日本三景 松島

今回は仙台を中心に東北の五名城を巡ります。
まず、最初に訪れたのは松島。

仙台空港が近づくと窓からは湯西川ダムが見える。

こちらは蔵王が見えているのかな。

芭蕉もやって来た日本三景の一つ松島。

松尾芭蕉は、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要軍事施設を回っていることから、隠密説がある。

また俗説で「松島やああ松島や松島や」という句が「芭蕉の作」とされていますが、これは後世作られたもの。芭蕉とはいっさい関係ありません!

日本三景は全て海(沿岸)にある風景となっており、各々古くから詩歌に詠まれ、絵画に描かれていた。

1.松島 … 宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海
2.天橋立 … 京都府宮津市にある砂嘴
3.厳島(宮島) … 広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした島

江戸時代前期の1643年(寛永20年)に、儒学者・林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳興、丹後天橋立、安芸厳島為三処奇観」と書き記した。

これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる。

日本三景を雪月花にあてる場合、「雪」は天橋立、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島をあてている。

松島は260余の島々に守られ奇跡的に被害は少なかったと言われているが、震度6弱の地震と最大3m80㎝の津波(16時40分第2波)に襲われた。

五大堂と向こうに見えるのは福浦島。

福浦島は松島海岸の東に浮かぶ、面積6ヘクタールほどの島。
全長252mの朱塗りの橋で陸と繋がれている。

県立自然植物公園となっている島内には、アカマツ、スギ、モミなどの大木をはじめ数多くの樹木や草花が自生し、植物の宝庫となっている。

島を代表する建造物である「五大堂」は、大同2年(807)、坂上田村麻呂が東征の折り、毘沙門堂を建立し、後に、慈覚大師円仁が円福禅寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになった。

現在の建物は、伊達政宗公が桃山様式の粋を尽くして再建したもので、瑞巌寺に先だって建立された。
桃山建築としては、東北地方最古の建物。

五大堂縁起を記した説明。

すかし橋 – 五大堂が建立された小島に架けられた橋。
橋げたの隙間から海が見え、五大堂へ行く際に足元を見て気を引き締めるために造られたと言われている

松島は、仙台平野を南北に分ける松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸がさらに進んだ沈降地形で、溺れ谷に海水が入り込み山頂が島として残った多島海である。

全体として松島湾(広義)を形成し、湾内の水深は10メートル以内である。

これは、この一帯が過去から大きな地震のたびに地盤が少しずつ沈下してできた地形であることを物語っている。

この地域の大部分の地層は第三紀層の凝灰岩、砂岩、礫岩など侵食に非常に脆い岩質で出来ており、特に波に洗われる部分は容易に侵食される。

そのため多くの小島は上部に松などが植生し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せている。

松島には大小の遊覧船が就航しており、船上より島々を眺めることができる。
船上からカモメ(主にウミネコ)に餌やりをするのが名物になっている。

2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)とその直後に襲来した大津波によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が発生したが、周辺の自治体と比較して被害は軽微で済んでいる。

その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失うのと、松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたと見られている。

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松島へのアクセス、行き方歩き方

仙台空港・仙台駅から松島までのアクセス
仙台空港より鉄道かリムジンバスを利用し仙台駅に。

仙台駅からは仙石線にご乗車し松島海岸駅下車。
なお仙台駅から東北本線にご乗車の場合松島駅下車となります。
松島観光地まで徒歩約20分。

識名園は琉球王家の別邸

今回の琉球王国の名城と歴史を歩くツアーはまず識名園からスタートです。

機内からの撮影、四国を横切るとき、山の頂は冠雪していました。

沖縄到着寸前です、コバルトブルーの海が出迎えてくれました。

空港近くの国道沿にある観光客にもよく知られている沖縄そばの店「那覇亭」でまずは昼食。

最初の訪問先は識名園、識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。
造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 – 1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。

完成は尚温の時代の1799年。
御殿(うどぅん、または、おどん)は、主に琉球王族の邸宅、またはそこに住む人をさす尊称。
御殿は「うどん」ではなく、「うどぅん」と発音します。

識名園の敷地に入って最初に目に入るのは、番屋とよばれる庭園の番人が詰めていた居住宅。

識名園には家来や使用人が使った通用門と、国王一家や冊封使などが出入りされた正門の二つの門があります。

正門は通用門よりやや大きめなのが特徴ですが、見た目はかなり似ています。
正門と通用門、どちらの門も、屋門(ヤージョウ)とよばれる瓦屋根を乗せた形式になっています。

正門から屋敷に入ると石畳の園路があり、木々の木陰で涼しいのですが、ちょっと神秘的な雰囲気も。

石畳の園路は大きくS字状に曲がっているのですが、これは狭い園路を広く見せるための工夫であり、園内へ魔物などが侵入しないよう、侵入を防ぐ緑のヒンプンの役割を果たしているといわれます。

ヒンプンとは琉球建築の民家における典型的な様式のひとつで、門と母屋との間に設けられる「目隠し」をいい、中国語の屏風(ピンプン)に由来するといわれている。
「魔除け」という役割もあるが、通りからの目隠しと、南風が屋敷へ抜けていくように設計されているという。

中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。
御殿(うどぅん)は赤瓦屋根の木造建築で、往時の上流階級のみに許された格式あるつくりですが、雨端(あまはじ)などに民家風の趣を取り入れています。

明治末期から大正時代の初め頃、増改築がなされました。
総面積は525平方メートル(約159坪)で、冊封使を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前の一番座、前の二番座など、15もの部屋がありました。

正面の池は「心」の文字をくずした形になっていることから、心字池ともよばれる。
手前にあるのは小石橋、奥に見えるのが大石橋。
小石橋は中国では太湖石(たいこいし)と呼ばれる、穴がたくさん開いた石灰岩が珍重され、屋敷などで飾られています。

それに似た、海岸で波や風によって形づくられた琉球石灰岩を用いて装飾しています
大石橋は、小川の発達した中国南部の地方に見られるもので、船がくぐりやすいように真ん中を高くしてあります。
アーチのつくり方は、石を横方向へ大きく取り、奥行きの短いのが独特で、中国やヨーロッパなどのアーチと技法が異なります。

六角堂は池に浮かぶ島につくられた六角形のあずまや。
屋根の形や瓦を黒く色づけているところに、中国風な趣を感じさせます。
島へは、一つ石(琉球石灰岩)でつくられたアーチ橋が架けられています。

識名園の造園形式は、池の周りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ、廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)と呼ばれるつくりになっており、基本は中国風なのですが、築山があって、これが薩摩の持ち込んだ日本風だとのこと。

敷地内に「育徳泉(いくとくせん)」という泉が湧く。
そこに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物である。
育徳泉は清冽な水をたたえ、池の水源の一つにもなっています。

琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。
あいかた積みとよばれる石積みの工法は、沖縄県内のあちこちでよく見かけますが、実は沖縄が誇る高度な技術のひとつなのです。

井戸口の上には、泉をたたえた二つの碑が立てられています。
向かって右は、1800年(嘉慶5年)、尚温王の冊封正使趙文楷が題した「育徳泉碑」。

向かって左の碑は、1838年(道光18年)、尚育王の冊封正使林鴻年が題した「甘醴延齢碑」。
もとの碑は、戦災を受けて下部が破損したため、1980年(昭和55年)に拓本をもとにして復元したもの。

船揚場は池で舟遊びをした時に船を揚げる場所。

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識名園へのアクセス、行き方歩き方

住所:沖縄県那覇市字真地421-7
TEL:098-855-5936

ゆいレール: 首里駅下車、タクシーで10分
バ   ス: 識名・開南線#2、松川新都心線#3、識名・牧志線#5 識名園前バス停下車、徒歩約5分

華麗なるアクロバット飛行

恒例の小松基地航空祭が9月23日に開催された。
航空祭では、地元第303飛行隊&第306飛行隊所属のF-15Jによる飛行展示のほか、小松救難隊のUH-60J&U-125Aによる捜索救難展示、F-2やRF-4Eなど他基地からの参加機によるデモフライトが行われる。

もちろんブルーインパルスの飛行展示も例年実施されている。
今回は最も注目度の高いブルーインパルスの飛行展示を先ず紹介し、他は随時紹介します。

前日、金沢に宿を取り参加したが、なんと雨です。
旅行で降られた経験はあまりなく、晴れ男を自認する小生としては少々ショッキングな出来事であった。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

例年10万人超の観客を集めるというがご覧の通りの超満員だ。

今回はクラブツーリズムのツアーに便乗しての参加だった。
しかし、金沢のホテルの出発が7時と遅く(5時出発のグループもあった)良いポジションが取れず悔しい思いをした。

小松基地は民間の定期便の離発着も多く、画像のようなシーンはよく見かけられる。
小松基地は日本海側にある唯一の戦闘航空団(第6航空団)を擁するエアベース。
対岸の諸外国とも近接した位置にあるため、2個飛行隊の主力戦闘機F-15Jが常時緊急発進に備えている。

滑走路の両側に誘導路があり、山側を航空自衛隊が、海側を民航のターミナルが利用している。
民航の定期便として過去にはボーイング747クラスの離着陸があり、本州日本海側の空港では乗降客数が最も多い。

計器進入装置であるILSを設置しているため、冬季の悪天候時でも欠航は比較的少ない。
小松基地(こまつきち、JASDF Komatsu Airbase)は1961年2月に開庁された、航空自衛隊の基地である。

対領空侵犯措置の任務を担っており、国籍不明機に対するスクランブル発進も行っている。
基地司令は第6航空団司令が兼務。
基地北方の日本海上空に広大な訓練空域(G空域)がある。

ブルーインパルス(Blue Impulse) とは、1960年に浜松基地で発足した航空自衛隊の公式アクロバットチーム。
古くは東京オリンピック(1964年)で上空に五輪マークを描いたり、大阪万博(1970年)で「EXPO’70」の文字を描くなど、国民的な大きなイベントでフライトを披露する機会も多い。

現在は松島基地をホームベースとしており、正式名称は第4航空団第11飛行隊。
使用機材は初代ブルーインパルスのF-86F戦闘機、2代目のT-2練習機を経て、3代目の現在はT-4練習機(画像の機機体)が使用されている。

展示飛行に備え待機中のブルーインパルス。
展示飛行は通常6機で行われ、一基は予備機。
ブルーインパルスで使用されている機体は正式には戦技研究仕様機とよばれ、現在まですべて新造機として取得されている。

戦技研究仕様機では、ウインドシールドなどの強化やHUD透明表示板の材質変更(バードストライク対策)、ラダーリミッタの制限角度変更、低高度警報装置の追加、コックピット内の一部機器追加やレイアウト変更、スモーク発生装置の追加などの改修が施されている。

いよいよ展示飛行の開始です、出発地点ら向かうブルーインパルス。
なんとこの頃から薄日が差してきたのです、晴れ男の面目躍如。

まずは最初に4機同時に離陸。
旅客機ならもちろん1機ずつ離陸するところを4機も同時に離陸なんてそれだけでもすごい。
F4の機首越しに四機が飛び立ちました。

展示飛行は通常6機で行われる。
1番機から4番機までは基本的に編隊を組んで(集団で)飛行し、5番機・6番機がソロを担当する。
もちろん6機揃った演技も多数ある。

初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である。
東京オリンピックの開会式で五輪の輪、大阪万博開会式で EXPO70 の文字を空に描いたことなどで知られる。

22年間に545回の公式展示飛行を行った。
当時は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の確保が行いやすかった。
そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために「草をぶっちぎる」といわれるほど高度が低かった。

あまりの低空で後方の観客は演技が見られないうえ、エンジンの爆音が機体の後ろから必死に追いかけてくるほど速い亜音速での全力単独超低空飛行や、上方空中開花の直後、急降下した4機が前後左右から超低空で会場に侵入し同時に至近距離で上下左右に交差する演技、パイロットの度胸を見せ付ける超低空での背面単独飛行など、今ではありえない連続技や度肝を抜く演技が多く、旧軍戦闘機パイロットの伝統を受け継ぐ凄まじい高錬度を観客に見せ付けた。

3代目機体T-4は、「ドルフィン」の愛称で親しまれる国産中等練習機(そのため、T-4ブルーのパイロットは「ドルフィンライダー」とも呼ばれている)。

現在運用している機体で、長野オリンピックの開会式に会場上空にて展示飛行をした。
1997年にはアメリカ遠征も行い、サンダーバーズと2度目の競演も果たしている。

機体性能を生かした高機動課目と日本人らしい緻密さを持ち味にした課目が高い次元で融合し、オリジナル課目として5機で星(☆)の形を描く「スタークロス」がある。

T-2以降、機体のカラーデザインは一般公募されており、T-2は(松本零士らによって大胆な変更が加えられたものの)女子高生4人のグループによるデザイン、T-4は斎藤茂太の子でモデラーやF-4のファンとして知られる精神科医の斎藤章二によるものが採用されている。

F4越しに飛び去る6番機。

6番機は一番目立たない存在で登場機会も多くないですが、ソロの2機で演技するときには絶対に欠かせ無い。

6番機の背面飛行。
会場左手より6番機が進入。
やや上昇し(ロール中に機首が下向きになるため)ゆっくりと右ロールを行いつつ会場正面を通過する。

比較的地味な機動であるため、会場では「一見簡単に見えるこの課目。実は高度な飛行テクニックが要求されます。」
と、アナウンスが入る。

チェンジオーバーターン
会場右側よりトレイル編隊で進入した後、正面で一瞬にして編隊をデルタへに組替え会場正面を大きく旋回します

旋回しつつ編隊間隔が徐々に広がり、左側へと離脱します。

チェンジオーバーターンのブレイク直後。

六機の編隊飛行。

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小松基地へのアクセス、行き方歩き方

※電車
JR小松駅下車
有料シャトルバス利用で基地東門下車 約10分
※航空機
・小松空港からタクシーで約5分
※乗用車
・北陸自動車道
小松I.Cから車で5分
片山津I.Cら車で15分

小松基地航空祭2012

昨日、航空祭の花形、ブルーインパルスの情報をお伝えしたので今日はその他の航空祭全般についてお伝えします。
小松基地航空祭には例年10万人の観客が詰めかけるといわれ、 クラブツーリズムでも約600名が参加しているという。

金沢のホテルを7時出発、少し渋滞があったものの基地には8時過ぎ到着。
いきなり頭上から落下傘の降下。

続いてF15による機動飛行。
F-15(愛称:イーグル)は、マクドネル・ダグラス社(現ボーイング社)が開発したアメリカ合衆国空軍の主力戦闘機。
高い機動性と高性能のレーダーを備えており、戦闘能力は世界最高水準にある。

航空自衛隊では、米空軍F-15C/Dをライセンス国産した日本仕様機 F-15J/DJを導入。
三菱重工業を主契約社とし、単座型のF-15J 165機と複座型F-15DJ 48機の合計213機が製造された。

基本性能の高さや、拡張性の高さを生かした近代化改修や国産新型ミサイルの搭載能力の追加により、導入から30年を経た現在も日本の主力戦闘機として防空任務に就いている。

アフターバーナーを点灯させた状態のF-15J。
アフターバーナー (afterburner, A/B) は、ジェットエンジンの排気に対してもう一度燃料を吹きつけて燃焼させ、高推力を得る装置。

アフターバーナーを使用しない場合と比べると、50%程度の推力向上が期待できるが、得られる推力に比べ燃料消費が非常に大きい。
例えばF-15はミサイルなどの武装を一切搭載せずに巡航速度で飛行すれば数時間は飛行可能だが、アフターバーナーを全開にし続けると15 – 20分で燃料を使い切ってしまう。

U-125Aによる救難展示飛行。
遭難者発見時はデータを後続のUH-60Jに送り、保命用サバイバルキットを投下するなど遭難者の生存性を高めることに寄与する。

捜索用レーダーで海上を捜索し、漂流物を捉えロックオンすると、連動した赤外線暗視装置(TIE)で夜間でも鮮明に映像で確認することができ、その鮮明さは波間に翼を休めるカモメも識別できるほどだという。

U-125A は、有事に航空救難を行う事を想定しており、視認性が低い青色塗装が施されているのが特徴。

航空救難活動に当たっては、UH-60Jヘリコプターとユニットを形成して行動し、飛行速度の速さを活かしていち早く遭難現場に急行、遭難者の捜索を行う。

UH-60Jヘリコプターから降下する隊員。
UH-60J は、アメリカ空軍の救難ヘリコプターHH-60Aをベースに航空自衛隊および海上自衛隊向けに改修が施された救難ヘリコプター。

赤外線暗視装置、気象レーダーや精密な慣性航法装置を搭載しているほか、機体側面にバブルウインドウ(半球状に膨らんだ形の窓)や、大型燃料タンクの追加が行われている。

航続距離が長いので救難可能区域も広く、ほぼ防空識別圏内をカバー、遭難者を生存可能時間内に救助できる能力が高められている。

航空自衛隊型は長らく救難用に白と黄色の塗装であったが、コンバットレスキューの概念からダークブルーの洋上迷彩塗装に更新中(海上自衛隊型は運用概念が異なるため、捜索時に視認されやすい白色と濃いオレンジ色のツートンカラーを継続)。
チャフ/フレア・ディスペンサーを装備している機体もある。

RF-4Eによる展示飛行。
全機が百里基地偵察航空隊第501飛行隊に配備。

2機が事故で失われ、2機が退役、2010年現在10機を保有。
一部搭載機器をF-4EJ改と同じ物に替えたために非公式には「RF-4E改」とも呼ばれている。

RF-4E
アメリカの開発した輸出用の偵察機。
RF-86Fの後継機導入計画の立案段階では三菱製のF-4EJにマクドネル・ダグラス製の偵察型機首を取り付けることが検討されていたが全機完成機を輸入することになり1974年(昭和49年)12月3日から1975年(昭和50年)6月8日にかけて14機を導入した。

F-4はアメリカ合衆国のマクドネル社が開発した艦上戦闘機である。
アメリカ海軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。愛称はファントム II (Phantom II) 、また本機に乗務するパイロットを「ファントムライダー」と呼称することもある。

F15による編隊飛行。

アフターバーナーを点灯させた状態のF-15J。

飛行を終え着陸。

エプロンの一角ではモデル嬢による撮影会が行われており、航空祭に彩りを添えていた。
後方は展示中のF-15J。

5人のモデル嬢が多くのカメラマンを引き付けている。

T-4は日本の航空自衛隊で使用している中等練習機で、プロペラ機による初等訓練を終えたパイロットがつづいて訓練する中等練習のために製作された亜音速ジェット機。

「ティーよん」や「ティーフォー」と呼ばれるほか、正式な愛称では無いが、他の航空機に比べ小型で丸みを帯びた姿から「ドルフィン」(イルカ)と呼ばれる。
エンジンを含めた日本の純国産ジェット練習機はT-1Bについで2機種目である。

C-130 ハーキュリーズ は、米国ロッキード社が製造している戦術輸送機。
ハーキュリーズとは、ギリシア神話に登場する英雄、ヘラクレスの英語読みに由来している。
高い短距離離着陸性能を持ち、未整地運用を念頭に置いて設計されているため機体構造は頑丈。

日本では、航空自衛隊が1984年から1998年までに、C-130H型の完成機を16機輸入し、戦術輸送機として愛知県の小牧基地 第1輸送航空隊第401飛行隊で運用している。
海外派遣にも使用され、2004年3月3日から2008年12月まで実施された航空自衛隊のイラク派遣においては、水色に塗装されたC-130Hが輸送活動を行った。

C-1は内部燃料タンクのみの場合、その航続距離は岐阜を中心として北海道・九州までであり、当時の技術力でも、C-1の航続距離は他国の輸送機よりも極端に短く、沖縄県や訓練区域の硫黄島へ飛行する場合は増槽を必要とする。
機体は軍用輸送機としては標準的な形態であり、高翼配置にT字尾翼、胴体のバルジ(膨らみ)に主脚を収容している。

YS-11と違い、噴射式のターボファンエンジン(ボーイング727やDC-9と同じエンジン)を採用し、これを主翼のパイロンに2基搭載している。
この強力なエンジンによって、C-1は600メートルの滑走路で離着陸が可能であり、高空での高速性能にも優れている。
また中型機であるにも関わらず、空中で機体を90度近く傾けての急旋回が可能[3]な高機動能力を持つ。

軽装甲機動車
普通科などの隊員の防御力と移動力を向上させるのが目的の装甲車であり、固定武装は無いが、乗員が天井ハッチから身を乗り出して5.56mm機関銃MINIMIや01式軽対戦車誘導弾等の火器を使用できる設計になっている。

車体は装甲化され、避弾経始も考慮されているが、具体的な防弾・防爆性能は公開されていない。
小型かつ軽量であるためC-1輸送機、C-130H輸送機、CH-47J/JA輸送ヘリコプターなどで空輸することが可能となっている。

軽装甲機動車の運転席。

VADS(Vulcan Air Defense System)はアメリカ軍で開発された対空機関砲システムである。
航空機関砲として有名なM61 バルカン・シリーズをもとにして開発された。
VADS-Ⅰ改はVADS-1と比較して、すべての機器が単一のトレーラー上に搭載されており、トラックによる牽引で容易かつ短時間に移動、展開、布置が実施できる。
また、TVカメラの画像信号を用いた自動追尾機能を有しており、精度の高い射撃が可能である。

射撃管制装置
艦船や戦車、航空機など移動体から火器を発射する場合は、攻撃対象も移動体であることが多い。
このような移動対象に射撃を行う時は、たとえ目標物の位置に正確に撃っても砲弾の到達時には既に対象は移動しているため命中する事は無い。

射撃管制装置は、自艦や自機と攻撃目標物のそれぞれの、現在位置、移動方向、移動速度などを測定する観測機器に結合され、これらの情報を元に計算によって火器の指向方向を導き出し、火器に直接または間接に射撃の指示を出す。

計算に用いる要素には自艦や自機と目標の運動だけでなく、コリオリ効果や風向、気温、湿度、気圧といった気象状況、砲身磨耗度、砲耳傾斜、装薬温度等も考慮される。

81式短距離地対空誘導弾は、防衛庁技術研究本部と東芝が開発した、短距離防空用地対空ミサイルシステム。

3格、装備品の展示会場の入り口警備の女性自衛官。

U-4多用途支援機として、1995年(平成7年)以降5機を導入。
首相などの要人が短距離を移動する際(主に国内間、災害発生時の被災地視察などの際が多い)に、要人輸送の任務に就くこともある。

また、2008年に開催された北京オリンピックの際には、福田康夫首相(当時)が同年8月8日に行われた開会式への往来手段としてU-4を使用した。
従来、首相の海外訪問の際には北京のような近距離の地域であっても政府専用機が用いられてきたため、U-4が首相の海外訪問に用いられるケースは初めてのことであり、また政府専用機以外の自衛隊機が中国の空港に着陸するケースも、このU-4が初めての事例であったためにメディアから注目された。

F2
第4.5世代ジェット戦闘機に分類される航空自衛隊の戦闘機である。
F-16を大型化した機体に空対艦ミサイルを最大4発搭載という、戦闘機としては世界最高レベルの対艦攻撃能力と対空能力を兼備しており、「バイパーゼロ」という非公式の愛称を持つ。
ここから航空雑誌等ではF-2を指して「平成の零戦」といった呼び方もされることがある。

機体愛称では無いが、F-2を操縦するパイロットを指して「F-2 CHARMER(チャーマー)」あるいは単に「チャーマー」と呼ぶことがある。米軍の一部にはフェイクファルコン(Fake Falcon)と言う呼び方もされている。

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小松基地へのアクセス、行き方歩き方

※電車
JR小松駅下車
有料シャトルバス利用で基地東門下車 約10分
※航空機
・小松空港からタクシーで約5分
※乗用車
・北陸自動車道
小松I.Cから車で5分
片山津I.Cら車で15分

石川県立航空プラザ

石川県立航空プラザは石川県小松市安宅新町にある航空専門の博物館である。
小松飛行場(小松空港)の北側に位置している。

小松基地のレーダー網が遠望できる。

1995年11月27日に開設された航空機および航空を主体にした博物館で、日本海側では唯一の航空博物館である。
開設者は石川県で施設の管理運営は財団法人小松市施設管理公社が行っている。

屋外および航空プラザ1階にはヘリコプター、航空自衛隊の戦闘機、パラグライダーなど飛行機実機が常設展示されており、展示機によっては着席することもできる。
また、YS-11のシミュレーター(全日空で実際に使用されていたもの)や航空管制シミュレーターも体験することが出来る。
なお、シミュレーター利用は有料。

シコルスキー S-61 (Sikorsky S-61) は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、シコルスキー・エアクラフト社が開発した双発タービンエンジンの大型ヘリコプター。
S-61 はシコルスキー社内での呼び名で、各国軍では別の名称を使用している。
日本でも、1963年(昭和38)に海上自衛隊の対潜哨戒機HSS-2として導入された。

三菱重工業がライセンス生産した機体が1964年(昭和39)に初飛行、同年に納入された。海自ではHSS-2/S-61Aを「ちどり」と命名している。
当初は陸上基地から運用されており、HSS-2Aになってから着艦拘束装置を装備した艦載型も生産された。
防衛庁ではHSS-2の寿命を決めるために、機体構造の疲労試験を行ったが、この作業は新機種の開発期間を決めることにつながるため、それ以降の日本ヘリコプター産業および研究開発の作業量を決定するのに役立った。

また、海上自衛隊では輸送機としてS-61A も3機採用し、同じく三菱重工業でライセンス生産された。
HSS-2は55機が調達された後1987年(昭和62)に退役したが、日本独自の改良型が採用されている。

1991年(平成3)から同じくシコルスキーのSH-60J シーホーク(S-70/H-60)の導入が始まり、後に艦載機はSH-60Jに完全に置き換えられたため、HSS-2は沿岸哨戒に移されたが、2003年(平成15)に全機が退役した。

HSS-2の内部。

KM-2は、海上自衛隊が運用した、対潜哨戒機などのパイロットを養成するための初等訓練で使用する練習機。

日本の航空機メーカー・富士重工業によって製作された。
Kは「改造:Kaizoh」、MはベースとなったT-34「メンター:Mentor」の頭文字である。
自衛隊での愛称はこまどり。

航空自衛隊の戦闘機パイロットだったロック岩崎が「生涯飛行機乗り」でありたい、との思いから1995年に自衛隊を退官。
エアショーパイロットの修行のため渡米し、1996年8月に設立したのがエアロック・エアロバティックチームである。

その後1996年11月3日と4日に南紀白浜空港にて行われた「スカイレジャージャパン’96」でピッツS-2Bと共にデビューを果たした。
1997年から本格的に活動を開始し、2000年にはチーム2機目のピッツとなるS-2Cを導入。
2002年のシーズンからは念願のフォーメーションフライトを開始。

翌年2003年からは2番機パイロットノブ次田のチーム離脱からロックのソロショーになるものの、2004年にはインストラクター出身のパイロット、サニー横山が新2番機パイロットとしてデビューし復活。
また同年には通算100回目となるショーも達成した。
2005年も更なる飛躍が期待されていたが、同年4月21日、コウノトリ但馬空港での曲技飛行訓練中に墜落事故が発生しロックが他界。
S-2Cは大破し登録抹消となってしまう。

残されたピッツS-2B(JA11AR)はチーム発足時の塗装に塗り替えられ、石川県小松市の石川県立航空プラザにて2010年4月から展示されている。

航空自衛隊関連グッズが所狭しと並ぶ。

前羽で浮翼し、後羽で推進しながら飛ぶ玉虫にヒントを得て1893年に製作・完成した飛行機である。

足こぎペダルによる人力で4枚羽のプロペラと車輪を駆動し、固定翼の下に取り付けられた可変翼で舵をとる先進的な構造となっている。
諸般の事情により個人(二宮忠八)が研究開発に取り組んだが、実際に飛行することはなかった。

カラス型1号器
二宮忠八が、1891年に製作したゴム動力付き模型飛行機のレプリカ。
忠八は、カラスを真似れば飛行できると考え、実験を始めます。

そしてカラスのような尾翼をもったプロペラ式の模型飛行機「カラス型1号器」を製作し、35mの飛行に成功しています。

ピラタス PC-6はスイスのピラタスが開発した軽飛行機。
単発プロペラ機であり、生産機数は900機以上。
初飛行は1959年4月。愛称はポーター/ターボ・ポーター。

多目的軽飛行機であり、山岳地帯や雪上でも運用が容易なように、高いSTOL性能と丈夫な機体構造を有している。
胴体断面は角型であり、高翼配置の主翼となっている。
機首にプロペラを有するが、初期型はレシプロエンジン、後にターボプロップエンジンとなった。

アメリカ合衆国のフェアチャイルド社でもライセンス生産され、21世紀に入ってからも生産が継続されている。
山岳地帯や極地での運用評価は高く、日本の南極地域観測隊でも用いられたほか、ネパールでは標高5,750mにある氷河上への固定翼機の高所離着陸記録を持っている。

岡山の表具師浮田幸吉の「竹製グライダー」
天明五年(1785)、幸吉は自作した鳩型の滑空機で、夜空の彼方から舞い降り、騒動を引き起こしたため、役人に捕らわれて岡山から追放されたという。

アリソンJ33A-35 ジェットエンジン
このエンジンは、展示されているT-33Aに搭載されているものです。

吸入した空気を遠心力で圧縮するタイプで、他のエンジンとは構造が異なる珍しいものです。
メリットとしては、故障が少ないこと。
デメリットとしては、エンジンの直径が大きくなることや出力に限界があることが挙げられます。
そのため、お蔵入りとなり、今後使われることのない貴重なモデルとなりました。

三菱 T-2
胴体の一部がカットされ、内部の構造が観察できるようになっています。
狭い所に効率的にユニットを収納するための工夫が至る所に凝らされています。
これぞ技術者魂。
創意工夫は技術者の特権ですが、技術者の矜持の琴線に触れられた気がしました。

F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。
航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。

日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。
航空自衛隊では栄光という愛称を持つ。

三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある。
F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。

ビーチクラフト ボナンザ (Beechcraft Bonanza) はビーチ・エアクラフト社(現ホーカー・ビーチクラフト社)が開発した単発レシプロ軽飛行機シリーズ。
堅牢な訓練機、高級な自家用機として高く評価されている。

1947年から生産開始されたが、時代に合わせて改良され続け、現在も生産が続く長寿な機体。
現在のビーチクラフト社の発展の基礎を築いた、商業的にも技術的にも重要なモデルである。

ヒューズ TH-55 オセージ(Hughes TH-55 Osage)は、アメリカ陸軍向けにヒューズ航空機で製造されたレシプロエンジンを搭載した小型・練習ヘリコプターである。

本機は小型多用途ヘリコプターのモデル 269系としても製造され、この中の幾つかはモデル 300として販売された。
モデル 300Cは1983年以降シュワイザー・エアクラフト社で生産及び更なる開発が行われた。

T-33は、アメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機P-80から発展した、初の複座ジェット練習機。
米空軍における愛称は、原型のロッキードP-80同様シューティングスター(Shooting Star:流星の意)。
米海軍でもTO-2(1950年以降TV-2と改称)の名称で使用された。

生産開始から半世紀以上経過した1990年代以降も現役で、日本の航空自衛隊でも1954年から2000年まで運用されていた。
なお日本では米での愛称「シューティングスター」、日本での公式愛称「若鷹」よりもその型番に由来する「サンサン」の名で広く呼ばれた。

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石川県立航空プラザへのアクセス、行き方歩き方

北陸鉄道・小松バス小松空港各バス乗り場より徒歩5分
北陸自動車道小松インターチェンジより約10分