大阪城の時代


外出が緩和され少しづつ動いている。
久しぶりに大阪城を訪れた。

人出は少なくショップは手持無沙汰のようです。
天守にも登ったのですがエレベーターは身障者専用で、すべての人は徒歩で8階まで登ります。
老体にはこたえた。

司馬遼太郎が考えたこと 5に大阪城の時代という随筆が掲載されています。
非常にわかりやすく纏められているのでその要約を利用させてもらいます。

もっとも、百姓をただで使っていたのではなくて、日当としてお米を支給していたんですね・・・・こういう明快さが秀吉流儀でしょう。

当時、人夫はもういらないというくらいに志願者が多くて、結局あらかたな工事は3年くらいでできている。

そのときすでに現在の大阪城の数倍あって、その後だんだん大きくしていったものですから、完成時にはどのくらいの大きさだったでしょう。

よく知られているように、秀吉という人は浮浪児の出身な分けてセスが、このように社会の最下層から出てきて、関白になり、そして大阪城を作った。なぜそれを世間が認めたかということを考えねばならないでしょう。

それは応仁の乱(1467)から戦国という、日本中を火炎に包んだ百年の内乱からこの城はできたように思えます。

この城の権力的な魔術性は秀吉一代で尽きてしまったのですけれど、妙なことに秀頼と淀殿が濃厚に魔術にかかり続けていた。

そのあたりを調べていくと、淀殿という人物はこの城の暗示にかかりっぱなしのつまらない女だったということになる。

じつは、城塞を書く前は、淀殿には何かあるだろうと思っていたのです。

そんなわけで、大坂の陣を書くのだから「女の城」といったふうな題まで考えていたのですけれども、ところが調べてみると、淀殿のつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。

およそ凡庸な、世間に対して嬰児のように無知な二人が、あれだけ世間を動かすことができたのですから、見方を変えれば彼や彼女が主人公ではなかったということになる。

大阪城という建造物が主人公で歴史を動かしたとみるべきでしょう。

そういう意味で大坂の陣の主人公はあくまでも大阪城であって淀殿や秀頼ではない。

それで題を城塞にしたのです。

家康についたも触れておかねば片手落ちだと思います。

家康は成功者の代表みたいな人ですけれども、大坂の陣については歴史的な失敗者ではないでしょうか。

現実政治家としての家康は、豊臣恩顧の諸大名に対する配慮もあって、秀頼をどのようにそつなく引っ込めようかと実に腐心したらしい。

相手があまりに巨大な城を持っているために、彼は手も足も出なくなってしまい、一方、70を超えた自分の寿命についてのあせりから、この城と、この城の魔術にかかった人間どもを生かしておいては、徳川家のためにならないと考えたんでしょうね。

ですからもうこうなった以上、北は南部から、南は九州の大名に至るまで総動員することによって、大坂の陣を徳川家に対する大名の服従心のテストにし、さらには全ての大名を共犯者にしようとした。

その計算も計画も見事でしかも成功しています。

ところが後世への計算と演技をあやまり、後世の民衆の心象から言えば、史上最大の悪人になってしまった。

徳川家は残せても後世に対して大きなミスをしてしまったことを思うと、秀頼や淀殿、およびこの城で討ち死にした数万の人々は、家康のそういう評価と心中できたということで、わずかに以って瞑するところがあるといえるかもしれません。

「国盗り物語」で斎藤道三のことを書き、秀吉については「新史太閤記」で述べ、さらにその後のことは「関ケ原」で触れたわけですが、それだけではなお思いが残っておりまして、その後の豊臣家はどうなったのか、また元亀・天正(1570~92)から続いた日本人のバイタリティはどこで終わるのか・・・・というようなことになると大阪城を書かなければいけないような気がして、書いてみたわけですけれども。

ですから「国盗り物語」て゜道三が美濃国をかすめとるところから始まって、「城塞」で後藤、真田が大きな時代の幕を引くようにして戦死するまでのことを考え続けてきますと、私なりに日本人のもつ最もアクティブであったじだいとかというものが、なにやら自分なりにわかったような気がするのですが、どうでしよう。

秀吉の大坂城 – 大坂城豊臣石垣公開プロジェクトが進行しています。

令和3(2021)年春のオープンを目指すという。

公開されるのは、本丸内の天守閣南東約50メートルに位置し、大型複合商業施設「ミライザ大阪城」(元市立博物館)から北約30メートルの地点に埋もれている石垣遺構。

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昭和20年(1945年)8月14日、米軍は大阪市を空襲し、「大阪陸軍造兵廠」(現在の大阪城公園周辺)に多数の1トン爆弾を投下した。
この時、1トン爆弾の命中によって、天守閣石垣の北東が歪んだ。

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平成元(1989)年のドーンセンター建設の折、敷地内から発見されたこの石垣は豊臣秀吉の最晩年に当たる慶長三(1598)年に1万7千もの民家を城外へ強制移転させて大坂城の防御力強化のために築かれた三の丸のものである。

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