なるものである。
亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。
古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。
旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。
「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝に由来する。
いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。
拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治11(1878)年に官費により造営された。
ここでは4月18日の花鎮祭や、10月21日に斎行される例祭にて、巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。
社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。
祭神の大国主神については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている。
ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。
社伝では、『丹波国風土記』逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする(ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。
この辺りは禁足地、入山禁止。
磐座内は神域、禁足地となります。
「御蔭の滝」は竜神乃神をお祀りする滝としていにしえより地域の源として崇められている。
上ノ社 祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命
祭神は大国主神の祖先にあたる。
社殿は文化10年(1813年)の造営とされる。
大型の一間社流造で、一間社としては珍しく前室を有する。
これより先へは社務所で受付を済ませ、タスキをもらって入山する。
古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。
現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。
崇神天皇社 祭神:御真木入日子印恵命(崇神天皇)、祭神は、崇神天皇により再興されたという社伝に由来する。
安土桃山時代に入って明智光秀が丹波統治のため古世地区に丹波亀山城を築き城下町を形成したことによって、亀岡は近代的な発展を遂げる。
明智滅亡後も豊臣・徳川政権下において丹波亀山城には羽柴秀勝(於次、信長四男)、豊臣秀勝(小吉、秀吉の甥)、小早川秀秋、前田玄以・岡部長盛ら信任ある人間が配置されるなど京都の西北の入り口として重要視され続けた。
参拝を終えたころには霧も上がりきれいな青空。
神体とする御蔭山、手前は宮池。
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大阪護國神社は大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5000余柱を祀り、拝殿の神鏡は戦前の研磨技術では最大のものという、由緒ある神社。
今日は阿含宗による護摩供養が行われる。
毎年2月の節分に「炎の祭典・阿含の星まつり」を山岳密教、修験道の大柴燈護摩供の伝統的な様式に則り、金胎両部、それも「神仏両界の秘法」によって京都にある本山修法地にて開催することで有名である。
神殿内部では法要当日午前10時30分、山伏一行は拝殿内で大阪護國神社宮司による御神事を賜った後、結界へと入壇。
結界へ向かう一行。
次いで阿含宗彌榮神授雅楽部による御神楽「浦安の舞」の奉納、山伏問答ののち、護國ノ御英霊への献花・献水が祭壇に捧げられ、続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれた。
ほどなくして『山伏問答』が始まりました。
修験者としての知識をテストするような問答が繰り広げられ、どこの流派の修験者か見極めるために行われたようです。
山伏問答とは、修験者として知るべき知識を聞くもので、山伏の真疑を確認し、答えられたものが護摩道場への入場を許されるというものです。
全員許されて護摩道場への入場を許されたようです。
続いて斧・法弓・宝剣と各作法が営まれる。
破魔矢が東西南北と護摩壇、鬼門の方角へと放たれます。
放たれた破魔矢はいただくと福が来るそうです。
護摩壇に火が放たれ護摩がくべられます。
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近くにいながら久しぶりの大和川、大坂は今、コロナで大変な騒ぎだ。
もう、ゆりかもめが群れを成している。
夕空に群舞する景色は見事。
人出もまばら。
上流に歩を進める。
遠里小野まで来た、チン電と夕景。
この時期太陽の沈む位置が南へずれているため、電車と夕日のコラボは難しい。
電車の本数も我孫子道以南は激減、タイミングも難しい。
川沿いを散歩する人の姿もいつもと違ってまばら。
コロナの早い終息を願うのみ。
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