大阪レトロ建築探訪「山内ビル」


1930(昭和5)年に法律特許事務所として建てられた。

建物は2000年に登録有形文化財に登録され、カフェとして使用されている。
設計者は今北乙吉。

鉄筋コンクリート造4階建てのスパニッシュ風褐色タイル貼りのビル。

正式名称は「山内香法律特許事務所」 現在は「香」の文字のプレート部分が建物の劣化なのか何らかの理由で消えた状態になっている。

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京都迎賓館 庭園

京都迎賓館の庭園は、御苑の緑を借景とし、広大な池を中心に、様々に表情を変えつつ、まわりの建物に融け合うように配置されています。

これが、古くから日本人の住まいに貫かれた伝統「庭屋一如」(ていおくいちにょ)の思想です。

廊橋の天井は、船底を逆さにしたような形で、中央部が高く、両端が低くなった「船底天井」で、吉野杉を使用しています。四隅には、昆虫の透かし彫りが施されています。

廊橋を境に池の水深が変わっており、島の配された「海」の部分と、「ネビキグサ」のある「水田」の部分に分かれます。

廊橋天井の四隅に施された透かし彫り左から蟋蟀(こおろぎ)、鈴虫、蜻蛉

様々な木々や花々が植え込まれており、四季折々の色が楽しめるようになっています。

北側の池には様々な色をした錦鯉が放たれています。海外の賓客に、餌やりをお楽しみいただいております。

山越村の鯉も大きくなっていた。

繁殖しているらしく、稚魚もたくさんいた。

サギはその稚魚を狙っています。

海外からの賓客に、和舟に乗って日本の文化「舟遊び」を楽しんでいただきます。

池の浅さを考慮して、底が平らになっています。

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京都迎賓館 桐の間

桐の間は、和食を提供する「和の晩餐室」。

最大24名までの会食が可能なこの部屋では、京料理でおもてなしします。

軽やかな和風建築を引き締める漆黒の漆

全長12メートルの漆の一枚仕上げのテーブルが鏡のように庭の緑や天井の意匠を写して室内に豊かな景色を創り出しています。

正座に慣れないお客様にもくつろいでいただけるよう掘り炬燵式としています。

畳は、「中継ぎ表(なかつぎおもて)」という昔ながらの技法で、イグサの良い部分のみを使って、中央でつないでいます。

畳縁は、麻の本藍染を使用しています。

軸装(じくそう)「雲水峡(うんすいきょう)」<雨林><水行><深山>菅原健彦(すがわらたけひこ)の作。

桐の間から見える日本庭園。

白地の唐紙(からかみ)に白い雲母(きら)の桐紋が光り、座敷に深い陰影を作っています。


「五七の桐」が描かれた座椅子

座椅子の背の部分には「五七の桐」の「蒔絵(まきえ)」が施されています。

桐の葉の色は微妙に異なり、同じ模様の椅子は一つもありません。

「五七の桐」は、昔は、皇室の裏紋として使用されていましたが、現在は、日本国政府の紋章として使用されています。

廊下を通り、庭の方向へ。

通常、ゲストは明るい外の方から来るが、今回の見学順路は、裏側からだったので、おもてなしのルートとは逆に歩くことになる。

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京都迎賓館 藤の間

京都迎賓館で最も大きな部屋で、洋食の晩餐会や歓迎式典の会場として使用されています。

「櫛の歯」の形にテーブルを並べた宮中晩餐方式のレイアウトで約60名、円卓を使うと約120名までの会食が可能です。

壁面装飾「麗花」

壁面装飾は、日本画家の鹿見喜陌(しかみ きよみち)の下絵をもとに、綴織りの技法で織った織物で、39種類の日本の草花が織り込まれており、作品名は、「麗花(れいか)」と言います。

床に敷かれた緞通は、壁面装飾に描かれた「藤の花」が舞い散った様子を表現しています。


ここには桜、藤、牡丹、菊など、39種の花が描かれているのだそうです。

格子光天井

天井の照明は、本美濃紙と京指物の伝統的技能が使われた格子光天井になっています。
「和凧」の連凧のような3段の笠は、高さが調節でき、そのパターンは、15種類にも及びます。

舞台扉に光る伝統技能「截金」

人間国宝の故 江里佐代子の作品で、金箔と銀色のプラチナ箔を使用しています。

金と銀が、互いの美の長所を引き立て合いながら、二つの色が交差するさまに、「人と人との出会いもそうありたい」との願いが込められています。

作品名は、「響流光韻(こうるこういん)」と言います。

優雅な日本の伝統文化が披露される舞台

舞や能、箏(こと)の演奏、雅楽などが披露され、訪れた賓客の方々へ日本の伝統文化を紹介しています。

伝統技能をちりばめた几帳

室内の間仕切りや目隠しとして使う「几帳(きちょう)」は、絹の薄織物の「紗(しゃ)」よりも薄い「羅(ら)」織物や漆、京縫い、組紐などの伝統技能が用いられています。

「錺金物(かざりかなもの)」と言う建築各部に用いる補強と装飾を兼ねた金具。
釘隠、襖の引き手等、天井金物にも活用されとの事。

池には「ネビキグサ」がみえています。


サギに目が行きます。

陰影の美しさ。

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京都迎賓館 夕映の間

大臣会合などの会議や立礼式(りゅうれいしき)のお茶のおもてなし、晩餐会の待合として使用されている。

東西の壁面を装飾する「比叡月映(ひえいげつえい)」、「愛宕夕照(あたごゆうしょう)」という二つの織物作品の一文字ずつをとって、この部屋を「夕映の間」と呼んでいる。

日本画家の箱崎睦昌(はこざきむつまさ)の下絵をもとに、「綴織り」という技法で織った織物です。 「比叡月映」は京都の東にそびえる比叡山を月が照らす様を描いています。

綴織り(西陣織)の技法で製作された織物です。

「愛宕夕照」は京都の西に連なる愛宕山に夕日が沈む様を描いています。

東西の壁面は可動式になっており、部屋を三分割して使用することができます。

潮の音 竹工芸 杉田静山

花篭 竹工芸 杉田静山

坪庭

飾り台の「蒔絵(まきえ)」・「螺鈿(らでん)」は、山紫水明(さんしすいめい)をテーマに、人間国宝の北村昭斎と息子の北村繁によるものです。

京都迎賓館の庭園の石材には、一時代に活躍していたものを再利用しているものが多くあります。
また、水田をイメージして、1年中緑色をしている「ネビキグサ」を植えています。

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京都迎賓館 聚楽の間

晩餐会や大臣会合などが行われる際に、招待されたゲストの控室、随行員の待合とするなど多目的に利用されている。

「聚」は、寄り集まるといった意味があり、心が安らかで楽しいことが集まる場所という意味をこめて、この部屋を「聚楽の間」と呼んでいまる。

鉄や釘を一切使わない伝統的技法である京指物を用いた安楽椅子が並んでいます。

鮮やかな赤色の「西陣織」の布地を用いて、華やかさを演出しています。

接遇の際は、この飾り台の上の花籃(はなかご)にいけばなをしつらえます。

人間国宝の故 五世 早川尚古齋の作品です。

部屋の中ほどにある飾り台には、「漆」、「螺鈿(らでん)」、「竹工芸」などの技法が施されています。

薄暗い空間に真っ赤な小菊が咲くように、と朱漆のひごを使って編んだ「色漆差六ツ目銘板」

「型絵染め(かたえぞめ)」という言葉は、1956年に芹沢銈介氏が人間国宝に認定された際、その他の型染めの技法と区別するために考案された名称。

技法的には沖縄の紅型とよく似ています。

「釘隠(くぎかくし)」として用いられている「錺金物(かざりかなもの)」は、「千代結び」をイメージしたもの。

人と人との結びつき、平和の輪といった気持ちが込められています。

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京都迎賓館 正面玄関


京都迎賓館は、1994年(平成6年)10月に「国立京都迎賓館」として、その建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

内閣府のサイトの公式説明によると、京都迎賓館というのは、日本の歴史や文化を象徴する都市である京都において、海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に建設された、という。

場所としては、江戸時代に園家・柳原家・櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の北東部に建設された。

正面玄関の扉には、樹齢700年の福井県産の欅(けやき)の一枚板を使用しています。

引手は銅製で、京都の組紐をモチーフにして絆の意を込めたシンプルなデザインの「有線七宝(ゆうせんしっぽう)」が施されています。

福井産の木は、直径二メートルを超える巨木だったという。

伐採後、三十年ほど眠っていた。

ゆっくりじっくり乾燥した木。
京都迎賓館の設計を担当した日建設計理事佐藤義信さん(五七)は「二つとある木ではない。出会いがすべて」と振り返る。

木目を生かすため、板には何も細工をしていない。
取り付けた最初は、全体が黄色っぽく、むらもあった。

「バタバタした木」と表現する人もいたが「木を知っている者は何も心配しなかった」と佐藤さん。
 
一年半過ぎて、扉は変わった。
色が落ち着き、木目は際立ってきた。
これからまだ変わる、という。時の流れが楽しみになってくる。

天井には吉野杉が用いられ、舟底形の天井になっています。

前方に見えるのが正門。

見学者は西門からはいります。

床板には欅(けやき)材を使用し、特殊な加工を床板に施すことによって、傷がつきにくくなっています。

カーテンは一切使用せず、窓などの内側は障子としています。

池が見えています。

正面玄関で靴からスリッパに履き替えましたが、国公賓客はそのまま靴で歩けるようにと、廊下の板には特殊加工がされているそうです。

賓客はそのまま靴で歩きますが、見学者には厳しいのです、柱に少し触れたら注意されますし、撮影時に膝をついたらだめといわれた。

「折り紙」をイメージした行灯

行灯は本美濃紙を使用し、鉄や釘を一切使わない伝統的技法である京指物で組まれています。

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奈良県立民俗博物館


博物館の周囲に広がる大和民俗公園は、26.6万平方メートルの広大な敷地を有する都市公園で、自然との共生の場、里山も保持している。

梅林や菖蒲園で四季折々の草花を眺めたり、森林浴ウォーキングなども楽しめる。

奈良県内各所で江戸時代に建てられ実際に使われていた茅葺き屋根などの様々な建築様式の家屋(民家・土蔵)11件(15棟)を公園内に移築・展示している。

うち、2件(3棟)が日本国の重要文化財、7件(10棟)が奈良県指定有形文化財となっている。

こちらは唐箕(とうみ)。

風のチカラで穀物の実と、秕(しいな)・籾殻(もみがら)を吹き分ける農具です。

秕(しいな)とは、空ばかりで中身の無い籾(もみ)のことを言います。

必要なものと不要なものを選別する道具というわけですが、お米の国に生まれていながら唐箕のことを知らない人も多いのではないでしょうか。

水車を踏む風景。

奈良盆地のあちこちで、このような風景が見られた。

足踏脱穀機

足踏式脱穀機は、人が踏板を踏むとこぎ胴が自動的に連続回転するように工夫されていた。

その後、こぎ胴を発動機(ガソリンエンジン)や電動機(モーター)で回転させる脱穀機が登場し、脱穀作業の能率は飛躍的に高まった。

千歯扱き、千把扱き(せんばこき、せんばごき、せんばこぎ、せんばすごき)

木製の台に付属した足置きを踏んで体重で固定し、櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲や麦の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳き取る。

稲の場合にはこれで穂から籾が落ちるので、脱穀が完了する。

麦の場合には穂が首から折れて穂のまま落ちるので、これをさらに叩いて脱穀する。

山仕事、過酷で危険な重労働でした。

都市生活者はこのような光景を目にしたこともないのでは。

木馬(きんま)出し(ソリで運ぶ)。

割り木をならべた木馬道の上に、ソリをすべらせ、木を山からおろす。

木馬は枕木と摩擦して火を発することがあるので、木馬師は前に吊るした筒の中の油を枕木に塗りつつ、舵を取っていく。
なかなか重労働で、危険な作業。

こちらは筏流しの様子。

木で筏を組んで川に流します。
山があればそこには川があります。

川も重要な輸送経路であった。

機織りの様子。
日本昔ばなしでなじみがあるかも。

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黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院


金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。
小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されている。

南禅寺の塔頭の1つで、江戸幕府の法律外交を担った僧・以心崇伝が住したことで知られる。

先ず明智門をくぐる。

「金地院」には6つの門がありますが、拝観窓口のすぐ左にある小さめの唐門が「明智門」。

その名の通り明智光秀ゆかりの門で、光秀が母の菩提を弔うために同じ京都にある名刹、「大徳寺」に建立したものですが、明治になってここ「金地院」に移築された。

水連に半夏生が見頃。

苔が見事。




楼門、外部の通路より。

楼門から東照宮への回遊路を望む。

東照宮への回遊路。

東照宮

日本全国には約130もの東照宮が残存するといわれていますが、その中でも徳川家康の遺言に残された3ヶ所の有名な東照宮があります。

本宮である日光東照宮、御遺体が祀られてある久能山東照宮、そして遺髪と持念仏が祀られている金地院東照宮です。

東照宮としての歴史も縁もとても深いのが金地院東照宮です。

軒下に懸け仏。神式建物に懸け仏、どういう意味が込められているのでしょう。


重要文化財。
小堀遠州の作。徳川家康の遺言で建てられ家康の遺髪と念持仏を祀っている。

幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、家康は元和2年(1616年)4月2日、側近の以心崇伝、南光坊天海、本多正純を召し、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。

京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」と遺言したという。

江戸期には京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていた。

拝殿天井の鳴龍は狩野探幽の筆。

36歌仙の額は土佐光起の筆である。


崇伝像(開山堂)

開山堂内。正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置され、奥中央に崇伝像が祀られています。

鶴亀の庭 (特別名勝金地院庭園)

崇伝が徳川家光のために作らせ、作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
庭師は賢庭と伝わる。

本堂(大方丈)は重要文化財。
桁行11間、梁間7間の大規模な建物であるが、平面形式は禅院方丈に典型的な六間取りである。

すなわち前列中央が「室中」、その奥が本尊地蔵菩薩像を安置する「仏間」。

西側は奥が「富貴の間」(衣鉢の間)、その手前が「次の間」(檀那の間)、東側は手前が「鶴の間」(礼の間)、奥が「菊の間」(書院の間)となる。

亀島に視点を移す。

こちらも鶴島と同様に築山に石を組み亀島を表現。

特に築山に植えられたヒノキ科の真柏(しんぱく)が趣ある。
幹が朽ち果て白骨化した舎利(しゃり)となり、まるで盆栽のようだ。

作庭当初からこのような姿だったといわれている。

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南禅寺水路閣


南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。

「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。

現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。

亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。

2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。

伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。

文明開化から間もない1888(明治21)年に作られた、全長93.2m、高さ9mのアーチ型橋脚の水道橋です

レンガ・花崗岩造のレトロな風貌が、禅寺の和の雰囲気と周囲の自然を引き立てます。一説には、ローマの水道橋をモデルに作られたとも。

疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであった。

ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され、91年には送電を開始した。

また水力発電の増強と水道用水確保のため、1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。

同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

当初計画では水路は山の中を通るはずであった。

トンネル工事も特段難工事でもなく、計画は順調に進んでいた。

ところが着工直前、計画部分に亀山天皇の分骨場がある事が判明し、宮内庁からストップがかかった。

そこで、急遽浮上したのが現在のコース。
当時建設場所は今より谷が深かったという。

その谷を少し埋め戻し、更にローマの水道よろしく橋をかけ水路としたわけだ。

関係者の話によると、三井寺、南禅寺と京都市(当初は京都府)との争いは裁判に持ち込まれ、三井寺とは8年前にやっと話し合いが成立したそうだ。

さらに、南禅寺側に立った福沢諭吉は「南禅寺は京都にとって重要な観光資源。
その境内に水道橋を通すとは正気の沙汰では無い。 

末代の恥。
さらに京都の伝統産業にとって疏水がどれほどの役に立つか」と反対したという。

撮影スポットとしては、この場所が人気です。

レンタル着物を着た女性たちがこの風景に入りこむと大正時代? のようなノスタルジックな風景に。

特に秋の紅葉の時期が人気で、秋には大混雑になります。

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