初秋の秋篠寺

寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。
奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。

「南門」を一歩入るとこんもりとした森の中で、都市伽藍の奈良には珍しい光景がひろがる。

秋篠寺は苔の美しいことで知られる、秋の木漏れ日を浴びる美しい苔。

かみなり石、鐘楼横にへんな石があります。昔々秋篠の里には雷がよく落ちたようで、村人は落ちてきた雷さまをこの石に閉じ込めへそを取ってしまったので二度と秋篠寺には雷が落ちなくなったとか。

へそをとられるのは人間ではなかったっけ。

「鬼瓦」の上に突起した鳥休みの飛び出し、時代を遡るほど少なくなるそうだ。

境内でくちなしの実を見つけた、くちなしの実は、10~11月頃に赤黄色に熟しますが、熟しても口を開かないことから「くちなし」の名前がついた。

くちなしの実を乾燥させたものは、食品を黄色に染める着色料として、栗やさつまいものシロップ煮、きんとん、たくあん漬け、麺類、お菓子などに使われます。

秋の日は釣瓶落とし、参拝の皆さんも家路を急ぎます。

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秋篠寺へのアクセス、行き方歩き方

奈良県奈良市秋篠町757
0742-45-4600

近鉄大和西大寺駅から押熊行バス「秋篠寺」下車すぐ
近鉄大和西大寺駅または平城駅から徒歩約15分

幸田文と法輪寺

斑鳩の北の端、三井(みい)の里にある法輪寺は、聖徳太子の御子 山背大兄王創建とも伝えられ、飛鳥時代の仏像と、昭和五十年再建の飛鳥様式の三重塔で知られている。

三重塔は1944年、雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたもの。

斑鳩の里はちょうど稲刈りも終わりのどかなたたずまいを見せる。

この辺りの休耕田にはコスモスが植えられ散策する人の心を和ませる。

三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。

現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。

焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。

幸田文と三重塔。

ことの発端は、たまたま文が岩波書店に用事で出向いた時に、やはり岩波書店へ寄付を願いに訪れていた住職の井上慶覚と出遭った、ということらしい。
三重塔焼失の様子、再建の経緯を直接住職から聞いた。

この三重塔再建の話は文の心のしこりにしみた。
なんとか役に立ちたいと、瓦一枚の寄贈から始め、さらには前進座が『五重塔』を上演する際の著作権使用料20万円を寄付、これを機に折々寄進をするようになる。
が、ここまでは一寄進者の範囲にとどまっていた。

ところが1969年(昭和44年)、募金活動を続けていた住職・井上慶覚が肺癌で亡くなり、折柄翌年に万国博覧会を控えて関西地方は空前の建築ブームを迎え、職人達の人件費が急騰、当初の予算では三重塔再建は全く立ち行かない状態に陥っていた。
再建の中心的存在を失って、募金も難航していた。

人気のない境内に材木小屋から「のみ」の音が淋しく響いていた。西岡楢光老人、長男常一、次男楢二郎のたった三人が木造りする音だった。

幸田文は塔再建の大きな貢献者であるが、執念ともいえる支援活動へ突き動かしたのは何だろう。

よく言われるのは、父、露伴の名作『五重塔』の影響であり、自らも認めておられるようだ。

だが、一年余り居を移して建築工事を見守る情熱は、宮大工の仕事へのなみなみならぬ関心があったからだと想像する。
がんらい職人気質の作家は、高度な職人の技をもってする塔再建という企てにロマン以上のエモーションをかきたてられたのだろうか。

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法輪寺へのアクセス、行き方歩き方

法輪寺公式サイト

奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
0745-75-2686

JR大和小泉駅から徒歩15分
JR法隆寺駅から徒歩約35分

法隆寺

古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院。

創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。

金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。

明治36年(1903)以来の保存修理工事が始っています。

約3年弱の工期になるらしい。

 「五重塔」は現存最古の塔、塔高は31.5m。

大講堂、このお堂は仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失。

幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られている。

金堂と五重塔、「金堂」は世界最古の木造建造物として世界的に有名。
 
彩色豊かに彩られた中国の建物に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見て古代人はど肝を抜くと同時に異国への憧れを持ったことでしょう。

仏教伝来は高度な文化の伝来でもありましたから。

2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。

その画像から割り出した結果、建立した年年輪年代測定を発表した。

それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。

法隆寺の寺域に並ぶ多数の建物のなかで最も新しくできたものが、境内の一番北寄りにある大宝蔵院。

百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、わが国を代表する宝物類を多数安置しています。

扁額に補陀落(ふだらく)と書かれています。

補陀落とは、観音菩薩が住むとされる山のこと、そしてこの部分には百済観音像が祀られています。

口の字の左側から入り、西宝蔵、そして百済観音のいる百済観音堂、東宝蔵、そしてまた元の場所に戻ってきます。

行信僧都が聖徳太子の没後、聖徳太子の住んでいた斑鳩宮跡に聖徳太子を偲んで建てたのがこの夢殿。

その中には救世観音像が安置されており、聖徳太子の等身として今なお斑鳩の平安を祈っています。

「夢殿」は東院の金堂で、世界的な建築家ブルーノ・タウトが夢殿を「建築の真珠」と絶賛したように際立って優れた姿をしています。

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法隆寺へのアクセス、行き方歩き方

法隆寺公式サイト

奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
TEL.0745-75-2555

JR法隆寺駅から法隆寺門前行バス(約8分)「法隆寺門前」下車、徒歩すぐ

江戸時代の遊郭の面影 三丁町

三丁町(さんちょうまち)は小浜市の小浜香取地区にある江戸時代に栄えた遊廓で、今も古い家並みが残っている。

福井県内に残る数少ない花街であり、今も芸妓を抱えている料亭もある。千本格子の家々が軒を連ね芸妓の三味線の音が流れ、情緒豊かな通りが残っている。

今日のお昼は「いけす割烹 雅」

小浜公園そば、三丁町の入り口、朱塗りのカウンター席の前に生簀が設けられた割烹の店。
生簀の中で泳ぐ鯛やフグなど若狭湾の魚介が味わえる。

いけす割烹 雅 公式サイト

昔、柳町・猟師町・寺町の三つの町があったところから三丁町と呼ばれるが、一説には町の長さが三丁(327m)あるので、そう名付けられたともいう。

現在は料亭街になっていて、小浜では昔の情緒を残す唯一の町並みといえよう。
千本格子の家々が軒を連ねる。

小浜の遊里といえば『三丁町』、今も茶屋や料亭が並ぶ現役の花街。
重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。

小浜以外で茶屋町として指定されているのは、京都の祇園、金沢のひがし茶屋・主計町だけ・・・これはちょっと自慢してもいいのでは?

町並みの北側にある旧料亭酔月は「町並みと食の館」として公開されていますが、そのほかの建物は常時非公開。

しかし年に一度、夏に開催される「町家deフェスタ」の日になれば、数棟の茶屋や民家が一般公開される。

三丁町は貞享元(1684)年ごろまでには開発されていたと考えられます。
現在も全長200メートルほどの一本道の両側に明治以降の茶屋建築が建ち並び、繊細な格子戸や腰壁の装飾が華やかな印象を与えます。

三丁町の格子の特徴が、上のほうに水平材を入れていること。無目と呼ばれる材で、これを境に上と下でデザインを変えています。

また、同じ小浜でも三丁町は出格子が多い点も特徴です。

庚申堂や付近の家の軒先に猿をかたどった人形を吊す例が見られるが、さるぼぼとは異なり体を屈曲させ頭を垂れた姿勢である。

猿の吊し人形には、以下のようなものがある。

奈良県奈良市、ならまち庚申堂の身代わり猿
京都市東山区、八坂庚申堂のくくり猿

三丁町のシンボルが、町並みのほぼ中央にある蓬嶋楼。
明治時代の大規模な茶屋です。

表通り側は高さ2メートルを越す高壁に囲まれ、中の様子はうかがえませんが、2階の座敷からは向かいの家並みや遠方の山並みまで見渡すことができます。

プライバシーと眺望を両立した、茶屋建築ならではの空間設計ですね。

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三丁町へのアクセス、行き方歩き方゜

福井県小浜市小浜香取
0770-53-1111 小浜市商工観光課

小浜駅から徒歩で20分

鯖街道の宿場町 熊川宿

若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村(1716~83)が「夏山や 通ひなれたる 若狭人」(安永5年 1776年の句)と詠んでもいるように若狭と京都はきわめて深い関係にありました。

道標と熊川番所、無電柱化で街はすっきりしている。

熊川は、もともと戸数40ほどの小さな寒村であったという。

室町時代に、戦略上の要地として足利将軍直属の武士、沼田氏が山城を構えたところであり、今もその遺構を確認する事が出来ます。

さらに、豊臣秀吉の相婿(実際は再従姉妹の夫)でもあり秀吉に重用された浅野長吉(長政)が、 小浜城主になった時に交通・軍事の要衝として、熊川に対し天象17年(1589)に諸役免除の布告を発し、この地の特別の発展を図った。

以来、若狭代々の領主は、この政策を受け継ぎ熊川は江戸時代を通じて近江国境に接する宿場町として大いに繁栄していきました。
江戸時代初期から中期にかけて、熊川宿の戸数は200戸を越えていたようですが、現在では100戸ほどになっています。

熊川宿の歴史的景観に欠かせないのが、豊富で流れの速い水路である“前川”。

この清水は“平成の名水百選”に選定された。

平入建物(棟を街道に対して並行させた建物のことで、街道側では軒が真っすぐに見える。)と妻入建物(棟を街道に対して直角に置く建物のことで、街道側では、屋根の三角部分が見える。)が混在しながらも、連続性を持った町並みを形成しているのが特徴。

旧逸見勘兵衛家住宅。

熊川村の初代村長逸見勘兵衛、その子息で伊藤忠商事二代目社長となった伊藤竹之助翁の生家で、熊川を代表する町家のひとつ。

主屋、土蔵、庭が平成7年1月に町指定文化財となり、その後3カ年をかけて大規模な修理が行われ、町家造りを生かした機能的な現代の住まいとして一般公開されている。

熊川宿と言えば地酒「熊川宿」が絶品。

若狭鯖街道熊川宿資料館宿場館。

昭和15年に、熊川出身で伊藤忠商事二代目社長の逸見竹ノ助により、近代洋風建築の熊川村役場が建てられた。
トスカナ風の柱頭をもつ円柱がポーチに建ち、寄棟瓦葺の2階屋根の中央には越屋根が付いている。

今日のお昼は鯖寿司。

「鯖街道」もいつの頃からかこの呼び方をされているが、熊川の古い文書には由来となるはずの若狭湾の鯖とわかる記載は見当たりません。

しかし18世紀後半になって若狭湾で多種類の海産物に混じり大量の鯖が水揚げされるようになった事や小浜の『森田宗太郎家文書』によれば宝暦(1751~63)以後、若狭の海で鯖が大量に漁獲され、これを京都の人々が大衆魚として広く庶民が賞味し、また祭礼にも欠く事が出来なかったためだ、とも考えられる。

これらが運ばれた道は幾通りもありましたが、鯖の運ばれた道の総称が「鯖街道」である。

白石神社 – 祭神は、彦火々出見尊、白鬚明神、小浜藩主酒井忠勝、および山の神。旧村社。

御蔵道はかつて北川を往来した舟運の米がこの路地を通り、松木神社境内にあった蔵屋敷に至ったことからこの名がついたという。

松木神社 – 若狭の義民松木庄左衛門が祀られている神社で、熊川宿の中では桜と紅葉の名所。

松木庄左衛門は、苦しみにあえぐ若狭の農民を救うため、一命を投げうって大豆年貢の引き下げを実現した。

時に庄左衛門は28歳の若さでした。

松木神社は昭和8年に建てられたもので、境内には庄左衛門の遺徳を顕彰するため、昭和10年に建てられた義民館がある。

また不思議な因縁だが、松木神社境内は、かつて小浜藩の年貢米を収納する米蔵があったところ。

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熊川宿へのアクセス、行き方歩き方

福井県三方上中郡若狭町熊川
0770-62-2711 若狭町歴史文化課

米原駅→(北陸本線 30分)→敦賀駅→(小浜線 60分)→上中駅下車→JRバス若江線10分→「若狭熊川」下車

京都駅→(湖西線50分)→近江今津駅下車→JRバス若江線30分→「若狭熊川」下車

閑院宮跡

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。

2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が現在の皇統となっている。

京都御苑は百日紅が花盛り、閑院宮跡の門前もご覧の通り。

アップでとらえてもきれい。

正門(東門)は石畳で段差のない入口です。

門を入ってすぐ左にある築山。

明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。

第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。

平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放している。

閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部のこの場所に屋敷を構えました。

創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。

撤去された官舎の部屋割りが木枠で示され、案内板にも説明されていますので、建物があった時のように玄関から入り、居室や客間からの眺めを楽しんでみてはいかが。

居室縁側に出て、縁先手水鉢を使う位置から見ると大木に守られたような庭園の全景が見えてきます。
樹林の大きな緑陰と手前の明るい池泉や芝地が、絶妙の構成美を創り出しています。

この縁側は居室を回り込むように設けられていたので、四季の風情が楽しめるようになっていたそうです。

大きな樹木と林床の木漏れ日が見せる涼やかな空間が閑院宮邸から続いています。
現況の樹木や空間を利用して明治・大正時代の開放的な雰囲気と美しさが作り出されました。

部屋の上部は虹梁(こうりょう)を渡し、「蟇股(かえるまた)」を置いた化粧屋根裏天井となっています。

蟇股や舟肘木(ふなひじき)が飾りとして壁にもあり、古い材からは歴史を感じることができます。

磨きあげられた床に庭の木々の緑が映り込む絶景です。

建物は、中庭をぐるりと囲む「ロの字」に配置されています。

ハギが存在感を増してきていますが、開花まであと一歩です。

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閑院宮跡へのアクセス、行きかた歩き方

京都市上京区京都御苑3
TEL075-211-6348

地下鉄「丸太町駅」下車 徒歩3分
市バス「烏丸丸太町」下車 徒歩3分
中立売西駐車場から徒歩10分

夏は百日紅が見事です 拾翠亭

拾翠亭は、江戸時代後期に九條家の茶室として建てられた、伝統と歴史ある貴重な建造物。

御苑内で、2階部から九條池や高倉橋を望むことができる特別なロケーションが魅力です。

先ず、高倉橋から九条池越しに拾翠亭を眺めます。

明治維新で東下した後も、九條家は引き続き京都訛りの公家言葉を使用したとされています。
大正天皇の皇后、貞明皇后も九條家の出身。

当時、九條池に集まるカワセミ(翡翠)からその字が充てられ名付けられたとも言われています。

一階は主として、十畳の茶室の広間と七畳半の控えの間、その広間の北側の小間になっており、今も二つの茶室が残されていて、現存する公家屋敷の茶室としては数少ない建造物で、貴重な文化遺産です。

建物は数奇屋風の書院造りで、外回りには縁高欄と言われる手すりが施され、簡素な中にも貴族的な外観です。

この建物のメインとも言うべき茶室。光が創り出す静かな世界が美しい。

点々の模様が見えるがこれは『ほたる壁』と呼ばれている。

九条池の周辺にはたくさんの百日紅が植えられていて、夏になると勾玉池のほとりは紅色の花で覆われます。

池にかかる白い橋(高倉橋)と紅色の花、木々の緑がのコラボレーションがなんともいい。

桟には「丁字七宝」の紋が彫り込まれている。

2階には12畳ほどの部屋が広がる、窓の向こうの手すりは縁高欄(えんこうらん)と言う。

九条池側からの眺め、ま屋根の形は「切妻造」「入母屋造」が組み合わされて、優美な外観を呈しています。

庭でひときわ目立つ四阿(あずまや)。

円窓の障子の貼り方は、紙の継ぎ目を故意にずらした「石垣貼り」。

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拾翠亭へのアクセス、行きかた歩き方

地下鉄烏丸線「丸太町駅」下車、徒歩1分
市バス「烏丸今出川」下車、徒歩5分

全長8メートルの木彫りの龍が天井に住む不思議スポット瀧尾神社

江戸中期に行商から大呉服商になり、今の大丸百貨店の礎を築いた天下の豪商・下村彦右衛門。
瀧尾神社(たきおじんじゃ)は、その下村彦右衛門が熱心に参ったことで知られる。

江戸後期の天保年間に完成した現在の社殿も、下村一族の資本によるもの。
2500両(現在価値で5億ほどと考えられる)という、豊富な資金を背景にした再建は「何でも一流を」との考えから。

本殿や拝殿に豪華な彫刻がほどこされているのも、潤沢な資金のおかげだ。
社内には、歴代の大丸百貨店の様子なども奉納されており、大丸百貨店の歴史を知ることもできる。

創建年代は不詳だが、「源平盛衰記」にその名が見える。
天正14(1586)年10月に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したのに伴い、現在地に遷座した。

現在の本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎は、下村家(現在の大丸百貨店)の手により、江戸後期の天保10(1839)年〜11年にかけて造立された。

拝殿の天井には全長8mの巨大な龍の姿がある。
無垢材で仕上げられた、木目も麗しい龍は、巨木を何十本も使って作られた大きなもの。

日本一の大きさとも言われている。
木目の位置まで計算し、立体感や躍動感が湧き出るように製作されている。

出来が良かったため、夜な夜な抜け出し、近くを流れる今熊野川まで水を飲みに行くとの話が広がった。

神社側では拝殿の天井に網を取り付けて、龍が自由に動けないようにしたという。
現在は網はなくなっており、拝観も自由。

スリッパに履き替えて拝殿の上に上り、自由に龍の姿を堪能できる。

本殿の正面は霊獣らしき彫刻に守られている。

雲上におり、顔は鳳凰、四足、体にはウロコがあり、鳥のような爪を持つ姿は、何の動物や霊獣を表すのかわかっていない。

少なくとも京奈には、同様の霊獣が描かれた例は無いことから、日本でも1体しか存在しない像だといわれる。

幣殿正面の奥には鳳凰の顔を持ち、ウロコで被われた身体、鳥のような爪のある四本足の霊獣がいますが、何という動物か名前すらわかっていません。

目が入れられた像が多いのは、江戸末期に目を入れる技法が流行したため。

回廊には十二支の姿、水鳥や阿吽の龍、獏、鶴、鳳凰、尾長鳥、霊獣である犀や麒麟の姿も見える。

平成12年に瀧尾神社境内へ一部が移された「三嶋神社」は、うなぎを描いた絵馬を奉納すると安産、子授けに御利益があるといわれ、秋篠宮さまがご参拝になったことでも有名に。

末社
瀧尾天満宮,金刀比羅神社,大丸繁栄稲荷神社,愛宕神社の四末社が鎮座。

陰陽の石本宮(東山区上馬町鎮座)、表鬼門より出土の御神石。
夫婦和合、子授懐妊に霊験有り。

右側が陰石(女石)、左側が陽石(男石)。
御神徳をいだだく為、おさわり下さい。説明書より

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瀧尾神社へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市東山区本町11丁目718
電話:075-531-2551

京阪電車 東福寺下車 徒歩約5分 
市バス 東福寺下車 徒歩約2分 
JR 東福寺下車 徒歩約5分

光明皇后創建の新薬師寺

新薬師寺という名前は「新しい薬師寺」ではなく、「霊験新たかな薬師如来さまを祀ったお寺」という意味で、西ノ京の薬師寺とは全く無関係。
聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が創建された寺。

本堂(国宝)
堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像を安置、これを囲んで十二神将像が外向きに立つ。

この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を転用したものではあるが(密教的修法が行われた「壇所」であったという説がある)、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重。

新薬師寺の最大の見どころは、ご本尊の「薬師如来像(国宝)」の周りを、「十二神将立像(11体が国宝)」がグルリと円形に取り囲む姿。

まさに「薬師如来さまを守る!」という十二神将の本来の仕事を全うするかのように、その周囲に並ぶ姿は圧巻!

南門をくぐって左手にある「観音堂(元は地蔵堂)」。
鎌倉時代作の重要文化財。

格子越しにしか見ることができませんが、薬師如来・地蔵菩薩・十一面観音の3体が祀られています。

元興寺の鐘楼にあった鐘は、いつしか新薬師寺に移されましたが、その鐘には小僧と闘ったときの鬼の爪痕がたくさん残されている。
また、勇敢な小僧とは後の道場法師。

実忠和尚御歯塔。
実忠和尚は東大寺の僧で、あの東大寺二月堂のお水取りを創始した方。

元々は十三塔だったが、倒壊やらで現在は五塔になっている。

境内の南西隅にある石仏群。
小屋の中には、地蔵菩薩三軀(く)、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面阿弥陀名号石がある。

一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ、脇侍には冥界を司(つかさど)る十王を配しています。

稲荷社

会津八一歌碑。

「ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなわすとも あらぬさびしさ」

(うっとりとした眼の)香薬師に近づいて仰ぎ見るのだが、はるか彼方を見られているようで、私をご覧になっているようには思えないこの寂しさよ。

新薬師寺より香薬師堂へ向かう。

新薬師寺の香薬師堂に「夜泣き地蔵」が祀られている。

春日大社の社殿から夜毎に泣き声が聞こえてきた。
神官が不思議に思って社殿の扉を開いてみると、一体のお地蔵様がおられた。

よく聞いてみると「新薬師寺へ帰りたい。」と泣いていたので、すぐに新薬師寺へ移した。

ということはもともと新薬師寺にあったお地蔵様が何らかの理由で春日大社の方に置かれていたのでしょうか?

香薬師堂庭先に置かれた露盤。
文化10年(1813)癸酉の銘。

南都鏡神社
大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建された。

藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられる。
現在の本殿は、延享3年(1746年)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたもの。

一間社春日造り建築で、奈良市指定文化財となっている。

新薬師寺のことなど・・・・

創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。
『続日本紀』によれば宝亀11年(780年)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。

また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和2年(962年)に台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかった。

治承4年(1180年)の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。

鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)が一時入寺し、復興に努めた。現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものである。

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新薬寺へのアクセス、行き方歩き方

新薬寺公式サイト

奈良市高畑1352

近鉄奈良駅から新薬師寺へは徒歩約30分

南欧の青空


ヨーロッパ南部の港街をイメージしたテーマパーク、ポルトヨーロッパを散策。
まさに古城のイメージ。

澄み渡った青空に白い雲。

古い建物の煙突が印象的だ。

柵の向こうに広がる町並み。

古城の城壁。

裏町の風景。

坂道に佇む像。

午後の陽を受ける噴水。

裏町の家々。

街の佇まい。

城壁の向こうに広がる青空と白い雲。

青空と白い雲が美しい。

パームヤシと雲。

路地裏。

どこまでも広がる白い雲。

パームヤシの向こうには夕日の気配。
青空と白い雲が印象的なポルトヨーロッパの散策でした。

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和歌山マリーナシティへのアクセス、行き方歩き方

和歌山マリーナシティ公式サイト

和歌山県和歌山市毛見1527
0570-064-358 (和歌山マリーナシティインフォメーション)

JR海南駅からマリーナシティ行バスに乗り15分 マリーナシティ下車すぐ、JR和歌山駅または南海電鉄和歌山市駅からマリーナシティ行バスに乗り30分 マリーナシティ下車すぐ、阪和道海南ICから国道42号経由で車で10分