白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群


高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になっている道を辿っていくと、草深い山中の墓地の中に鵜川四十八体石仏群はある。

東を向いて静かに並んで座る石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっている。

近年までは、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸に1553年に建立したとの説が有力だった。

京都冷泉家の冷泉為広の「為広越後下向日記」の記載から1491年には既に存在が知られており、さらに地元の古文書「小松之庄与音羽新庄与境論目録=伊藤家文書」に1436年の境界争いの記録に「四拾八躰」の文字が見られることから、従来の説を100年以上遡ることが分かってきた。

その由来は、再び謎に包まれることになりました。

現在、鵜川には33躰安置されており、13躰は江戸時代に移されて大津市坂本の慈眼堂に、残り2躰は行方知れずになっています。

西近江路(にしおうみじ)は、近江国(滋賀県)から越前国へ通じる街道で、古代・中世の北陸道。北国海道、北国脇往還、北国往還、北国脇道とも。1887年(明治20年)に西近江路として県道となりこの名称が定着した。

古より都と北陸を結ぶ道として人の往来が多いだけでなく、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、織田信長の朝倉攻め(一乗谷城の戦い・金ヶ崎の戦い・小谷城の戦い)などでは大軍が移動している。

また、平安時代の遣渤海使もこの道を通るなど、交流の道でもあった。

経路

(古代)

小関越え → 穴多(太)駅(大津市穴太) → 和邇駅(大津市和邇中浜) → 三尾駅(高島市安曇川町三尾) → 鞆結駅(高島市マキノ町小荒路・海津・浦・石庭) → 愛発関(敦賀市疋田か) →

(近世)

大津宿・札の辻(大津市札の辻) → 衣川宿(大津市衣川) → 和邇宿(大津市和邇中) → 木戸宿(大津市木戸) → 北小松宿(大津市北小松) → 河原市宿(高島市新旭町安井川) → 今津宿(高島市今津町今津) → 海津宿(高島市マキノ町海津) → 敦賀宿(敦賀市元町)

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