海上の城 富岡城

富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。

長い腕を海に突き出して、掌をかためて拳固を作ったような地形である。
拳固に当たる鳥山は、111mの標高を持ち、しかも島そのものから今一つ小さな砂嘴が出ていて、固めた拳固に小指だけ出して曲げたような形をしている。

つまりは、城のそばまで舟が入って、その小指状の砂嘴が作る入江の中に泊めることもできるのである。
その入江は「袋」と呼ばれていた。

まことに、うまい呼び方といっていい。

長い腕にあたる砂嘴の上に、城下町が作られていた。

富岡城は、三方というより四方が海で、ただ一条の砂嘴が本土(下島)とを結んでいる。

いざとなればこの砂嘴一筋を固めるだけで、他の防禦は配慮しなくていい。
その点、この城は籠城だけを主題にしている。

平成6年(1994年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。

平成17年(2005年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。
本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。

富岡城 二の丸石垣、天草は、慶長5(1600)年 関ヶ原の戦いの後、唐津の寺沢広高の領地となった。

寺沢氏は天草統治のため慶長7(1602)年から富岡城を築いた。

寺沢氏の支配時代の寛永14(1637)年に天草島原の乱が勃発、富岡城は一揆軍から攻撃を受けるが、寺沢氏の必死の守りで落城をまぬがれた。

天草島原の乱後、山崎家治の領地となる。
この時、幕府は資金を与えて富岡城の修復を命じ、約3年をかけて新たに大手門や百間土手を築き大修理を行った。

その後、鈴木重成代官の天領時代を経て、戸田忠昌支配の寛文10(1670)年に、当地に城は必要ないということで富岡城は破城された。

町では、富岡城の復元整備の際、西側石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認した。

一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆軍との攻防戦の跡が石垣表面に残っている。

二番目の石垣は、この石垣を隠すために急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられる。

手前の石垣は、天草島原の乱後の領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたもの。

このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見ることができる大変貴重なものです。(現地案内板より)

寛永14年(1637年)10月28日(新暦12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応、共に天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。

富岡城代の三宅籐兵衛は1,500人の唐津藩兵を率いて、本渡に出向き一揆軍との戦闘が繰り広げられた。
しかし数に勝る一揆軍により11月14日(新暦12月30日)に三宅籐兵衛は討ち死にした。

11月19日(新暦1638年1月4日)、一揆軍は富岡に迫り城下町と城を攻撃した。
戦死した城代に代わり原田伊予が指揮を執り、猛攻によく耐え11月25日(新暦1638年1月10日)には一揆軍を撤退させた。

一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。

寛永15年(1638年)2月28日(新暦4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。

しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。
なお、堅高は正保4年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となっている。

富岡城跡に復元した二の丸長屋を苓北町歴史資料館(観光交流センター)として開館。

富岡城に関する歴史や、天草島原の乱の解説や展示を行っている。

二ノ丸脇から見る本丸。

西隅櫓。

二の丸から本丸方面を望む。

城の横の二の丸に立てられた4人の銅像。
前の二人には「日本の恩人」、後ろの二人には「天草の恩人」と書いたプレートが像の土台に埋め込まれています。

「日本の恩人」の二人は勝海舟と頼山陽。

「天草の恩人」の二人は鈴木重成と鈴木正三。
「天草・島原の乱」後に天草の人々の年貢軽減を幕府に進言し、天草の復興に大きな貢献をした二人です。

高麗門脇から見た高石垣は見事。

本丸高麗門。

富岡城の地形が龍の横たわっている姿に似ているというので、別名臥龍城と呼ばれる。

本丸から見下ろす二ノ丸。
遙か海の向こうに見えるのは島原半島。

道の駅宇土マリーナ、日本渚百選「御輿来(おこしき)海岸」に隣接した雲仙普賢岳を眺望できる風光明媚なところにあり、絶好の休憩スポットとなっています。

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富岡城へのアクセス、行き方歩き方

熊本県天草郡苓北町富岡字本丸2245-15
0969-35-0170 富岡ビジターセンター・富岡城

JR鹿児島本線、熊本駅下車の熊本交通センターからバス150分「本渡バスセンター」で産交バスに乗り換え、富岡港行バス約50分終点「富岡港」降車、徒歩20分。
本渡バスセンターまでは、島原、熊本、長崎からのフェリー利用、本渡港から徒歩15分で本渡バスセンター。

本渡港へは熊本港からフェリーで1時間、長崎の茂木港からも出ている。または、島鉄フェリー鬼池港より車で15分。

悲劇の城 原城

島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。

今日の天気予報は雨、しかし、まだ大丈夫のようだ。
それより蒸し暑くまるで蒸し風呂に入ったようだ。

普賢岳も雲に隠れて見えない。

原城到着、大きな空堀が目につく。

乱のとき、一揆方はこの空堀全体を巨大な竪穴住居のようにした。
多くの柱を掘っ建て、上に屋根をつくってかやなどでふいたという。

ここに女子供、老人などの非戦闘員が居住した。
もともとこの空堀はふもとの蓮池につながっていて雨が降ると水が溜まり、平素は底の底まで泥だったといわれるから、ながく起居していれば湿気で病気になるものもでたであろう。

一揆から約130年後、この地にある願心寺(がんしんじ)の住職と各村の庄屋たちは、敵味方の関係なく遺骨を集めて地蔵を建立した。

この地蔵は「ほねかみ地蔵」と呼ばれており、「ほねかみ」には「骨をかみしめる」ということから「自分自身のものにする」「人々を助ける」という意味があるそうだ。

地蔵の前には花とともに、お菓子や千歳飴ちとせあめも供えられている。

本丸枡形の入口部分。

内馬場跡。

本丸下の大地を南(海側)に向かって進む。

向こうは早瀬の瀬戸、崖は30メートルほどもあり、崖下には穏やかな海が岩を濡らしている。

本丸下から空堀を挟んで東側は天草丸、ここにも1000人が籠城していたという。

平成12年(2000年)の調査では、国内最大級となる虎口遺構が確認された。
虎口の空間は南北90m、東西80mのほぼ正方形であった。

発掘当初の予想を越える規模であり、全国的に見ても最大級の虎口となる。
また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された。

これらの調査結果から、当時の原城は廃城とはなっていたものの石垣や城門、櫓等の防御施設が存在しており、現在の姿となったのは、島原の乱後の破却によるものと指摘されている。

空堀を挟んで向こうの広大な大地は二の丸、その向こうが三の丸。

本丸櫓台跡からの風景も素晴らしく、北に雲仙岳、南に島原湾、日暮城の名前通り、1日眺めていても飽きないかも知れません。

長くなりますが司馬遼太郎の街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)を引用します。

元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。
世に言う「島原の乱」が勃発したのである。

島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。

この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。

小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。

島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。
天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。

実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。

さらには内戦に至ったのである。

一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。

対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させた。

幕府軍の記録によると、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。

本丸から湯島(談合島)をのぞむ。

凶作にくわえて松倉氏の無惨なまでの年貢の取り立てにより、島原半島では多くの餓死者が出ていました。
領民たちは翌年の田植えに使う種籾すら、奪い取られていったといいます。

かつて有馬氏に仕え、武士の地位を捨てて島原半島に残った帰農武士たちは「この惨状をなんとかしなければ」と密かに話し合いを重ねるようになります。

苦悩していたのは島原半島の領民だけではありません。
関ヶ原の戦いで敗れたキリシタン大名・小西行長に代わって唐津領主・寺沢広高に治められていた天草の領民も、重い年貢と信仰の禁止に苦しんでいたのです。

そして天草では、宣教師が残した「天変地異がおこり人が滅亡に瀕するとき、16歳の天童があらわれ、キリストの教えを信じるものを救うであろう」という予言が注目を集めるようになります。

かつて小西行長の家臣であったキリシタン浪人たちは、その予言の下に結束するようになりました。

島原半島の帰農武士たち、そして天草のキリシタン浪人たちが集まったのは、それぞれの地の間に浮かぶ湯島でした。
彼らはここで談合を行い、一揆を図るようになるのです。

旧暦3月と8月の最干潮時に、南島原市の原城本丸沖合に白洲(リソサムニューム礁)といわれる浅瀬が姿を現します。

この浅瀬は珊瑚と異なり極めて珍しい植物の一種、学名「リソサムニューム」が繁殖してできたもので、普段は海中に沈んでいて見ることができませんが、最干潮前後にはその一部が浅瀬となって現れ、船で上陸することができます。

世界中でも珍しく、インド洋、イギリス海岸と原城沖の3ヶ所でしか見ることのできない貴重な場所です。

島原の乱の当時は、島原半島には司祭も助祭もおらず、要するに一人の神父もいなかった。
かれらがかついだ天草四郎時貞は、司祭でも助祭でもなかった。
カトリック世界から孤立しているという意味においても、島原ノ乱の一揆方は、悲壮な存在であった。

かれらの死はローマに報告されることなく、むろんのちのち日本側の資料によって事件は知られるようになったが、正規に殉教として認定されることはなかった。

切支丹はその盛んなときも、時の権力者に抵抗したことはなかった。
もし島原ノ乱の死を公協会が殉教であるとすれば、地上の君主への抵抗を追認することになり、ぐあいのわるいことになる。

池尻口門跡。枡形虎口に比べると、あまりに小さな虎口である。

本丸にある天草四郎の墓碑。「○保○年 天草四郎時○○ ○二月○二十八○母」などと書かれている。
かつて西有馬町の民家の石垣内にあったものを、この場所に移したものであるという。

本丸から島原方向を見たところ。籠城衆も同じ景色を見ていたことであろう。
来る当てのないポルトガルからの船を待ち続けます。

海上にオランダ船が出現して砲を打ち出したことは、一揆方に衝撃を与えた。

「これは国内戦ではないか。外国の武力を借りるとはなにごとか」という気概を込めた矢文が、一揆方から幕府陣地に射込まれている。

原文は、日本国中に然るべき武夫の何程も候はんに、和蘭人の加勢を乞ふこと、如何なることに候か。
心得られぬことなり。

という。
幕府こそ愧ずべきであろう。

本丸北側。

本丸城塁下の崩された石垣。乱後の破城によるものらしい。わりと大きな石材で、まさに近世城郭のそれである。埋め込み石や瓦も大量にあったとのことで、城塁上には瓦を伴った建造物があったことが分かる。

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原城址へのアクセス、行き方歩き方

住所:長崎県南高来郡南有馬町
電話:(0957)85-2153 原城観光協会

原城駅より徒歩15分

キリシタン大名大村氏の居城 玖島城

藤原純友を祖とする大村氏は鎌倉時代よりこの地の地頭として、大村地方を領有してきた。

新蔵波止、1686年、幕府が官米3千石を筑前から運んで預けたとき、二棟の新蔵を建て、この波止を築いた。

以後、藩船などの発着に利用した。(現地案内看板より)

新蔵波止から板敷櫓を望む。

大村湾に突き出した新蔵波止。

城は大村湾に突き出した半島に築城された平山城で天守は建造されなかった。

現在は大村公園となっており、天然記念物のオオムラザクラや菖蒲など季節折々の花が咲いている。
日本さくら名所100選に選定されている。

石垣が現存し、1992年(平成4年)には板敷櫓が再建されている。

大手口にある穴門、大手門を入った東側にあり、入口の高さは3mほどもある。
海(南)に面した大手口だけではなく、陸(東)からの通路を確保しておき、有事には機動的に兵を動かすことが目的だったのか。

大手の枡形。

1587年(天正15年)、時の領主であった大村喜前(嘉前)は豊臣秀吉の九州征伐の際に、秀吉軍に参陣し領土を安堵された。

喜前はキリシタン大名であったが、秀吉の圧力により改宗した。
1598年(慶長3年)の秀吉死後、政情不安に備えて玖島城の築城に着手。

翌1599年(慶長4年)、三城城から居城を移す。

二の丸跡。

江戸幕府開府後も領有し、大村藩(2万7000石)として明治維新まで存続した。
城はその藩庁としての役割を果たした。

本丸石垣。

1614年(慶長19年)より純頼によって拡張・改修され、この際、加藤清正により設計指導を受けたとされる。
清正による指導を受として、美しい扇の勾配をもつ石垣が見られる。

長年の人の通行で摩耗が激しい。

本丸跡は大村神社の境内となっており、築城者である大村喜前の遺徳碑や最後の藩主となった大村純熈の像がある。

武者走り、土塀はすべて再建されたもの。

狭間、外側になるほど狭くなっており、内側にいる射ち手からは動きやすく、敵からは狙いづらい造りとなっている。

「貝吹石」、萱瀬村から寄付されたもので、龍造寺晴信から萱瀬村がおそわれた時、同村の郷士等が砦に籠もり、この石の穴を吹いて合図の陣具に代用し、敵を退けたという伝説がある。

搦め手門。

城内より搦め手門を見る。

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玖島城へのアクセス、行き方歩き方

長崎県大村市玖島1(大村公園)

JR大村線、大村駅下車、徒歩10分。または、大村バスターミナルから「諫早方面」行バス7分、「大村公園入口」降車すぐ。

肥前の海城 唐津城

今日から肥前、肥後、5ヶ城歴訪の旅の始まりだ。
島原の乱関連地ばかりを訪れることになる、最終に総括がいるかなと意気込むが・・・・・

毎回、九州シリーズは夕日、朝日をお届けするのだが今回は残念だがありません。
天気予報は曇りまたは雨の予報ばかりで空には重い雲が、ただ、湿度は異常に高く気がめいるほど蒸し暑い。

最初の訪問は唐津城、三年目の訪問だ、前回訪問時は天守の石垣の工事をしていた。
100円払ってエレベータを使う手もあるがここは徒歩で。

樹齢100年のフジの古木の下は虎口がある。

2013年8月訪問時には天守はクレーンで持ち上げられていたっけ。

今回訪問時はご覧の通り立派に補修が完了している。

文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。
広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。

慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成した。

北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海にそびえる石垣がみられる

満島山を中心に鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。

天守からの玄界灘の眺め、目の前は宝当神社のある高島。
1990年代にある住民が宝くじを購入した際、神社名にあやかりこの神社に当選を祈願したところ高額当選した事をきっかけに、「この神社に祈願すれば宝くじが当たる」という評判が立つようになった。

現在も石垣の補修、庭園の補修工事が行われている。

工事現場を見ると石垣の裏側の構造がよくわかる、このような対策をしたうえで石垣が崩落しないような対策が取られている。

広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。
これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。

寺沢広高が残した日本三大松原、虹ノ松原、本来は二里あるので二里の松原と言ったとか。

今日のお昼は画像に見える唐津シーサイドホテルでいただくことになっている、楽しみだ。
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寺沢広高のこと

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行にまで出世した。

奉行時代の1594年にキリシタンに改宗したが、1597年の日本二十六聖人処刑を契機に棄教。

貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や兵力輸送の任を務めた。
小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。

唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。
他方、当初はキリシタンの弾圧を公然とは行っていなかったが、1614年の禁教令以後、厳しく棄教を迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになった。

慶長6年(1601年) 、関が原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。

このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子堅高の代に島原の乱(1637年~1638年)が勃発する原因の一つとなった。

広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。
堅高は、正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となった。

しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには万治2年(1659年)まで掛かった。

更に寛文11年(1671年)、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。
これは当初から⌒判っていたことで幕府の失政の一つだろう、最初から天領であれば島原の乱は無かったか。

ただ、寺沢家は2代で断絶となり、唐津藩は大久保、松平、土井、水野、小笠原と徳川家の重臣たちが交代で治めたため、広高を伝える公文書も、肖像画もほとんど残っていない。

親友との約束

若い頃、親友の安田国継と立身出世を夢見て、どちらかが国主になったら一方は10分の1の禄をもって家臣にしようと約束した。

広高は秀吉、国継は明智光秀に仕え、光秀が本能寺の変を起こして織田信長を殺し、国継はその時に信長に手傷を負わせたために以後は転落する人生を送ったが、広高は順調に出世し、8万石の国主時代に10分の1の8000石で国継を召し抱えて約束を果たしたという。

寺沢広高は明智光秀の三羽烏の一人安田作兵衛が浪々の身であるのを哀れみ、家来として召し抱えたという話は有名で、天守の二階には本能寺の変のとき、織田信長に傷を負わしたという安田作兵衛の槍が展示されている。

寛永10年(1633年)死去、享年71

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唐津城へのアクセス、行き方歩き方

佐賀県唐津市東城内8-1
TEL 0955-72-5697

JR唐津線線唐津駅~徒歩約15分

大友、龍造寺拮抗の城 久留米城

室町時代後期の永正年間(1504年 – 1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。

天文年間(1532年 – 1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。

この時代は豊後国の大友宗麟(筑後守護でもあった)と肥前国の龍造寺隆信が争っており、この地は双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。

蜜柑丸から東御門跡を見る、右側は月見櫓跡。

月見櫓の高石垣、見事。

角度を変えてもう一度高石垣を見る。

本丸の規模は東西約96.4メートル、南北約156.4メートル。
石垣の高さは約14メートルから15メートル。

本丸は中央に本丸御殿、それを取り囲むように7棟の櫓が上げられ、ほぼすべてが多門櫓で連結されていた。

東御門跡目指して上る。

登り切ったところが本丸御殿跡。

本丸御殿、久留米城の中心となった建物で、内部では歴代藩主が政務を執っていた。

明治7年(1874年)廃城令によって廃城処分となり本丸御殿も解体された。

その後、明治10年(1877年)本丸御殿跡地に篠山神社が建造された。
本丸の中心部に位置しており、現在は篠山神社の神殿・拝殿が置かれている。

月見櫓(つきみやぐら)、城の東隅に置かれていた二重櫓、先ほど見上げた高石垣の上に建っていた。

東御門(月見櫓御門)のすぐ東側の上に位置しており、すぐ南側に蜜柑丸がある。
現在は石垣と石碑だけが残っている。

艮櫓(うしとらやぐら)へ向かう。

艮櫓(うしとらやぐら)城の北東に置かれていた三重櫓。
「丑寅(うしとら)(北東)」の方向に置かれたことから「うしとらやぐら」と呼ばれている。

乾櫓(いぬいやぐら)城の北西に置かれていた三重櫓。
「戌亥(いぬい)(北西)」の方向に置かれたことから「いぬいやぐら」と呼ばれている。

現在は土塁だけが残っており、7つの櫓の中で石垣が現存していない櫓はこの乾櫓だけである。

大井戸(おおいど)、固い岩盤をくり抜いて作られた井戸で本丸御殿の北西側にある。

本丸には他にも2つの井戸が存在したが、現在は1つしか残っていない。
現在は危険防止の為に金網が張られている。

解説を見て初めて分かる。
「芭蕉塚」とあるから、句碑というより墓碑なわけだ。

[俳句]
 まず頼む 椎の木もあり 夏木立         芭蕉
[現代誤訳]
 夏の日差しも夕立も遮ってくれる大きな椎の木もあるなあ、この幻住庵の木立には。

てっきりこの久留米城で松尾芭蕉が詠んだ句だとばかり思っていたが、芭蕉は九州に来たことはない。
にもかかわらず、九州にはこの芭蕉塚がたくさんある。謎の句碑である。

ネットで調べたところ、謎が解けた。

芭蕉は、『奥の細道』の旅の後、今度は九州へ下る途中で、大阪で客死した。
師の遺志を継ぐために、芭蕉の高弟たちが次々に九州を訪れたということだ。

芭蕉を尊敬する俳人たちは、彼を弔うため、各地に塚を建立し供養したらしい。
だから、芭蕉の句碑は「塚」と呼ばれるのだ。
福岡県下には何と68基もあるらしい。

明治10年(1877年)本丸御殿跡地に建造された篠山神社。

二つしか見つかっていないもう一方の井戸、御台所(南西)に位置する場所にある。

この城の南隅にあたる位置にあったのが太鼓櫓(たいこやぐら)。
冠木御門の左手に位置し三層建てとなっている。

冠木御門(かぶきごもん)、久留米城本丸の正門(南側)の役割を果たしていた門。

虎口は桝形の形をしており、土橋を渡って南正面に置かれていた。
現在は石垣が現存しており、周囲には水堀が張っている。

久留米城へのアクセス、行き方歩き方

福岡県久留米市篠山町412

JR鹿児島本線、久留米駅下車、北東に約800m。または、西鉄バス「大学病院前」降車、徒歩2分。

筑前の小京都 秋月城址

鎌倉時代に 原田種雄が秋月の庄に入り 「秋月」を名乗ったが、 江戸時代になって黒田長興が秋月5万石の領主となり秋月城を築いた。

小さな橋の上から野鳥川の清流。

かっての藩士の登城道である「杉の馬場」通りには、藩校「稽古館」や、秋月郷土館が建っている。

秋月氏16代種実の時代、大友宗麟に何度か攻められるも、毛利元就の援軍もあり撃退、秋月氏は最盛期を迎えた。

しかし1587年の九州征伐に乗り出した豊臣秀吉に敗れ、秋月氏は日向国高鍋に移封された。

これにより、秋月城は廃城となる。

寛永元年(1624年)、福岡藩主黒田長政の三男、黒田長興が福岡藩2代忠之より夜須・下座・嘉麻の範囲で5万石を分封され、長興は、九州征伐以降廃城となっていた秋月城を大幅に改修し、陣屋を置いた。

以後、黒田氏12代が明治まで治めた。
明治6年(1873年)の廃城令によって廃城となり一部を残して撤去された。

秋月城北西隅部の櫓台石垣。
ここには隅櫓が構えられていた。

中学校正門へ至る坂道から見た堀と瓦坂。

かつては大手門が位置し(今は渡れません)、南側に裏門を構えている。
大手門は枡形となり、その奥に表御殿があったが、現在では中学校の敷地となっている。

瓦坂、瓦を縦に並べて土の流れを防いでいる。

石段を上がったところが長屋門、右脇は櫓台石垣。

雨に濡れきれいに輝く緑の階段をもう一段上がる。

かつて表御殿、奥御殿があった城の中枢部は現在、中学校敷地。

アジサイの咲き乱れる小道をさらに進む。

まだまだ登りは続く。

上りきったところにあるのが、秋月城本門(黒門)、この門は、2回移築されている。

もとは秋月氏の本城である古処山城の搦手門で、それが秋月藩の成立後(1623年)、秋月城の大手門として、現在の秋月中学校前の瓦坂の奥に移されたといわれている。

さらに明治13年(1880)、垂裕神社の門として現在の場所に移された。
まさにこの門は、中世以来の秋月の歴史を見つめてきている。

さらに上る。

明治期に廃城となり払い下げられた後、現在跡地には黒田長興を祀った垂裕神社(すいようじんじゃ)が建てられている。

境内には楓の木が多く、周辺は紅葉の名所としても有名。

秋月郷土館入口(戸波家長屋門)、秋月の歴史資料と美術品を公開する総合的な郷土の資料館。

秋月藩の上級武士だった「戸波家」の屋敷地と藩の学校「稽古館」の跡地を用いた郷土館内には「戸波家」の旧家屋と庭園の回りに、郷土美術館と二棟の歴史資料館が配置されている。

「戸波家」の庭園。

藩校「稽古館」跡地に建つ郷土美術館。

芝生が美しい郷土美術館。

蘭学を修めた緒方春朔(しゅんさく)は天明年間に秋月藩の藩医となり、1790(寛政2)年人痘種痘法によって天然痘予防を成功させた。

これは イギリスのエドワード・ジェンナーが 牛痘種痘法を確立するよりも6年も前のことである。

この碑は緒方春朔を顕彰するために地元の医師の集まり“春朔会”によって2004年に建立された。

杉の馬場に草木染の店があった、秋月の街そのものが草木染にぴったしの感じがする。

朝倉市のマンホール、福岡市の水がめということで、ダムが描かれています。

こちらのマンホール、秋月城の黒門ともみじが描かれています。

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秋月城址へのアクセス、行き方歩き方

福岡県朝倉市秋月野鳥
0946-24-6758 あさくら観光協会
0946-52-1428 朝倉市 商工観光課

甘木鉄道甘木駅から秋月行きバス約20分「郷土館前」下車徒歩約10分

細川忠興が築城の小倉城

小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てた。

一路西へ新門司港目指すフェリー、今、周防灘を航行中、とっくに日の出の時刻は過ぎたが曇り空が続く。

松本清張記念館、清張死没を受け、生前の功績を称え後世に語り継ぐことを目的として、清張の郷里である小倉北区に記念館を建設することを決定。

小倉城址域の南西端の一角に1998年(平成10年)8月4日開館。

西の口門を入る。

西ノ口門を入って右手に松の丸がある。

ずっと奥の建物は白洲灯台の模型。

若松海上保安部が管理している白州灯台は、豊前国企救郡長浜浦(現在の北九州市小倉北区長浜町)の庄屋「岩松助左衛門翁」が白州周辺の絶えない海難を防止するため私財を投げ打って白州への灯台建設に奔走し基礎部を完成させたものの志半ばで死去、以降明治政府に引き継がれ完成したもの。

岩松助左衛門翁の功績を後世の市民に伝えるため、小倉城に翁が設計した白州灯台を模した塔が建てられています。

黒門跡。

こちらの槻門は城主や家老など限られた人が使っていた正門。

大手門跡、模擬天守の一部が見える。

大手門は桝形を形成している。

小倉城で特徴的なのはやはりこの天守だ。
小倉城の天守は南蛮式の天守として築城当時話題となり、多くの城郭建築家が参考にするために見に来たという。

津山城や高松城の天守は、この小倉城の天守を模したものと言われている。

天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。

大天守は最上階外廻縁が幕府への遠慮により重数を少なく見せるために、また、雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。

最上層の入母屋破風を除き、破風の一切無いものであった。

模擬天守構築時、本来なかった破風を付けたことにより、日本100名城指定が見送られたとの説もある。

前方にある二基の大石は江戸時代、古船場の中津口門の石垣で、細川忠興が慶長7年 (1602)に小倉城を築くとき大谷から運んできた。

大石は上富野で動かなくなり、忠興は頭の富岡某を手打ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。
 
村人は富岡を哀れみ地蔵堂を建て供養した(現在この富岡地蔵は、安全寺に安置されています) これを聞いた小笠原四代藩主忠総は「二つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。

石の大小は勝負にかかわらぬ」と言ったという。

これを「細川の大石」「小笠原の割石」 と言った。

明治になり中津や築上の青年が多数小倉に来た。
門を入る時、大石をにらむと成功するといわれ一心ににらんだ。

「大石にらみ」といいます。
 
中津口門を解体した明治34年に、藤井昇吉が三本松の高倉稲荷に大石を移しました。
 
平成12年に高倉稲荷は八坂神社に合祀されたので石も移しました。

リバーウォークの横にひっそりと「乃木希典居住宅の跡」と書かれた碑が建てられている。

八坂神社の山門、実に立派だ。

城の石垣は中世に多く用いられた「野面積み」といい、主に当地の足立山系から運び出した自然石(野面石)を使用、戦国大名で乱世を知る、忠興の自慢の一つであったといわれる。

多聞口門跡。

此方もやはり桝形が形成されている。

旧第十二師団司令部の正門が残る。

大砲は、幕末の長州との戦争で、長州軍が小倉城を砲撃した際に使用したものであるという。

天守内部は小倉城に関した歴史資料や城下を再現したジオラマなどが展示されているがほとんどが撮影不可で残念ながら皆さんにお伝えすることができません。

これは「迎え虎」。

筆者は宇佐神宮の抱え絵師、佐藤高越画伯。
絵の大きさは、高さ4.7m×幅2.9m。日本最大級とか。

物凄い迫力で、圧倒されてしまう!
ちなみに、この絵は、何処から見ても、こちらを見ているように見えるとか。

西側の堀、忠興自慢の石垣が続く、そしてアジサイが咲き誇る。

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小倉城へのアクセス、行き方歩き方

福岡県北九州市小倉北区城内2-1 勝山公園内
093-561-1210

JR小倉駅下車徒歩20分、JR西小倉駅下車徒歩10分
西鉄バス「北九州市役所前」下車徒歩約5分

宗氏の居城 金石城

金石城は、文禄・慶長の役の際に築かれた清水山城の麓に位置する平城で、宗氏の居城だった。

金石屋形を、朝鮮通信使を迎えるために、近世城郭に改築したといわれ、石垣や堀切が廻らされたが、天守は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用としていた。

城内の一角には昭和63年(1988年)に台風によって倒壊した桟原城大手門(通称、高麗門)が移築復元されている。

万松院宗家文庫に保存されていた模型を基に、1990年(平成2年)、旧厳原町の “平成の城下町づくり事業”の核として、古写真や模型などに基づき木造によって二重の櫓門が再び復元された。

藩主の屋形・金石城跡の背にそびえる清水山の頂上から町中に向かって稜線上に、断続的に城壁の跡と思われる石塁が遺っている。

延長600㍍、横幅はせまく、頂上部から、一の丸、二の丸、三の丸と通称される「郭」があり、それぞれ展望のきく位置にあるが、特に一の丸は厳原港と府中城下が見渡せる恰好の景観をとらえることができる。

最後の朝鮮通信使は、1811年に渡来しました。
迎える正使は、小笠原藩。副使は脇坂藩でした。

李王家宗伯爵家ご結婚奉祝記念碑、朝鮮国王高宗の娘・徳恵姫が、旧対馬藩主・宗家当主である宗武志伯爵のもとへ嫁いだことを記念し、1931年に島内の朝鮮の人々によって建てられた記念碑。

戦後、李家からの離縁要請や徳恵姫の精神状態の悪化などもあり、両家は離婚し、記念碑自体撤去されていましたが、平成13年に清水丘(旧金石城庭園近く)に復元されました。

享禄元年(1528)の内乱で、「池の屋形」は炎上消失した。

脱出した宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側は空いていたので、そこに新しい屋形を築きました。
それが「金石屋形」です。

城跡は、国の史跡に指定されており、城内で発掘調査された庭園は国の名勝に指定されている。

旧金石城搦手門櫓台。
万松院山門の手前にあり、橋を渡ると庭園に至る。

金石城庭園の西側は長く続く見事な石垣が残っているが、手入れが悪く草ぼうぼうで見る影も無い。

高麗門の近くまで来るとやっと石垣が姿を現わす。

対馬府中藩は、当初は肥前国内1万石を併せて2万石格であったが幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代藩主宗義智以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。

しかし、山がちで平野の少ない対馬では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、肥前国の飛び地をのぞくと実質的には無高に近く、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。

対馬では、作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。

また、石高制に代わって「間高制」(けんだか・せい)という特別の生産単位が採用された。

対馬歴史民俗資料館の脇に珠丸爆沈の碑がある。

1945年(昭和20年)10月14日、戦争中の機雷による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた九州郵船の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった(珠丸事件)。

この日は、連合国軍総司令部による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で釜山港と博多港のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。

対馬歴史民俗資料館の庭に雨森芳洲の碑がある。

長寿院(ちょうじゅいん)の裏山を少し登ると、対馬藩に仕え朝鮮外交に尽力した雨森芳洲の墓があります。

彼は朝鮮語、中国語が堪能でした。
『海游録』にもその名はたびたび登場し、使節に同行しながら、申維翰と丁々発止のやり取りを展開していきます。

申維翰との関係については、“油断はできないが、互いを認め合う外交官同士の付き合い”といったところでしょうか。

芳洲はそれぞれの国の事情や立場を尊重する国際人であり、朝鮮通信使の応接になくてはならない人材でした。
平成2年(1990)、当時来日中の盧泰愚(ノテウ)韓国大統領が、宮中晩餐会の答礼の言葉の中で、朝鮮の玄徳潤(ヒョンドギュン)とともに雨森芳洲の「相互尊重」の外交姿勢を讃えています。

芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わり」と方針を説き、朝鮮外交と友好親善に務めたのです。

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金石城へのアクセス、行き方歩き方

長崎県対馬市厳原町今屋敷670-1
0920-52-1566 (対馬観光物産協会)

厳原港から徒歩約16分

飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城 金田城を訪ねる

金田城(かねだじょう、かねたのき)、663年の白村江の戦いに敗れた倭国は唐・新羅に対する防衛のため、西日本各地に防衛施設を築いた。
その一環として、667年に対朝鮮半島防衛の最前線として対馬国に築かれた古代山城(朝鮮式山城)。

後ろに鎌足の姿が見え隠れする。

黒瀬湾ビューのお楽しみながら城壁をめざす。
今回の旅のメインイベントだ。

城壁にたどり着く、ここから転げるように三の木戸目指して下る。
木々がうっそうと生い茂るなかに石垣が続く。
それはまるで小さな万里の長城のようにも見える。

下り坂の途中に掘立柱建物跡がある。
整地された平場に岩盤に掘り込んだ8個の柱穴が確認された。

建物の面積は約8.5㎡で7世紀後半の土器などが出土した。
防備兵の詰所、見張り場や南門守護の役割が推定される。

眼の前は黒瀬湾、断崖絶壁の中を進む。

金田城(かねだじょう、かねたのき)は、対馬の中部にある浅茅湾の南岸に突き出た標高275メートルの城山(じょうやま)に位置する。
山頂部に石塁、山の周囲を取り巻くように石垣が築かれている。

南東麓は比較的緩やかな斜面で、海に通じる三本の谷(北から順に「一の城戸」「二の城戸」「三の城戸」)には城壁が残っており、さらに水門と城門が設けられていたと考えられている。

また、また、山頂付近には、旧日本陸軍の砲台跡がある。

さらにここからまっさかさまに落ちるように三の木戸目指す。

三の木戸到着。

残された石垣跡を見て回る。

木戸跡も確認できる。

ここから、ビングシ山、二の木戸を目指してアップダウンの道を進む。

ダラダラした登りが続き、息が切れる。

「二の城戸」と「三の城戸」の中間に位置する「ビングシ山」周辺から複数の建物跡が検出されており、防人宿舎など中枢機能があったと考えられている。

ビングシ山に残る城門礎石。

現在修復作業が進む二ノ城戸。

二ノ城戸城門跡。
海岸への見通しが良く、ほっとする。

整備が整っている。
1間×3間の礎石建ての門跡が発見された。

城内は面が平な石を敷き詰め、両側には一部階段も残っていた。

急峻な絶壁に残る石垣。

一ノ城戸の石垣。

野面積みながら加工された巨石も見られる。
突出部(張出し)がある本格的な城壁である。

右下には水門の穴も見える。

ここから折り返し、今来た道を辿る、2時間強のかなりきついトレッキングでした。

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金田城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長崎県対馬市美津島町黒瀬

公共交通なし。
厳原フェリーターミナルから車で約30分。

登山口から山頂まで徒歩約40分、一周すると2~3時間(一部道が分かりづらく、遭難注意)。

豊後路の小京都へ杵築城を訪ねる

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。
台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。

駐車場脇の入り口から台上の城を目指す。

昭和45年に3層の天守閣と築地塀が復元され、国東塔や五輪塔を集めて古代公園が造られている。

戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。

城跡は、公園として整備され、山上の天守台跡に博物館と展望台を兼ねた模擬天守が建てられている。

市の中心部に今のような城下町がつくられたのは、松平英親が入部してからといわれ、その繁栄を背景とした美しい町並や武家屋敷群が今日に残り、城下町は、南台・北台と呼ばれる高台に侍屋敷を、その間の谷川に沿って町屋を配し、これらの高台を結んで、志保屋の坂、酢屋の坂、勘定場の坂などがある。

杵築は北台、南台、という2つの台地に武家屋敷を配置。

現在も北台武家屋敷には藩校をはじめとする当時の建物が数多く残っており、そして台地の下には町人の町並みが残っている。

勘定場の坂を見上げる。

杵築城から北台武家屋敷を結ぶこの坂は、江戸時代、収税や金銭出納の役所があったことからこう呼ばれた。

坂の上からお城の方角を眺めると、天守閣が見えてくる。

「勘定場の坂」は、ご城下にあって最も城に近い坂でもある。

石段53段の坂は勾配24度の傾斜を持ち、石段の蹴上がり15㎝、路面は1.2m。お城勤めの家老たちを運ぶ馬や駕籠(かご)担ぎの歩幅まで計算したものだという。

まっすぐに延びた石畳は素朴さの中にも堂々とした風格で続いている。

振返り登ってきた坂を見る。

藩主および武士が通行した坂で広く、前面にゆるやかな傾斜がある石段は、駕龍かきの足に合わせて造られています。また、側溝には上からの水が一気に流れないよう工夫されています。

城下町の風情が良く残っていて、城下の北台 ・南台武家屋敷あたりを散策。 
勘定場の坂~藩校(藩校の門が現存)~酢屋の坂へのコースがお奨めだ。 

坂と石の階段、武家屋敷の土塀・・・江戸の風情を堪能できる。

台上にあるため、モータりぜーションの波を逃れることができたものと思われ、当時の屋敷などが色濃く残されている。

藩校学習館は1785(天明5)年、七代藩主能見親賢公が設立したもの、現在は杵築小学校になっている藩校の跡。
門や建物が残っています。

杵築藩家老を務めた大原邸など見学したい使節は沢山あるが、今回は素通り。

こうしてみると「北台」自体が一つの城郭のような印象を受けます。

坂を下りたところに酢屋があったことから、酢屋の坂と呼ばれるようになりました。

南台の塩屋の坂と対照的に作られており、南北の高台に武家屋敷が並び、その狭間に町屋が軒を連ねるサンドイッチ型城下町の形がよくわかる杵築の代表的な坂です。

パンフレットで着物姿の美人を配した写真をよく見ますが、坂下からは若いお嬢さんたちが上がってきます。

土塀と石垣の調和がとれた美しい石畳の坂道で、上り詰めたところにあった広場では、騎馬、武士の共揃えの場所になっていました。

また、坂の上が広く下が狭くなっているのは、上からは攻めやすく下からは攻めにくくするために工夫された造りといわれています。

北側の「番所の坂」には番屋が復元されています。

灯籠に灯が入り、いい雰囲気です。

マンホールの蓋は、守江湾に生息している貴重なカブトガニと、 それを守ろうと両手で包み込むデザインになっている。
旧市章入り。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

杵築城へのアクセス、行き方歩き方

大分県杵築市杵築16-1
TEL:0978-62-4532

JR日豊本線、杵築駅下車、杵築バスターミナル行バス12分「終点」降車、徒歩10分。