琵琶湖に浮かぶ水城 大溝城


大溝城は新庄城(旧新旭町)にいた織田信澄(のぶすみ)が、天正6年に築城したもので、高島郡内の商家や寺院などを移して城下町を造りました。

本丸の南東の乙女ヶ池は琵琶湖の内湖で、古地図によると、大溝城はこの内湖を巧みに利用した水城であり、「鴻溝(こうこう)城」とも呼ばれました。

江戸時代に分部光信(わけべみつのぶ)が大溝藩主になると、この地を陣屋として12代光謙(みつのり)の明治維新までその統治が続きました。

現在、遺構はあまり残っておらず、わずかに本丸天守台の石垣が残るだけだ。 
この天守台は、野面積みの石垣だが、一つ一つの石の大きさに驚かされる。

けっこう崩れてしまってますが、大きな石がたくさん使われています。
この石は沖の島から筏に乗せて運ばせたと伝えられています。

天正10年、本能寺の変によって、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、明智方と見られて大坂で落命する。

信澄の死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入城する。

元和5年、京極氏に替わり分部光信が、伊勢上野より2万石で入封する。 
この時、元和一国一城令の対象となり、三の丸を残して破却された。 

分部氏は、 残された三の丸に陣屋を構え、明治まで代々この地を治めた。

大溝藩は学問への関心が高く、藩校である脩身堂が開講されました。
日本陽明学の祖とされる中江藤樹は、大溝藩領内の出身で、村民の教育善導に大きな影響を及ぼしました。

大溝城とお初

大溝城は、織田信長が安土に壮大な城を築いていた頃、甥の信澄に築城させた城で、琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んだ水城です。
設計は明智光秀と伝えられています。

浅井三姉妹お初は、京極高次の正室としてこの大溝城で新婚生活を送り、水清く縁豊かな高島、ことに雪深い冬の風物を、厳しい中にも心豊かな郷土として楽しんだ事でしょう。
 
姉妹には数奇な運命を送った姉お茶々(淀殿・豊臣秀吉側室)妹お江(崇源院・徳川秀忠継室)がいます。

お初は名門京極家の正室として生涯を全うしましたが、大坂冬の陣では妹の側にいて家康の側室阿茶の局と共に徳川豊臣の和睦に尽力するなど優れた能力を発揮しました。
 
室町幕府の四職に列した名門京極家の女あるじとして一族の繁栄と家名の維持に努めた戦国時代には稀な才女であったとも言えます。
戦国一の美女と謳われた母お市の方の美貌と知性を受け継いだ初はまた非常な美声の持ち主であったと伝えられています。
 
高次の死後、常高院となり生涯高次の菩提を弔ったあと京極家の江戸屋敷で天寿を全うしました。(享年六十六歳)

常高院(お初)は「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおいて下さい」と遺言に残している。

お初さんの眠る 小浜 常高寺
常高院(お初)は「もし、将来国替えがあっても常高寺だけはこの若狭の地に、留めおい … 続きを読む →

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