「風林火山」の花将軍、北畠顕家ゆかりの地をたずねる


日本に2つの王朝が存在して、それぞれが正当性を主張して戦乱に明け暮れた南北朝時代。

ひとりの若武者が阿倍野の野を駆けめぐった。
准大臣・北畠親房の長男にして従二位・権中納言の北畠顕家。

眉目秀麗の公家でありながら、「風林火山」の旗印を用いて戦場に赴き、その勇猛果敢な武者ぶりに、 敵方からも「花将軍」とまで讃えられた。

阿部野神社は、北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子を祭る。
明治15年創設、社殿は今次大戦で焼失した。

父子は南北朝時代の武将で、建武中興のとき南朝方として活躍した。

親房は陣中にあって職原抄(しょくげんしょう)(日本最初の法制史)、神皇正統記(じんのうしょうとうき)等を著述し、正平9年(1354)大和賀名生(あのう)で没した(61歳)。

ここには顕家の銅像がある。この銅像はNHK大河ドラマ「太平記」が放映されたことを記念して1991年に建立されたもので、除幕式には親房・顕家親子を演じた近藤正臣・後藤久美子も列席した。

その時、あの国民的美少女と言われたゴクミこと後藤久美子が顕家を演じたのも頷ける。

政治思想家としても父と類似の才覚を持ち、戦死の一週間前に後醍醐天皇への諫言として著した『北畠顕家上奏文』は、美文かつ歴史的価値の高い史料とされている。

後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。

死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。

北畠顕家公と一緒に戦った甲州波木井梅平の城主南部師行(なんぶもろゆき)公とその一族を祀ってある。

だから紋は南部氏の「向かい鶴紋」です。

北畠顕家は南北朝時代の武将で、後醍醐天皇に仕え、父の親房公 とともに奥羽平定にあたった人です。

この地は『太平記』に「5月 22日、和泉の境、阿倍野にて打死し給ひければ、相従ふ兵悉く腹切り疵を被って一人不残失せにけり」と記され、顕家公が20余騎の手兵で足利尊氏の大軍を迎え撃ち、弱冠21歳で戦死したところと伝えられています。

顕家は各地を連戦したが、延元3年(1338)足利尊氏と阿倍野で戦い、奮戦の末手兵全員と共に戦死(21歳)した(一説には石津川付近ともいう)。

伝顕家墓は古くから大名塚といわれており、現在の墓碑は、享保年間(1720年ごろ)並河誠所(なみかわせいしょ)により建てられた。

謎のお墓。
何故か端っこにチョコンとある。
本当のお墓はこちらの方だと言われている。

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また、室生寺にも親房のものと伝えられる墓がある。

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この時、顕家卿(16歳)、義良親王(6歳)、即位は後醍醐天皇が崩ずる前日のわずか11歳での即位です。

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