天空の城 備中松山城の雲海

雲海を観ようと備中松山城を見下ろせる大松山の展望台へと向かう。
以前のの記事備中松山城 日本一高所にある山城
頼久寺 小堀遠州作庭の枯れ山水の庭
高梁の街並み 紺屋川周辺・武家屋敷通り散策も参照ください。

眼の前に広がる雲海。

しかし何か物足りない。

地元の人によると天守の向こうの反射板が見えてしまうと撮影をやめることが多いという。
たしかに反射板が見える頃には雲海の量も乏しく、天守閣の上にあってちょっと邪魔ということなのかもしれない。

しかし、今日は最初から反射板が見えている、これでは雲海とは言えないのだ。

仕方ないのでレンズを少し東へ向け、明け行く雲海を撮る。

7時過ぎ、東の山の端から日が差してきました。
地元の人に聞くと天守が赤く輝く、この一瞬が一番いいらしい。

天守も紅く染まっていきます。

雲の上から姿を覗かせる天守を眺め、備中松山城が日本三大山城の一つに数えられる理由を実感したかったのだが・・・・・・

朝日に照らされる天守、天守東面と北面、右側に二重櫓が確認できる。

後ほど松山城へ登り、ボランティアガイドのおばさんに「雲海観てきたよ」というと、「今日の天候では雲海は出ないだろ」
「いや、見えたよ」「見えたとしても条件の悪い時のもので地元ではそういの雲海とは言わないよ」

おばさん、見なくてもわかっているのだ。
しかし、せっかく喜んでいるんだからもう少しやさしく言ってよ。

松山城には与謝野寛(鉄幹)の歌碑が残されている。。
『松山の渓を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる』

昭和4年秋に与謝野鉄幹・晶子夫妻もここを訪れたそうで、雲海に感動し、詠んだものだろう。

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東北地方唯一の現存天守を持つ桜の名所 弘前城

弘前城(ひろさきじょう)は、別名・鷹岡城、高岡城。

津軽統一を果たした初代藩主津軽為信が慶長8年(1603)が築城を計画、2代藩主信枚によって完成した。

亀甲門(かめのこもん)/北門
北門はまたの名前を亀甲門と呼びます。

中国の古い言い伝えによると、北方の守護神として玄武という亀の神様がいたとされており、お城の北側にある門の別名が亀甲門とされたのは、この伝説に由来していると言われています。

築城後間もなくはこの門が弘前城の正門とされていましたが、やがて追手門が正門となり、この北門は裏門の扱いとなりました。

北門を入ると、広大な四の丸が広がる。
桜祭りにはお化け屋敷や遊具施設などが並ぶ。

「賀田橋(よしたばし)」
藩政時代は、戦になると敵の侵入を防ぐため壊される架け橋でした。

賀田御門跡。
北門を入り四の丸から城内へ向かう箇所にある門。
かつては賀田城(大浦城の別名)の大手門が移築されていた。

二の丸丑寅櫓 【国重要文化財】1610(慶長15)年築。

二の丸跡。

北の郭方面。

二の丸東門与力番所
城内の主要箇所に設置された見張り場所で、かつては12箇所にあったといわれています。

現存する二の丸東内門の与力番所は、江戸時代中期に古材を用いて再建されたものと考えられています。

東東内門は慶長15年(1610)に建てられたもので二の丸東内側の枡形に位置しています。
覗き窓や通用門が設けられ乳金物や八双など強度のある金物を使用しています。

2層目は櫓と同様な機能があり正面には鉄砲狭間や物見があり実戦になると兵士が詰める場所になっています。

下乗橋

天守は下乗橋付近からの撮影がベストポイント。

本丸南虎口石塁に据えられている巨石の「亀石」。

陣羽織

岩木山は雲に隠れてほとんど見えません。

城内の発掘現場。

岩木山のビューポイントですがご覧の通り。

中濠の向こうは辰巳櫓。

独り言

司馬遼太郎氏の「北のまほろば」に「日本七名城の一つと言われるが、」とあるが七名城がどことどこを指すのか不明。
ネット上でも盛んに引用されているがどのサイトを見ても内容不明。
有名人のいい加減な引用を信じて言葉が独り歩きしているのでは・・・・・

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弘前城へのアクセス、行き方歩き方

住所:青森県弘前市下白銀町1
電話:0172-33-8739(弘前市商工観光部公園緑地課)

JR奥羽本線 弘前駅 徒歩約25分

近代築城技術の粋を尽くす美しき巨城 姫路城

姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。

江戸時代以前に建設された天守が残っている現存12天守の一つで、ほぼ中堀以内の城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。

堀の向こうに平成19年に再建された桜門橋が見えてきました。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっています。
昔は「桐の二門」と呼ばれた。

明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。
この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城と共に国費によって保存される処置がとられた。

「世界遺産 姫路城」の文字を前面に、修理中の天守閣が見えてきました。
西小天守、乾小天守を従えた立派な姿が想像されます。

別名、羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから 出世城。

幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから 不戦の城。とも呼ばれる。

菱の門  
姫路城の入口となる門。
両柱の上の横たわる冠木と呼ばれる木に、菱の紋が彫られていることからこの名が付いた。

櫓門とも呼ばれ、姫路城の中でも、最も大きな門である。
国内を見ても、その大きさは最大級とか。

伏見桃山城から移築したと伝えられ、全体に安土桃山時代の華やかな様式を残している。

門をくぐるとすぐ右手に三国濠がありその上に天守が見えます。

いの門
菱の門をくぐってまっすぐ前にある門です。
通常の見学コースでは、いの門へ向かわずに菱の門をくぐり左に向かいます。

「ぬの門」は、重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。

この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。

見学順路にそって歩いていると、そこに門があるとは思えない場所に「るの門」はあります。
この門をくぐると天守までの道のりが早くなるため、近道として用いられていましたが、実際、戦などの場合はこの門を埋めて敵を遠回りさせるように作られました。
別名「埋め門」とも呼ばれます。

天守の修理中「りの一渡櫓」が特別公開されています。
江戸、明治、昭和の各時代のシャチが展示されています。
一番右側の鯱は今回の修理のために大天守大屋根から降ろされたもの。

「りの一渡櫓」に展示されている甲冑。

歴代の城主が、修繕の際に取り替えた瓦の紋が、ここに並べて展示されている。
揚羽蝶の家紋って今の時代から見てもオシャレですね。
ちなみに、揚羽蝶紋は「池田氏」、丸瓦の下にある三葉立葵紋は「本多氏」のものです。

水二門を抜けたところには瓦紋の説明がありました。

築城時の石不足で、既存の石造物を利用した転用石。
貧しい老婆が寄付したと言われる姥が石や灯篭の台座、(古墳の)石棺など。

本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。
播州皿屋敷 浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。

りの門、お菊井戸のある上山里とよばれる広場につながる門。

腹切丸(帯郭櫓)
この櫓の南側は、深い濠になっています。
その濠を渡ってくる敵を上から攻撃できる櫓です。

近くには城主の住まいがあり、そのような場所で切腹することはまず考えられないのですが、薄暗い雰囲気と石打棚が検死役人の座、下の板場が切腹場、前にある井戸が首を洗うよう場所のように見えたため、いつしか「腹切丸」と呼ばれるようになりました。

天守からの眺め、手前は三の丸広場、まっすぐ伸びるのは大手前通り、その向こうには姫路駅。

西を望めば手前に西ノ丸、その向こうの櫓群は左からヲの櫓、ルの櫓、ヨの渡櫓、ヌの櫓、カの渡櫓、化粧櫓。

修理中の大天守、ほとんどの修理はほぼ終わりに近づいている。
来年からは足場の解体が始まる。

水二門 
この付近は、天守閣の入り口に続く道でありながら、下り勾配がつけられています。
ここまで攻め入って来た敵は、下り勾配のため、天守は左手に見えるが、入れないのではないかという疑惑の念を抱かせるための構造なのだろうと言われております。

姫路城 ロの渡櫓

内部には井戸があり、天守に近い貴重な水源だった。

にの門東方上土塀

「にの門」の西面(裏面なので順路ではわかりにくい)にある「黒田孝高の紋瓦」。
秀吉に力を貸した功績として、秀吉の姫路城には黒田孝高の紋瓦が使われました。
黒田孝高はキリシタン宗に帰依し、十字の紋瓦を使っていました。

築城のとき、石不足のため姫山などにあった佛石を多く石垣などに転用しています。
この六角形の石も灯籠(とうろう)の台石です。

この坂道を下ると「ろの門」が。

「ろの門」、この門を抜けて左に向かうと西の丸、右に向かうと本丸方面へと連結している。

もう一度修理中の大天守を振り返ります。
西小天守、乾小天守を従えてりりしく立ちます。

天守の庭
入城ゲート近くに大小の石を並べただけの広い場所があります。
これは築城以来天守を支えてきた礎石の配置を再現したものです。

昭和の大修理の祭にこれらの礎石から現在の鉄筋コンクリートの基礎に変更されたようです。

好古園は、世界遺産・姫路城を借景にした本格的な日本庭園です。
姫路城の南西に広がる庭園の面積は、約1万坪。

池泉回遊式の[御屋敷の庭]や本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある[茶の庭]など9つの庭園群で構成され、江戸の情緒を醸し出すそのたたずまいは、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。

お菊井戸のいわれ

この井戸は、播州皿屋敷怪で知られるお菊さんゆかりの井戸でよく知られた怪談話が残されています。

約450年前の室町時代中期、姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位山の花見の宴で毒殺しようと企てていました。

それを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公させて企みを探らせ、鉄山の息子小五郎から父の陰謀を聞き出しました。

この知らせを聞いて元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の陰謀を阻止することができました。
その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、鉄山の同士町坪弾四朗(ちょうのつぼだんしろう)に気づかれてしまいます。

ところが、以前からお菊に好意を持っていた弾四朗は「黙っている代わりに自分のものになれ」とお菊に言い寄りました。
しかし、お菊はその条件を聞き入れず、弾四朗に折檻されます。

それでも強情に言うことをきかないお菊を憎らしく思うようになった弾四朗は、ある日、お菊が預かる家宝の十枚の皿うち一枚を隠してその罪をお菊に負わせ、ついにお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込みました。

それからというもの夜ごと井戸の底から悲しげな女のか細い声で「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」と皿を数える声が聞こえるようになりました。

そのお菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。

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姫路城へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒670-0012 兵庫県姫路市本町68番地
TEL:079-287-2013
FAX:079-287-2014

JRまたは山陽電鉄の姫路駅から北へ徒歩で15分。

南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。
山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。
別名、鷹城(たかじょう)。
本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。

追手門
高知城の表門。
石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。
門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。

山内一豊像
土佐藩の初代藩主山内一豊の銅像は、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日を卜して再建除幕されたもの。

板垣退助像
板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となった。

杉の段にある山内一豊の妻像。

三の丸は、慶長6年の築城開始から10年を要して最後に完成した。
面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。
石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。

また、三の丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三の丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。

杉ノ段から右手に石段を上ると鉄門跡がありさらに二の丸、本丸へと続く。

詰門前から天守を望む。
詰門は本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。
門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。

一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。
現在の呼称はここからきているものである。

忍び返しの鉄串は名古屋城、熊本城にも見られるが現存するのは高知城のみ。

本丸御殿入り口、 天守に隣接して造られている。
築城された当初、二の丸御殿ができるまで、山内一豊と見性院が暮していた。
掛川城とよく似ている。

天守より詰門・廊下門・東多聞を望む。

天守より見える鉄門
門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから、こう呼ばれたという。
三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にある。

門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法により堅固な石垣が築かれている。
門内は小枡形になっており、石垣の上から攻撃できるようになっている。

本丸御殿内部。

江戸時代の日時計、中央の線が12時を指す。

鉄門と犬走り。

犬走りから三の丸へ向かう。

山内神社西神門。

山内神社(やまうちじんじゃ)は、高知県高知市にある神社。
土佐藩初代藩主山内一豊、同夫人、および土佐藩歴代藩主を祀る。

盃を片手に容堂公。
酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。

藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。

文化三年(1806)、高知城内の旧野中兼山邸跡(現高知県立図書館・文学館)に、藩祖一豊・夫人見性院・二代藩主忠義を祭神とする藤並神社が建立された。
創建当時の神号は明神でしたが、天保六年(1835)には大明神に昇格し、これを祝って翌天保七年に国をあげての大祭が行われました。

この大祭にあたって、藤並神社の御旅所がこの地に設けられ、領内各町・村・浦からの寄進物の奉納も許可された。
この手水鉢は、大祭にあたって吾川郡秋山村(現春野町)から寄進されたもの。

山内神社の側を流れる鏡川、夕闇が迫っている。

高知自動車道、南国を過ぎたあたりで夕日を迎える。
大阪はまだ遠い。

淡路SAでトイレ休憩、もう8時前だ。

酒と女と詩を愛した山内容堂。
容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。
幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言した。
容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白した。

これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に大政奉還した。
しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。
同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。

容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した。

また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したことに対して、徳川氏を中心とする列侯会議の政府を要求した。

松平春嶽が同調したが、ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖があり、その上に酒乱状態の容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」などと発言してしまった。

堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されてしまったが、泥酔状態の容堂にまともな返答ができるはずもなく、会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派すなわち討幕強行派のペースで進んだ。

慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽。伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。
しかし、京都の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加。

同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを谷干城から報告を受けた土佐に在国中の板垣退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した。
容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する板垣率いる土佐迅衝隊に寒いので自愛するよう言葉を与えた。

隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。
また、連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。
俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという。

また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいう。
明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。(Wikipedia)


酔って候

司馬遼太郎著「酔って候」
幕末の混迷期、なす術を知らない三百諸侯のなかで、自らの才質をたのみ、また世間の期待を集めた「賢侯」たち。

かれら土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、伊予宇和島の伊達宗城、肥前の鍋島閑叟は「藩主なるがゆえに歴史の風当りをもっともはげしく受け、それを受けることによって痛烈な喜劇を演じさせられた」。

高知城へのアクセス、行き方歩き方

高知城公式サイト

〒780-0850
高知市丸の内1丁目2番1号
TEL 088-824-5701
FAX 088-824-9931
路面電車(土佐電気鉄道伊野線)高知城前駅(最寄り駅)下車、徒歩約5分
JR四国土讃線高知駅から 徒歩約25分
バス約10分
高知城前駅まで路面電車で約10分、下車後徒歩約5分

信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城

クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日本100名城)」という企画の旅に出た。
数回に分けて紹介する。

岐阜県中津川市・恵那市・瑞浪市の市街地は、盆地の形でほぼ西南西-東北東方向に並んでいる。
この盆地と山地との高低差は屏風山断層の運動によるものであり、屏風山はこの山地を構成する山の一つである。

中央自動車道の屏風山パーキングエリアの名はこの山に由来しており、南東の方角に屏風のような山容を望むことができる。

「南アルプス」の山々を眺めながら松本を目指す。
仙丈ヶ岳から三峰岳、塩見岳、荒川岳、赤石岳、聖岳へとつながっていく赤石山脈。
赤石山脈には、9山の3,000m峰があり、10山が日本百名山に選定されている。

木曽谷と伊那谷に挟まれた中央アルプスは、長野県塩尻市から南南西の恵那山方面へと伸びる、細長い急峻な山脈であり、木曽駒ヶ岳はその北部に位置する。

標高2,600 m付近の濃ガ池(のうがいけ)、千畳敷カール及び極楽平では、氷河圏谷が発達している。
向こう側は木曽路。

松本城(まつもとじょう)は、安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された。
天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。
松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
丁度お城祭りが行われていた。
紅葉も見頃、名城と紅葉、この上ない取り合わせだ。

1999年(平成11)3月に復元された太鼓門。
松本市役所前から、外堀を渡るとまだ新しい二の門(高麗門)がある。

それをくぐると太鼓門枡形に入り、正面石垣に高さ約4m、周囲約7m、の巨石が組み込まれているのがわかる。

これが、玄蕃(げんば)石で築城工事の際、あまりの巨石(重量22.5トン)のため運搬人が不平を訴えたところ、玄蕃頭康長は、その運搬人の首をはね、首を槍先に刺し、叱咤激励して運ばせたので、玄蕃石と名前がついたという。

太鼓楼から工事中の二の丸御殿跡西側内堀を見る。
二の丸御殿は、本丸御殿焼失後、藩の政庁が移されたところで、幕末まで中枢機関として使われていました。

一時期、筑摩県(つかまけん)の県庁が置かれていましたが、建物が焼失してしまい、筑摩県は長野県に統合されてしまいました。

紅葉のお堀端でハクチョウが気持ちよさそうに日向ぼっこです。

朱塗りの埋橋と漆黒の国宝天守の対照が絵になる。
朝もやの幻想的な姿もおすすめ。

天守閣西面、千鳥破風がキリリと美しい。
石垣は、水はけに強い野面積で、地盤が緩いため高さは抑えたが、石落としを増加。

南西角から内堀に浮かぶ天守をメインに。
数正は志半ばにしてこの世を去るが、息子の康長が遺志を受け継ぎ、完成。

堀の最大幅を銃弾の飛距離ぎりぎりの60mに設定したり、耐久性が高い下見板張を用い、狭い間隔で鉄砲狭間と矢狭間を並べたりするなど、様々な趣向を凝らした。

天守閣南面、右側の乾小天守の内部は丸太柱がたくさん使われている。
3,4階の12本の丸太柱も、城が最初に建てられたころのもので、400年以上たっている。
月見櫓はその名の通り、月見をするための建物。

書院造で、北・東・南の舞良戸(まいらど)を外せば、三方が吹き抜けになるという開放的な空間になる。
朱色の廻り縁や、船底形の天井など、デザインも優雅。

黒門枡形の前から見る天守閣は、内堀と北アルプスを映しこみ、絶好の撮影ポイント。
常念岳を中心とした北アルプスを左上空に、国宝天の連なりを正面から狙う。
雪景色なら言うことなし。

松本城近くの市庁舎展望室など周辺の高い建物からは、天守と雪を頂いた山々のツーショットを撮影できる。

黒門枡形から天守を望む。

黒門枡形を西から望む、紅葉が美しい。

内堀を渡って二の門(高麗門)をくぐり枡形に入るとそこに、料金所がある。
ここは、本丸の正門で、松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入り口にあたるので黒門と称したという。

門の入り口で見上げればそこには美しい紅葉が。

今回は逆光であり、祭りの準備で最悪の景色だが、本来であれば、本丸庭園の緑を手前に国宝天守の連なりを正面から狙う。

ここからのアングルが、大天守が一番高く見える。
雪景色があればなお美しい。

天守の階段は、一階から六階まで七か所設けられている。
その位置が互いに離れているだけでなく、どの階段も勾配が急(55°~61°)で、特に4階から5階へと上る階段は蹴上が約40㎝もあり最も険しい。

武者窓と突上戸
天守二階の東・南・西側と四階の東と西側は柱間に5本の竪格子をはめた武者窓である。
格子は4寸から4寸5分(12cm~13.5cm)の角材を用い、上下の框(かまち)も大きい。

内側から武者窓を見ると、外光を遮さえぎる明暗の縦縞が大変美しい。
なかでもこの窓が五連あるいは三連の二階南側と東側は城らしく豪壮な感じを受ける。
なお、外側は上部に蝶番ちょうづがいのついた突上戸(つきあげど)で風雨を防いでいる。

天守閣から北アルプス(西方向)を望む。
中央の高い三角形が常念岳でその左に小さく見えているのが槍ヶ岳。

少し目を右へ転じると燕岳が見える。

内堀越しに見る北アルプス、常念岳、燕岳、雪があればもっといいのだが。
内堀には埋の橋が見える。

天守から本丸御殿を見下ろす、遠方には美ヶ原が広がる。

天守脇に残る船着き場、直正の時代には、ここから小舟で堀へ出ることもあったようだ。
お堀には白鳥、白鷺が羽を休め、鯉が群がる。

日暮れが迫る内堀、埋の橋、遠景は北アルプス。

穂高人形保存顕彰一真会により人形が飾り付けられている。
菅沼家は分家の安東家と共に、風伝流の師範として藩内外にその名が知れ渡っていた。

女鳥羽川(めとばがわ)が洪水をおこしたとき、助九郎政一は、六九の米蔵に積んであった籾俵を槍の穂先にかけて運んだという言い伝えが残る。

松本城に日暮れが迫る、今日の旅も終わろうとしています。

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城

木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「後堅固(うしろけんご)の城」です。
標高80mの平山城だが、旧城下町からの眺めは もっと高く、崇高に見えます。
その後方は断崖と川。
兵法に言う、「後堅固の城」なのです。
そして日本100名城の一つでもあり、天守が国宝指定された4城のうちの一つである。

犬山城は前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川貞清(光吉)が改修し現在のような形としたもの。

尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置するため、戦国時代を通じて国盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わりました。
小牧・長久手の合戦(1584)では、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が12万人の大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る徳川家康と生涯唯一の直接対決をしました。

桐の丸の西側の郭が樅の丸である。
樅の丸には屏風櫓があった。
さらに天守方向に目を向けると、杉の丸の御成櫓が眼前にあった。
御成櫓の石垣はよく旧状を残しており現在も見ることができる。

杉の丸には、器械櫓が南西隅にあり本丸に続く多聞櫓に接続していた。
杉の丸の先に岩坂門があり、ここを抜けると本丸門(鉄門)があり本丸への入口となる。
現在の天守入口の門は模擬門でありかつての鉄門ではない。

犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。
天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物の上に3間×4間の望楼部を載せた望楼型天守である。

地階1・2階出入口を含めて、総延面積は698.775平方メートルに達する。
天守台石垣は野面積という積み方で、高さは5メートルある。天守の高さは19メートルある。

天守閣の「高欄の間(こうらんのま)」と呼ばれる四階は、正面3間(5.4m)奥行き4間(7.2m)で周囲に幅約半間(90cm)の回廊と高欄をめぐらす。

小牧・長久手の戦いでは南に微かに見えている小牧山城に徳川家康が陣した。

鵜飼や日本ライン下りで知られる木曽川は、犬山城の北を西に流れている。
下流の方を眺めると、右に蛇行する手前に大規模な取水堰が設けられ、左岸の用水路に導かれていた。

真ん中の大きな山は伊木山(173.1m)で山頂付近には戦国時代の山城である伊木山城跡がありる。
また「夕暮れ富士」とも呼ばれ親しまれている。

東を見やれば成田山大聖寺もよく見えます、犬山遊園地の乗り物も見えています。

ほぼ昔のままの姿を保っているところが、犬山城の素晴らしいところで、この急な細い階段を上ることから始まります。

針綱神社(はりつなじんじゃ)は犬山城の守護神でもあり、三光稲荷神社と同じく犬山城の南の登城入り口近くにある。
また犬山祭は、針綱神社の祭礼である。

元々の鎮座地は犬山城天守閣付近であったが、1537年(天文6年)、織田信康により移転する。

境内地には大宰府天満宮の御分霊が鎮座され、学問の神として信仰をあつめ
学業成就・入試合格・各種試験合格の祈願を執り行っています。

市神社

おもかるいし

三光稲荷神社の境内には、【銭洗池】があり、ココでお金を洗うと、倍になって帰ってくるという。

「からくり展示館」。
門前には犬山城三之丸 武術稽古場跡の碑が建つ。

「からくり展示館」の前には犬山らしく鵜飼い舟も展示されている。

このからくり人形は江戸時代にもとは時計師だった竹田近江が大阪で旗揚げし、日本中を興行し人気を集めた「竹田からくり」一座の人形がはじまりだと言われています。

この山車からくりは、江戸時代に尾張名古屋の東照宮の祭礼に登場したからくり人形が始まりとされており、その後、流行になって尾張全土に広がり、作られた山車からくりの多くが今もなお活躍しています。

犬山市文化史料館は、「城とまちミュージアム」の愛称で犬山城と城下町をつなぐ施設として平成24年10月にリニューアルオープン。

犬山神社、城址入口の南側(三の丸跡)に建てられている。
成瀬正成公以後歴代城主の御霊が祀られている。

駐車場にある犬山城廓の図。
江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。

現存する天守が建てられた年代については天文期説、慶長期説などがあるが、現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。
近年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人に譲渡されている。

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犬山城へのアクセス、行き方歩き方

犬山城公式サイト
犬山市犬山北古券65-2
電話:0568-61-1711(犬山城管理事務所)

現存天守がそびえる巨大な山城 松山城

日本100名城の一つ。
別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。

関ヶ原の戦いで徳川家康側についた加藤嘉明が戦功によって10万石を加増され、海抜132m、周囲4kmの勝山(味酒山・みさけやま)を切り開き松山城を築城した。

松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城。
日本三大平山城にも数えられる。
山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。

この中では、姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式で、日本三大連立式平山城にも数えられる。

戸無門下からの太鼓櫓。
場内は野面積、打込接、切込接、算木積など、時代を経て進化する様々に石垣を観察できる。

大天守と太鼓櫓
この辺りに大手門が存在したそうだ。

一番奥には天守、手前の櫓は太鼓櫓。
ベストショットポイントのひとつ。

戸無門(重要文化財)
この門は、本丸の大手入口の最初に設けられた高麗門。

登城道U字屈折の終点に位置します。
昔から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた痕跡がありません。

松山城戸無門(重要文化財)と太鼓櫓

隠門(重要文化財)・隠門続櫓(重要文化財)
この門は筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門(うずみもん)形式の櫓門で、戸無門から筒井門に迫る敵の背後を急襲する構えとなっています。

脇戸を持たず、扉の横板張りの中に潜戸(くぐりど)を仕組むなど規模は小さいですが、豪放な構えで、続櫓外部の下見板張りや格子窓形式の突揚げ戸などとともに、築城当時の面影を見ることができます。

一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。
形式は上方からの攻撃が容易な高麗門で、二ノ門との間は枡形という方形空間となっていて小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できます。

本壇二ノ門(薬医門)

三の門

三の門南櫓

天守からの眺望、右崖下に屏風折れの石垣もはっきりと見てとれる。
大天守の全高は、本壇から20m(しゃちほこの高さを入れると21.3m)。

本壇は本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高は約132mであることから、大天守の標高は約161mあることになります。
これは「現存12天守」の平山城の中では最も高い城郭です。
山の高さは、同じ平山城である姫路城の約3倍の高さです。

天守より西を望む、JR松山駅、松山空港もこの方向だ。

少し視線を右へずらせば興居島が見える、形のいい山は伊予小富士。

天神櫓

紫竹門(しちくもん)は、西と東の続塀によって本丸の大手(正面)と搦手を仕切る役割を担う高麗門で、続塀には、弓矢や鉄砲で敵を狙うため正方形や長方形の狭間が設けられている。

なお、紫竹門を含め、重要文化財に指定されている本壇(天守曲輪)一帯の建造物は、安政元年落成にかかるものであり、屋根には建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。

梅が少し綻んできた、皆さん、松山城のマスコットキャラクターよしあきくんに群がっている。

太鼓櫓の下は厳しい石垣。

本丸にある唯一の井戸は、当時の技術では掘り下げることのできないとされる44mを超える深さである。

このことは、本丸は2つの峰の間を埋め立てて築いたとする根拠にもなっており、現在も水が湧き出ている(上屋のみの再建)。

登城にはリフトを利用する、片道約6分だ。

ドラマ「坂の上の雲」の撮影に使われた28サンチ榴弾砲のレプリカ。

リフト乗り場の1階にはドラマ「坂の上の雲」の垂れ幕が架かる。


坂の上の雲 全8巻セット

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松山城へのアクセス、行き方歩き方

松山城公式サイト
住所:愛媛県松山市丸之内1
JR予讃線 松山駅 徒歩約30分
松山駅から伊予鉄道「道後温泉行き」で約10分「大手道」下車、徒歩約5分、城山ロープウェイで約2分、山頂駅から天守まで徒歩約10分

築城名人・藤堂高虎会心の名城 宇和島城

日本100名城の一つ。
宇和島は、ごく最近まで、日本国の街道のゆきつく果てと言われた。
今でもJRのレールは宇和島駅で終わっている。

現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。
また、宇和島城は遅く生まれすぎた人、伊達正宗の無念さを思わせる城でもある。

藩老桑折氏武家長屋門(はんろうこおりしぶけながやもん)
城山東北川の登城口に位置する長屋門。

家老桑折家屋敷地に残されていたものを、昭和27年桑折家より譲渡を受け、現位置に移築した。
長屋の一部は失われていますが、市内には数少ない武家屋敷の建造物で、市の指定文化財となっています。

現在は天守北西部の土砂崩落により大きく迂回し、仮設階段を登らねばならない。

この仮設の階段を登ったところが二の丸。

二の丸から下方を見やれば本来の登頂ルートが見えている。

藤兵衛丸には宇和島市立城山郷土館がある。
建物は山里倉庫(武器庫)を移築したもの。

長門丸跡。

櫛型門跡から天守を望む。
7万石で入封し、宇和島城を大修築した藤堂高虎は、加藤清正、黒田官兵衛と並ぶ築城名手の一人。

二の丸跡から宇和島湾を望む。
標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸(二ノ丸とも)を中腹に配置し、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」でもある。

現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。

五角形平面の縄張り「空角の経始(あきかくのなわ)」は四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計で、現に幕府の隠密が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記された。

高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくる。
しかし実際は五角形だから、一辺が空角になる。

つまり、城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。
いわば、この一辺の空角は、敵の攻撃を避けられるとともに、敵を攻撃する出撃口ともなり得る。

そればかりではない。
この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、城から落ちのびる場合の抜け道ともなる。
これは守城の作戦上、効果は絶大なものといえるだろう。

当時の築城術でこのようなからくりを用いた城は他にはなかった。
さらに宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。

宇和島城には「空角の経始」、間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だったのである。
画像は天守から望む宇和島湾。

天守内部の様子。

現存する天守は伊達政宗の庶長子・秀宗の息子・輪島伊達家二代目宗利が再建。
高虎が創建した望楼型天守を、3重3階白漆喰総塗籠の層塔型天守に改めた。

土台からの高さが15.8mと小ぶりながら、唐破風の玄関を付けたユニークな外観で、1重に比翼千鳥破風、2重に千鳥破風、3重目に軒唐破風と、変化にとんだ装飾が美しい。

さらに破風の下に施された蕪懸魚(かぶらげぎょ)など、小さいながら御殿建築の意匠が随所に見られ、太平の世を表す華麗で格式高いつくりになっている。

御大所跡(御台所跡)

石垣が切りこみはぎで綺麗(二ノ丸の登り口から見る天守)

城山の植物は少なくとも300年以上、火災や伐採をまぬがれたため、巨木や珍しい植物の宝庫となっています。


馬上少年過ぐ

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん

戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。
今や天下は泰平。
俺の髪の毛はすっかり白くなった。
何の因果か、戦国の世を生き延びたこの身である。
老後くらい好きに楽しまないでどうするのだ。
天もきっとお許しになるだろう。
伊達政宗が、晩年の述懐を詠んだ詩とされます

生まれてくるのが遅過ぎた。
戦国の争乱期に遅れて僻遠の地に生まれたが故に、奥羽の梟雄としての位置にとどまらざるをえなかった伊達政宗の生涯を描いた『馬上少年過ぐ』。
政宗の前に立ちはだかった豊臣秀吉は、全国の軍を引き連れて北条攻めに向かう。
天下人の前に成すすべなし。

政宗の野望はここに終わり、秀吉に臣従することとなる。
正宗は聚楽第で秀吉に拝謁したとき長子秀宗をも拝謁させた。
この時代の習慣ではその幼児が主人に拝謁した場合は、その家の世継ぎになるのである。
しかも正宗は、

「お手許にてお育てくださいませんか」と頼んだのだ。
慶長5年(1600)関ヶ原で徳川の天下が成立する前後から、正宗はその方へ参じたが、豊臣家へ行ってしまっている長子の秀宗の始末に困った。
結局正夫人が生んだ次男虎菊丸(のちの忠宗)を家康と秀忠に拝謁させたのである。

秀宗は、哀れなものであった。
かれはすでに大坂を去り、江戸に居住していたが、ともかくも豊臣秀吉の猶子(ゆうし)だったということは、徳川氏の治下ではまずいことだった。

大坂冬の陣の直後「伊達秀宗には、別家を立てさせ、伊予宇和島10万石をやろう」ということで、仙台伊達家と切り離した。
 「あと20年早く生まれていれば・・・」
と、政宗はつぶやいたと言う。
20年早く生まれれば、自らが天下人になっただろうという強い自負があったのだろう。


街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道

愛媛県の南西部、南予地方の中心都市である宇和島市は、作家の司馬遼太郎が長崎と並んで最も愛した町の一つだ。

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宇和島城へのアクセス、行き方歩き方

住所:宇和島市丸之内1 (内1・2・3)
電話:0895-22-2832 (郷土館 電話:0895-22-3904)
JR宇和島駅→徒歩10分で桑折長屋門へ。
上り立ち門まで徒歩15分、各門から本丸までさらに徒歩15~20

井伊家の名城 国宝彦根城

鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。
山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
国宝指定の現存天守を持つ4箇所の城郭は姫路城・松本城・彦根城・犬山城を指す。

直弼は、埋木舎時代より文武に励み、いずれもその道を極めていきます。
和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどでした。

あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな

「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。
しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」歌には、直弼のこんな心情が詠まれています。

2ヶ月後の3月3日、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れます。
開国に揺れ動いた時代の中で、自身の信念を貫こうとした直弼の、まさに辞世の句とされています。

直弼の姓に藤原とあるのは、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことにちなんでいます。

<二の丸佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)>
入口に向かって左側は、佐和山城から移築されたもの。

佐和山口の枡形。
現在では車がどんどん走ってくるのでちょっと危ない。

「犬走り」とは、垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分です。
犬が通る幅ほどしかないためにこう呼ばれるが、敵が侵入する際の足場になってしまうことから、何の設備かは正確にはわかっていない。
一説には石垣、土塁の崩落を防ぐための構造的理由で設けられたという。

埋木舎(うもれぎのや)は、旧彦根藩主井伊家の屋敷跡。
彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は宝暦9年(1759年)頃と見られる。
井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期、天保2年(1831年)以後15年を過ごした屋敷として有名で、「埋木舎」は直弼の命名である。

この館は明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至る。
1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊したため全面的に解体修理、また翌年からは発掘調査が行なわれた。
今日では、直弼が住んでいたころのように復元され、内部も一般公開されている(有料)。

埋木舎には柳が植えられていた。
直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かった。
また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て
むっとして 戻れば庭に 柳かな
という句を読み心を落ち着けたと言われる。

彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷(尾末町御屋敷、北の御屋敷)に入った。

300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。
3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。

直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。

部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる長野主膳に国学を、さらに曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。
禅では「有髪の名僧」と呼ばれるほどであったという。
書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開いた。

安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した「たか女」の話はあまりにも有名だが花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺に纏めています。

パネルは直弼の埋木舎時代、身の回りの世話をしていた女中の志津と里和。部屋住み時代、直弼に仕える女中はこの2名のみであったといいます。このうち里和は、直弼が彦根藩主となるとともに江戸へ同行して彦根藩江戸藩邸に暮らし、直弼の側室となっています。

座禅の間には花の生涯の関連展示が。

お産の間、展示用に金具の輪があり、そこに紐を通して産婦が力んで出産する部屋。
左の間が脱衣室、奥が浴室になっている。

花の生涯記念碑。

玄宮園からみた天守。
彦根城と言えばこのアングルがまず浮かんでくる。
玄宮園のシンボルである鳳翔台と臨池閣、右に七間橋の向こうに槻御殿(御書院)

中国の名園を参考に近江八景を現した美しい庭園です。
鳳翔台でお茶を飲みながらの景色は格別です。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。
天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

楽々園の建物の全景。
江戸時代、「槻(けやき)御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれていた1815年10月29日、井伊直弼がこの屋敷で誕生した。

今回は黒門から入り表門へ抜ける。
黒門橋はかつては木橋だったが、現在は土橋に。
この橋がダムの役割を果たし、水を汲み上げて堀の水位を保っている。
小雨模様ですが 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

苔むした石垣が城の年月を語る。

黒門から本丸へ至る登城路の仕切り石垣

虎口を左に折れると西の丸の石垣沿いに登る。
ここは全面を石垣に囲まれ、どの石垣も高さ10m以上あります。
高い石垣は19.5mほどあるそうです。
この場所は井戸曲輪といい、第一郭で使う水を貯水する場所でした。

西の丸から見た天守閣。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。
三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐(きまたとさ)に預けられていました。

当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。

西の丸三重櫓の外には、裏手からの敵の侵入を阻止するため、尾根を断ち切るように大堀切が設けられている。
大堀切に掛かる木橋の外にあるのが「馬出し」の機能を持った出郭である。
『井伊年譜』には、この出郭の石垣は、石工集団として知られる穴太衆が築いたと伝えられている。

堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手(裏手)方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。

西ノ丸三重櫓の内部。
階段が互い違いに設置されているのが目を引く。

部屋の周りに武者走が巡る。

彦根城から見た佐和山城。
駅を挟んで直線で1km余りといった至近距離である。

多景島も見えている。

太鼓門櫓側から見た天守閣。

本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓。
門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。

この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(手すり)を設置して1間通りを廊下にしています。
櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。

門を潜ったところ。ここから先は長い下り坂だ。

日本の音風景100選に選定されている『彦根城の時報鐘と虫の音』。
毎日、朝6時から夕方6時まで3時間ごとに鐘の音が城内と城下に響きわたる。

虫の音は、ヒグラシの蝉しぐれが7月下­旬〜8月下旬、スズムシやマツムシなど秋の虫は9月〜10月にかけて聞くことができる。

太鼓門櫓の東側からの天守閣。

天守の内部、驚くべきは天井の梁で、曲がりくねった木材を巧みに組み合わせて作られた天守や附櫓の梁からは、極めて高い建築技術をうかがい知ることができる。

二階は、3間×3間と2間×3間の部屋の周りに武者走が巡る構造で、花頭窓からの採光で、かなり明るくなっている。

戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。

現存天守中、破風の数が最も多く、計18もある。
切妻破風の中に庇(ひさし)をつけたものは、他に例がない。

櫓に望楼をあげた古い形式の天守で、戦国から江戸時代への過渡期における貴重な遺構。徳川家康の命により、大津城の天守を移して、形を直して建てたという。

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。

各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。

鐘の丸周辺は彦根城の曲輪の中で一番堅固であったとか。 
大手口と表門からの登城道は、天秤櫓の下で合流する。 
寄せ手は鐘の丸を経なければ本の丸へとは進めない縄張りとなっている。

時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。
この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
天守閣へはこの橋を渡らなければたどり着かない。

天秤櫓を下から仰ぎ見る。
天秤櫓と廊下橋(木橋)~鐘の丸と太鼓丸を分断する堀切部分。
廊下橋は、かつて屋根と腰壁が付いていた。

ここでは、縄張りの巧みさと天秤櫓を下からながめるのがお勧め。 
隠れたポイントは、鐘の丸下の帯曲輪みる高石垣と東西2ヶ所にある竪堀と登り石垣。

1854年ゅ安政元年ょに天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

「ごぼう積み」は外見粗雑に見えるが、頑丈な積み方で彦根城特有のものである。

この橋はいざという時には破壊して進路を妨げられるようになっている。

表門橋は、文字通りお城の表に架かる橋で、今はこの橋を渡っても石垣しか積まれていませんが、昔はその石垣の上に表門櫓があり、橋を渡って枡形の空間を通り抜けた次に表門櫓と表門口を抜けたのでした。

その先には藩庁と藩主の邸宅を兼ね備えた表御殿が建っていたのです。

表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。
この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。

馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています

21頭もの馬を収容できた「馬屋」、彦根城の馬屋は、近世城郭に残るものとしては例がないほどの大規模なものである。

いろは松から望む外堀(旧中堀)と二の丸佐和口多聞櫓。
左後方は天秤櫓、右後方は天守。

ズームアップすればこうなっています。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。
しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。

この他に、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説もある。

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彦根城へのアクセス、行き方歩き方

住所:彦根市金亀町1-1
電話:0749-22-2742

JR琵琶湖線彦根駅、徒歩10分

備中松山城 日本一高所にある山城

高梁の街を見下ろす「臥牛山」(標高480m)の尾根沿い、「小松山」(標高430m)の山頂にあるのが「備中松山城」。
臥牛山といわれる小松山の山上にある。
天守閣や二重櫓、一部の土塀が現存していて、これらは国の重要文化財に指定され、日本で現存天守を持つ最も高い山城として有名である。

現在の天守は、江戸時代の水谷氏によるものである。
しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易となっている。元禄6年(1693)水谷氏断絶後、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。

高梁観光百選、大久保峠より望む高梁市街。
左が<南、総社・倉敷方面>、右が<北、新見方面>。

高梁市ふいご峠にある清水比庵歌碑
水清き川
のながれて
山高し日
は山を出で
川をわたるも

   八十六叟
    清水比庵
ふいご峠
天和元年(1681年)水谷克宗が天守閣の建築にかかった際、宝剣三振をココで打たせたことからこう呼ばれるようになった。


登城道入り口(標高290m地点)にある松山城案内図。
土・日・祝日は山麓近くの城見橋公園(駐車場)からシャトルバス利用で鞴峠まで来る。
ここから天守閣まで、徒歩で直登すると約20 分。

大手門跡で城主よりの挨拶に迎えられる。

石垣崩落の危険性
大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は圧巻である。
しかしながら、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。
更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。

これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。
このため、平成11年(1999年)より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。

大手門跡
石垣上に、間口10間×奥行2間の櫓門が存在したといわれている。
内枡形構造になっており、石段手前右側には、犬走り口と呼ばれる、表門(大手門)下から本丸裏手の搦手門へ迂回する横道の狭道の虎口(出入口)がある。

大手門内枡形(足軽番所跡直下)から見た、天然の岩盤の上に築かれた高石垣。
敵の侵入に備えて峻険に聳え、通路は折れ曲がっている。
この堅固さは圧巻!
ただただ、感動もの。

大手櫓跡と南端面(内側)の現存(手前の一部)と復元(奥の部分)された土塀。

二の平櫓跡付近から天守台方面を望む。

三の丸跡と石垣群。

三の丸・厩曲輪から二の丸南面鉄門跡のほぼ中間、南西隅部にあたる黒門跡(仕切門)石段。

二の丸櫓門跡からの本丸天主が覗いている。

与謝野寛(鉄幹)の歌碑。
『松山の渓を埋むるあさ霧にわが立つ城の四方しろくなる』

本丸南面の建物群と復元土塀。
このアングルからの眺めは一枚の絵葉書のよう。
左から、六の平櫓・五の平櫓・天守閣。

城の始まりは鎌倉時代の仁治元年(1240年)有漢郷の地頭・秋庭三郎重信が大松山に砦を築いたことによると伝えられる。
今に残る城郭は江戸時代の天和3年(1683年)時の城主水谷勝宗が小松山に(標高430m)築いたもので、現存する日本の城の中で最も高い所にあり、山上の天険を利用した近世式の城郭として全国に名高い。

備中松山城は、江戸時代にめまぐるしく城主が交代した事で知られているが、これは、後継者がいないためのお家断絶や転封によるものだが、これ以前の戦国期にも、城主がいくたびも代わっている。
それは、この城が備中制覇のために重要な意味を持っていたからである。

山陰と山陽を結ぶ伯備往来の中ほどに位置する高梁は、東西の主要街道も交差する。
この城が歴史上もっとも有名になるのは戦国時代である。
この要衝の地をめぐって、山陰の尼子氏、安芸の毛利氏が背後にからみ、地元の有力地侍三村氏、庄氏、宇喜多氏が激しい争奪戦を繰り広げる。

元禄七年(1694年)に水谷氏が無嗣除封となった際、受城使には大石内蔵助良雄がなったと伝わる。
その後、安藤氏、石川氏と藩主が替わり、延享元年(1744年)に板倉勝澄が入り、以後、板倉氏が七代明治維新まで続いた。

雪隠(トイレ)二の丸南西角近く。

本丸 東御門 (平成9年復元)
本丸東面ほぼ中央に位置し、本丸下の腰曲輪から見上げる。

埋門形式の搦手門跡
石段を上がったところは、水の手門脇曲輪。
この先を下がると、中世山城の大松山城址へ通じる。
左は【二重櫓】(国指定重要文化財)。

本丸北面の腕木御門 (平成9年復元) 水の手門脇曲輪より見上げる。

九の平櫓跡、後曲輪跡、十の平櫓跡、番所跡、二重櫓の北側で、小松山城郭域の最北端部。

【二重櫓】(国指定重要文化財)
天守同様、天然の巨石を櫓台とした二層二階建ての構造。
南北2つの出入口は北は後曲輪に南は天守裏に通じている。

天守閣 南面
南面に設けられた唐破風の出窓が特徴的で、東面には入母屋造りの突出部が付き、外壁下部は下見板張り、また、初層・二層に出格子窓とその屋根を付けて、小規模ながら複雑な外観意匠としている。
複雑な外観と、岩盤上に築かれた高さが、二重天守という規模の小ささを補って余りあるものとしている。
現在、地階部分の左側が観光用出入口になっているが、この東面に突出した部分は廊下の一部であり、右の画像の石段を上がった所に、かつては、八の平櫓があり、渡櫓(廊下)で現在の出入口に連結され、本来の入口は八の平櫓からであった。

大手口の南御門(平成9年復元)から本丸内に入る。

「囲炉裏」は石造りで籠城の際、城主の食事、暖房に使われた。
戦国時代には戦や身内の裏切りに備えて城主は常時、山頂のこの天守閣内で起居していた名残だ。

武者窓(連子窓)から差し込む光。
中からは見えるけど、外からは見えにくい構造になっている。

高梁市は、高梁川が中央部を南北に貫流し、その両側に吉備高原が東西に広がる人口3万8千余のそう大きくない市。
備中松山城天守より望む高梁市街。

登城心得『本日の登城、大儀であった』

まもなく端午の節句、松山城への道端ではこいのぼりが泳ぐ。
おしろ祭りに備えてのぼりやらが並ぶ。

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松山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒716-0004岡山県高梁市内山下1
電車・バスでのアクセス方法
備中高梁駅からバスに乗車して、バス停「松山城登山口」で下車、そこから徒歩で備中松山城に向かうというのが一般的なルート。
バスの所要時間は10分、徒歩は20分程度。
城の位置が山頂近くにあるということもあり、徒歩の所要時間が長くなってしまうのはやむを得ないだろう。
岡山駅から備中高梁駅までは、JR伯備線で50分ほど。

なお、土日・祝日に限り一部のルートでシャトルバスの運行もある。
車で備中松山城にアクセスする場合は、岡山自動車道の賀陽I.Cをおりて25分ほどで到着。
備中松山城の専用駐車場はないが、登山口の周辺にある「ふいご峠駐車場」や「城見橋公園駐車場」といった有料の駐車場の利用が可能。
土日・祝日のシャトルバスの運行じには「ふいご峠駐車場」は乗り入れ禁止。