早春の松本城

安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。

市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

二の門と枡形

内堀を渡ったところにある門で、高麗門。

平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元された。

この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。

松本城 一の門、本丸へ入る重要な入り口です。

この門を入るとかつては本丸御殿がありました。

本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。

門を入ると美しい姫が出迎えです。

市川量造と小林有也のレリーフ

向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。

明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。

これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。

「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。

小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。

天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。

駒つなぎの桜

加藤清正が城見のために松本城を訪れた時に駒をつないだという話を伝える桜。

城内にあった老木が「駒つなぎの桜」「御殿桜」と呼ばれていたという伝承があり、昭和30年代後半から昭和40年代前半に、現在の位置に幼木が植えられ、現在の大きさに育ちました。

現存する天守12城のうち五重六階の天守としては日本最古の天守。

左から大天守、辰巳附櫓、月見櫓。
これら三棟は、江戸の家康を監視する城として、甲府城・高島城・上田城・小諸城・沼田城とともに秀吉側の城主が配置された江戸包囲網のひとつの城といわれています。

豊臣秀吉の家臣、石川数正・康長父子により創建された大天守・乾小天守・渡櫓は、文禄2~3年(1593~4)にかけて築造されたというのが松本市の公式見解です。

大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築造され、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初めに造られたと考えられています。

天守・乾小天守・渡櫓の石垣は修理を施していますが、400年前に積まれたままで積み替えは行われていません。

天守台の石垣は野面積(乱積)で未加工の自然石を使用した石垣です。
傾斜も緩い。

※未加工の自然石だがほぼ大きさの揃った石材を横方向に並べ、横目が通った積み方を「野面布積」といいます。

横目が通っているが所々乱れているものを「布積くずし」といいます。
松本城本丸北側の外堀の石垣はこの布積くずしです。

天守からの展望、正面奥は美ヶ原王ヶ頭。

以前美ヶ原を訪れた際の王ヶ頭の記事。

標高2008メートル 美ヶ原の果ての崖っぷち 王ヶ鼻
山本小屋では「朝の自然散策教室(朝飯前の散歩)」が行われる。 朝食前の朝の清々し … 続きを読む →


こちらからは槍ヶ岳が望めるはずですがガスって見えない。

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

右から乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓。

前回訪れた際の記事。
信州の名城を訪ねて 現存天守の残る 国宝 松本城
クラブツーリズムのツアーに便乗、松本城、松代城、上田城と「信州の名城を訪ねて(日 … 続きを読む →

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松本城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902

自動車利用:松本ICから 4km 15分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車 バス 8分
鉄道利用:JR中央本線松本駅下車→徒歩 15分

金沢城 石垣めぐり

金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。

出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。

石川門の枡形。
もちろん石垣がある。

枡形の2面は門で、残り2面が石垣でその上に土塀がある。
この石垣、よくみると積み方が異なっている。

外から入って正面が切り込みハギ積み、入って左側は打ち込みハギになっている。

面が違うとはいえ同じ場所であり、不思議である。
手元にあるパンフレット、”金沢城の石垣めぐり”では、明和2年(1765)の改修時のもの、と書かれている。

どちらが古いのかは明確には書かれていないのだが、一般には切り込みハギの方が新しい技法である。

左右で違うのはおかしい、と書かれて古文書もあるそうだ。
積みなおす際に新しい技法を使った結果なのかもしれないが、やはりちょっと違和感もある。

打ち込みハギ積みの石垣には櫓があるので、石垣をそのままにしたのかもしれない? 理由はわからない。

切石積み、割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む技法で出入り口など重要な部分の石垣に見ることができる。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣

ここから見える三の丸側が「粗加工石積」、裏手の二の丸側が「切石積み」となっている。

「粗加工石積」の多くは郭の外周などに、「切石積み」は出入り口など重要なところによく見られる。

東の丸北面石垣

前田利家が、文禄元年(1592年)、平山城であった金沢城の石垣改修を行った時のもの。

城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なもので、 自然石や粗割しただけの石を緩い勾配で積み上げた「野面積み(のづらづみ)」になっています。

創建:文禄(1592〜1595年)頃 ・改修:一部改修の後が見られるが時期は不明 ・現状:創建時の姿がよく残る。

数寄屋敷 石垣

数寄屋を取り囲む低い石垣を見ると、キレイに直方体に加工された殆どの石材に刻印がされている一種異様な状態だった。

鉄門石垣
本丸への入口となるのが、鉄門。

「切り込みハギ」の技法で、表面を多角形に加工を施したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。

宝暦の大火(1759年)で金沢城は大きな被害を受けましたが、続く明和・安永年間に、さかんに石垣の改修が行われました。

創建:寛永8年(1631年)頃 改修:明和3年(1766年) 現状:明和3年改修時の姿を残す

三十間長屋石垣

「切り込みハギ」で、表面の縁取りだけをきれいに揃え、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。  

精密な細工をしながらも、わざとあらあらしく見えるように工夫されている。

戌亥櫓石垣

「打ち込みはハギ」の積み方をしていながら、 石の隙間に平らな石をはめ込むことで「切り込みハギ」のように見せる技法が用いられている。

長い年月の間に、はめ込まれた石が抜け落ちている箇所があるので、 はめ込まれた石が残っているところと抜け落ちたところを比較すると面白い。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

金沢城の日の出

一夜明けて今日は金沢城の日の出の撮影です、やはり6時前にホテルを出発。

ここでもまず日の出の出現位置の予測から。
散策に訪れた人の意見なども聞きながら、この石川門の右辺りと狙いを定める。

来ました、石川門と雪吊りを構図に収めることに成功。

急いで右へ移動、内堀への映り込みを狙う、ここでは思惑がずれてしまった。

狙いはもう少し右に寄って雪吊りも内堀の映り込みに入れたかったのだが・・・・・

これからは日の出の壮大なドラマの始まり、照らし出された地表が光る。

少し引いて、河北門も入れ、トワイライトブルーの空と地表の輝きを狙う。

約30分の日の出ショーも終わりです、通学、通勤の人達の動きが始まりました、ホテルへ帰り朝食です。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

幻想空間 玉泉院丸庭園

加賀藩代々の藩主たちが愛でた大名庭園を、夕焼けをテーマに気品ある灯りで表現、幻想の空間が広がります。。

夕焼けの庭。

宵の庭。

夜更けの月見の庭

石垣もライトアップされており、近づいて見ることもできます。

唐傘の高台の方向から。

尺八や筝など和楽器の演奏に合わせた玉泉院丸庭園ならではの四季折々の灯り。

演出①と演出②合わせて7分間の灯りの演出です。

三十間長屋も幻想の闇に浮かぶ。

玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主「前田利常」による寛永11年(1634)の作庭を始まりとし、その後五代「綱紀」や十三代「斉泰」などの歴代の藩主により手を加えられながら、廃藩時まで金沢城内玉泉院丸に存在していた庭園です。

庭園は明治期に廃絶され、その面影は失われていましたが、平成20年から5年間をかけて実施した発掘調査の成果や、絵図、文献、その他類似事例等に基づき設計を行い、平成25年5月に整備工事に着手。

新幹線の開業に合わせたかのように、平成27年3月、歴代藩主が愛でたであろう庭園の姿が再現された。

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玉泉院丸庭園へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

荘厳空間 金沢城

金沢城ライトアップ冬の段、荘厳な雰囲気の中にうかぶ金沢城。

石川門は金沢城の搦手(裏口)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門。

ライトアップに浮かぶ姿は荘厳です。

いよいよ夜の場内に入ります。

広い三の丸広場です、3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。

これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。
右は河北門。

左の橋爪門から鶴の丸広場へ。

前方は東の丸北面石垣のライトアップ、夜間はこれ以上進めません。

松坂門跡から玉泉院丸庭園へと進む。

ライトアップに浮かぶ極楽橋。

玉泉院丸庭園に面した石垣群、上は三十間長屋。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

利家の大修築 名城金沢城

利家は、今に残るような近世城郭へと大修築を行った。 
利家・利長・利常の3代に渡って整備され、同時に城下町金沢も整えられた。

なお、金沢の地名は園内にある湧き水「金城霊沢」(きんじょうれいたく)を由来としている。

兼六園に向かい合って建つ石川門はかつては搦手門(からめてもん)と呼ばれる裏門でした。

旧百間堀の底を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところにある。

白く見える屋根瓦には鉛を使用。

鉛瓦と言っても、全てが鉛で出来ているわけではありません。
瓦の形をした木に、厚さ4~8mmの鉛板を貼りつけたものです。

他の城でも鉛瓦は一部用いられていますが、金沢城のように櫓(やぐら)や門、塀の全てに用いられた例はありません。

鉛瓦が用いられたのには、次の三説が考えられるといわれています。

「城の意匠として気品があるから使われた」といわれる説。
これは、なまこ塀の城壁と、時がたつにつれてくすんだ銀色になる鉛瓦が、城全体に気品をもたらすことからきた説。

金沢城で鉛瓦が使われた理由の一つは、「いざという時に、鉛を弾丸として使うため」といわれるものです

「寒冷地なので、焼き物瓦では長持ちしないから」といわれる説。
これは、豪雪地帯で厳寒の北陸では、当時の技術の焼き物瓦では長持ちせず、城の維持を考えた場合、大変なコストがかかるので、鉛瓦になったのだという説です。

また、鉛瓦の芯の部分に木の板を使ってあるのは、屋根の総重量を少なくするための工夫だといわれています。

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。

「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。

金沢城公園の新しいシンボル、新しく復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。

3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいます。
これらの建物は、戦の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造になっている外壁がその強固さを示しています。

明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模で、大径木の事前調達や土台石垣の解体、修築を含め、平成10年3月から実に3年4ヶ月をかけて造られました。

菱櫓という名前の通り、建物の平面は菱形で、四隅の内角は夫々80度と100度になっています。

建物が菱形の場合、柱も菱形です。

金沢御堂址地は勝家の重臣佐久間盛政により金沢城が築城されます。

1582年(天正10年)6月2日信長は明智光秀によって討たれ、豊臣秀吉の天下となると前田利家が入城、加賀百万石の祖を築き、明治維新まで前田家が城主を務めます。

犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、約4kmの導水トンネルを経て小立野台地に出た後、兼六園の園内の曲水となる。

かつては、導水管を用いて外堀をくぐらせ金沢城内に水を供給し、さらに市内に配水していた。

金沢城は堀に囲まれていたが、板屋兵四郎は水の高低差を利用して金沢城内に水を吹き出させた。

これは取水地が金沢城より高い位置にあることを利用した逆サイフォン(当時は「伏越の理(ふせこしのことわり)」と呼ばれた)であった。

当初は木管が用いられていたが、後に石管に替えられた。石管は、市内の石川県立歴史博物館の中庭等で保存されている。

1950年代頃から地表部に生活排水の流入が目立ち始め兼六園の曲水にも悪影響が出始めたため、地表部分の大半には並行して兼六園専用のバイパスが埋設された。

石管には、富山県砺波市で産出した金屋石が使用され、富山県十二貫野用水の第一分水である龍の口用水で使われた技術が利用されている。

鶴の丸広場、本丸・東ノ丸の真下にある郭のことで、東ノ丸にいた芳春院(利家夫人)が、ここに白い鶴が舞い下りているのを見て、 これは前田家が長く栄えていく瑞祥(めでたい事の兆し、吉兆)であるとして、 この郭を鶴ノ丸と名付けたという。

初め、二代藩主利長がここに便殿(休息用の御殿)を 建てて住み、政治を見ていた。

また、ここに人質を置く建物があり、慶長19年(1614)及び 翌元和元年の大坂の役の時、出兵中に領民による騒乱を防ぐために加能越三国の一向宗の坊主や百姓・ 町人の主だったものを人質としてここに収容したとも伝えられている。

本丸と二ノ丸、鶴の丸をさえぎる場所にある、大きな石垣。
中央部分がナナメに切られ薬研堀のようにも見えるが、よくみると斜面にも石垣が積んである。

二ノ丸から直接本丸(東の丸)へこのルートでは行けないように仕切っていたと思うのだが、左側の本丸石垣だけでなく、なぜ右側の石垣もあるのかは不明。

金沢御堂は百姓の持ちたる国、一向宗徒加賀の拠点として1546年(天文15年)に築かれました。

1575年(天正3年)8月15日信長は越前一向一揆衆を滅ぼしその勢いで加賀に攻め込み南二郡を攻め滅ぼし、簗田広正に与えられます。

しかし、一向一揆の力は強く広正は苦戦します。
加賀平定は一行に進まず、信長は広正に見切りを付け柴田勝家に加賀平定を命じます。

1578年(天正6年)3月信長に契機が訪れます。
加賀、能登、越中などの地を巡って争っていた越後の上杉謙信が急死したのです。

柴田勝家は加賀侵攻を試みますが、一向一揆を攻めあぐねます。
しかし、1580年(天正8年)閏3月5日信長は10年間に渡って争った一向宗総本山石山本願寺の顕如と和睦、閏3月9日勝家は野々市砦を攻略、金沢御堂も攻略されます。

しかし、3月17日和睦の条件として加賀の地は一向宗に返すこととなります。
しかし、あくまでも信長に従順ならばという条件付きであり、加賀一向一揆は信長と激しく争い、結果的に戦いは激化11月17日ついに勝家は加賀一向一揆を攻め滅ぼします。

丑寅櫓跡、東ノ丸の隅櫓があった所で、本丸から北東(丑寅)の方角にあるので「丑寅櫓」と名付けられた。

物見や本丸の防御を狙っていましたが、宝暦の大火(1759)の際に焼失。

目の前は兼六園、遠く戸室山、医王山などが眺望できる展望台となっています

辰巳櫓跡、辰巳は天守閣から見て南東の方角、丑寅は北東の方角、戌亥は北西の方角のことで、 辰巳櫓、中櫓、丑寅櫓は、百間掘を挟んで、金沢城の一番の弱点である小立野台地(兼六園方向)に 睨みを利かせ、戊亥櫓は二ノ丸を始め、城内全部に目を光らせたのでしょう。

辰巳櫓跡の展望エリアからの眺望。
いもり堀と鯉喉櫓台が見える。

いもり堀は、今の復元堀の向こう側に隣接する3車線ぐらいの車道あたりまでが当時の外堀だった。

写真では分かりづらいが、手前の下に見えている四段石垣の上3段分が当時の高石垣だったので、櫓自体はこの数m先の空中に建っていたイメージか。

兼六園から見た辰巳櫓跡、以前の撮影です。

築城当時は天守や御殿を始め多くの建造物が建ち並ぶ城の中心地だったようだが、築城からそれほど経っていない1602年には落雷で本丸全体が炎上(火薬庫に火が移ったからとか)、その後は天守は再建されなかったという。

今はこのとおり森。
古くは金沢御堂(加賀一向一揆の本願寺本拠地)があった場所という。

三十間長屋から本丸石垣沿いに鶴丸倉庫の方へ下ると見えるトンネル。
第九師団駐屯当時の、弾薬庫への通路。

三十間長屋、本丸付段に安政5年(1858)に再建された長屋で、金沢城に現存する長屋建築としては唯一のもの。

宝暦の大火(1759)で焼失した後、100年近くたって再建された。

幅3間、長さ26.5間余りの2階建て多聞櫓で、鉛瓦葺の堅牢な構造が特徴。

二ノ丸は城内中央の郭で、周囲が530m。

慶長7年(1602)の天守閣焼失以降、城の中心は二ノ丸へと移され、藩主の居館として二ノ丸御殿が整備されていった。

宝暦9年(1759)と明治14年(1881)に焼失。現在は広場になっている。

二ノ丸から本丸への通路に架かる極楽橋、金沢城内ではっきりした名称の付いている橋は珍しい。

その名称から金沢御堂時代の遺構であるとの伝承がある。

昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。

以前の訪問記です。

加賀百万石の威容 金沢城
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦 … 続きを読む →

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

石川県金沢市丸の内1番1号
TEL 076-234-3800

金沢駅―――兼六園下下車――― 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅―――広坂下車――― 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅―――出羽町下車―――兼六園(小立野口)

犬山城の紅葉 あいにくの雨でした

犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつ。

また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、松本城、彦根城、松江城)。

犬山遊園駅から本日の宿泊先、名鉄犬山ホテルへ向かう。

駅に着いたころから雨脚が強くなり、犬山城も雨に霞む。

別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる。

歩道は散り紅葉をちりばめて風情を感じさせる。

チェックイン後早速犬山城へ。

天守閣の「高欄の間(こうらんのま)」と呼ばれる四階は、正面3間(5.4m)奥行き4間(7.2m)で周囲に幅約半間(90cm)の回廊と高欄をめぐらす。

高欄の間から、鉄門、隅櫓等の景観、庭には「四季桜」が咲き、紅葉とともに楽しめる。

木曽川と犬山橋の景観、日本モンキーパーク、有楽苑、犬山成田山等が見られるが雨で視界は良くない。

突上窓から雨に霞む紅葉の向こうに木曽川と犬山橋の景観。

犬山城の天守は外観3重、内部は4階、地下に踊場を含む2階が付く。
窓は突上窓と火灯窓、両開き窓などから野面積の天守台石垣が望まれる。

地下一階の穴倉。

犬山城の下にある針綱神社のそり橋、柵があり登れない。
柵がなくともこの角度では登れないだろう。

犬山市のマンホールは国宝犬山城と木曽川の鵜飼い風景。

以前の訪問記桜咲く白帝城 犬山城
木曽川の畔にたたずむ後堅固の城 犬山城も併せてお読みください。

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犬山の宿泊はじゃらん 名鉄犬山ホテルへ。

犬山城へのアクセス、行き方歩き方

犬山城公式サイト
犬山市犬山北古券65-2
電話:0568-61-1711(犬山城管理事務所)

名鉄犬山駅または犬山遊園駅より徒歩15分

彦根城の紅葉

紅葉を見たいと彦根を訪れたが少々早めでした、あと1週間は必要かな。

とりあえず腹ごしらえ。

江戸時代に彦根藩主井伊家から献上されたといわれる「伊吹蕎麦」の専門店、献上伊吹そば つる亀庵。

伊吹山麓で契約栽培している「伊吹そば」を伊吹山の湧水で打ち、こだわりの”だし”や”かえし”おいしい「蕎麦」をご提供しているというので早速挑戦。

風味もよくなかなかのものだ。

立て札には二季咲桜と書いてある。

『二季咲桜 昭和47年4月に水戸市(友好都市)より寄贈されたもので 冬(11月から1月)と 春(4月から5月)の年2回開花します。』

二の丸駐車場を入ったあたりが少し紅葉している。

まだまだ青い葉が多く、あと1週間くらい後がいいのかも。

玄宮園からの天守閣の画像を楽しみにしていたのだが、紅葉は今少し早く、空模様も段々と雲が多くなり期待外れに終わる。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。

天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

黒門山道沿いに見る高石垣は見事です。

井戸曲輪の上下の石垣は、高さが10mを越える高石垣となっています。
とくに下方の石垣は高さが19.4mあり、彦根城の石垣の中ではもっとも高く堅牢(けんろう)な構造となっています。

井戸曲輪跡の上にある虎口から彦根城の景観。

井戸曲輪(いどくるわ)、黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。

孤状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓(しおやぐら)が築かれ、周囲は瓦塀(かわらべい)が巡っていました。

塩櫓の近くには方形と円形の桝(ます)が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸であったと考えられます。

曲輪の名も、この井戸に因(ちな)んで名づけられたのでしょう。

「塩」 と 「水」 は、籠城戦(ろうじょうせん)ともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠なものです。

井戸曲輪は小さい曲輪ですが、黒門から侵入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもありました。

能褒野詰めたところが西ノ丸、ここも天守のビューポイントとしてはよい。

国宝4天守(姫路城、松本城。犬山城)のひとつ。
外観三重、内部三階、地下一階構造で屋根にはいくつもの破風が設けられ、変化に富む姿は実に美しい。

東西面と南北面とはまったく違う印象である。

広い西ノ丸、イチョウの黄葉が見事でした。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。

三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

折からの西日を受けて木陰が長く伸びる、晩秋を思わせる光景です。

天守台、人気者ひこにゃんが撮影用に用意されている。

天守閣から佐和山城をのぞむ。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年(白鳳元年))・姉川の戦い(1570年(元亀元年))・賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))・関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。

戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。

また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。

鐘の丸「登り石垣」、彦根城には全国的にも珍しい「登り石垣」が5ヶ所に築いている。

石垣に向かって左側が溝状に窪んでいるので「竪堀」で登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築いた。

大手門は大阪城に向かう西側に構えられている。     

一の門を高麗門、二の門を櫓門とする左折の枡形であった。
この枡形は奥行に対して入口が1対2となる横長の構造になっている。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

最後は夕日に期待したが雲が多くこれもダメ、今日は期待を裏切られた一日だったかな。

ま、自然相手なので致し方なし。

以前の訪問記井伊家の名城 国宝彦根城も併せてお読みください。

花の生涯 たか女終焉の寺 金福寺はたか女の波乱万丈の物語です、絶世の美女だったとも伝わる。

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彦根城へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県彦根市金亀町1-1

JR西日本 東海道本線(琵琶湖線) 彦根駅から徒歩約15分。
駅前大通りを真っ直ぐ西に向かい、護国神社にあたったら護国神社を囲むように回り込みいろは松の通りを通ってクランクを抜け内堀に突き当たったら左に折れれば正門の木橋がある。

夢の跡

安土築城からわずか3年後信長は本能寺に倒れる。

人間50年
下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり


中世宗教勢力との戦いの中で信長が学んだことは、「武力をもって地域支配はできても、人心を掴むためには宗教(信仰)が必要欠くべからざるもの」ではなかったか。

謂わば、大手道は天皇を迎え入れることも含め、権力と武力による天下布武への道であり、百々橋口から摠見寺に至る登城道は仏法の力を利用した人心掌握の道といえる。

一番最初の画像の中央左に見えるのが石仏。

石垣の中に仏像があるのは戦国の城では珍しくないが、大手道のど真ん中にある例は少ない、しかも、数カ所ある。

仏足跡、発掘調査中に三塚っもので天守下の登城路の途中にある。

この先は伝家康館跡。

現在は焼失した摠見寺が再建されている。

信長のおやじの信秀、これはまあ相当の人ですがね。
しかし、信長の弟の信行、信長の子供の信忠、信雄、信孝、みんなアホウですよ。

信長の叔父たちも凡庸人ですよ。
その中で、信長一人だけがあんなふうに偉かったっていうのは、これはやはり血統的に見て、一種の狂い咲きだと思います。  観音寺潮五郎

武田信玄や上杉謙信は、非常に大きな魅力に富んだ人物ですけれども、旧家の名門の生まれですから、それがあるためにどうしても保守的でね中世の匂いをいっぱい持っていた人物です。

それに対して信長は、どこの馬の骨ともわからない。
ちょっと家系をさかのぼれば、織田家なんかどこから出てきたのか、越前から来たなどとともいわれたりして、あいまいな家なんです。

しかも信長の自身の織田家は、織田一門の中でも、端の端に属する家ですから、決していいとこの子じゃない。

それで要するに、当時の貴族、ローカルな貴族がやるべき作法だとか、考え方だとか身のこなしだとか、あるいは物の本の読み方だとかをあまり知らない。

というよりも全然わからないんじゃないですか。

わからないというよりも、信長はわからない場所で、開き直ってしまった人物なんで、だから信玄とか謙信だとかが信長をどう見ていたかってのは面白いですね。
なんか変な奴だったでしょう、印象は・・・・・   司馬遼太郎

安土城天守閣跡。格子状に、基礎土台となる石が埋められています。

地上6階、地下1階、高さ46mの荘厳な天守閣が建っていたと思うと、どうにも見たくなります。
安土城は天正4年(1576)から建造が始まり、天正7年に完成。

そして天正10年、信長が没した直後に本丸、天守閣が焼失した。

彼の家来たちはですね、まあ自分が役に立って、手柄をどんどん立ててるときには、信長が非常によくそれに報いてくれるからいいんですけど、いったん役に立たないとなったら、信長はたちまち取りつぶしますね。

こういうところがね、非常に冷酷な、今の資本家のやり方と同じですよ。
一種の合理主義的な考え方ですが、長い大きな目で見ると、鼻先思案にすぎんですよ。

この時代の目からすると、くるっているのです。
本能寺の変という復讐・・・・手ひどいシッペガエシを受けたのは当然です。
光秀がやらなくたって、だれかがやりますよ。

たしかに信長は近代人の先駆者に違いないですよ、結果的に見てね。

けどねえ、信長自身は計算を立てて、古い時代を破壊し大掃除して新しい時代を迎え入れようという、そういう気持ちはなかったと、ぼくは思うんです。

結果的にそういうことになったにすぎないと思うんです。

「死のうは一定、しのび草には何をしょぞ、一定語りおこすのよ」というのが、彼の愛唱歌の一つだったといいますからね。

古い時代が、古い因縁がつきまとっていて、新しい時代が展開できない。
いわゆる陣痛期ですね。

そういう時期があります。
そんな時にはやっぱり思い切って破壊する、大魔王的人物が出てきて、古いものを破壊することによって、新時代が開けるということが、歴史にはよくあります。

彼の狂信的な性格が、ちょうどその役目を負わされたと、こう思いますよ。

歴史上の英雄は、みなそれぞれの意味で運命の人ですがね、信長においては、とくに運命の人という感じが、僕には強烈ですね。 観音寺潮五郎

おススメは摠見寺(そうけんじ)の三重塔、仁王門を経て下山するコース。

信長は安土城の築城で地域支配と共に天下布武への第一歩とし、城内に摠見寺を建立することで、人心の掌握を図ろうとしたのではないか。

山科言経の日記『言経卿記』の天正10年9月7日の部分には、「阿弥陀寺にて(中略)、天徳院殿前の右府信長公・景徳院殿三位中将信忠など、来る十二日御百ケ日御追善なり」とあり、当時の信長の法名が「天徳院」、信忠の法名が「景徳院」であった様子が伺い知れる。

しかし、天正10年10月の秀吉による大徳寺での信長本葬に際し、信長の法名は「総見院」信忠の法名は「大雲院」と改められたらしい。

生前より信長と親交の深かった阿弥陀寺住職の清玉上人は、秀吉から阿弥陀寺で信長の葬儀を行いたいと持ち掛けられるが、秀吉の心根が信長の御霊を供養することを目的とせず、ただひたすらに、秀吉が信長の後継者であることを世間に宣伝することを目的としていることを見るや、断固として断った潔癖なる御仁である。

どの時期に阿弥陀寺での法名の変更があったのかは解らないが、今となっては清玉上人の心中を知る者もいない。

天守台から西の湖をのぞむ、今は埋め立てられているが、かつては麓まで波が洗っていた。

長篠の合戦で間断なく弾が飛んでいるということを考えたということは、信長が非常に想像力に富んだ人物であることを想像させるでしょう。

一斉射撃の方法は、ヨーロッパでも遥か後に発見されるんです。

信長は日本人で地球が丸いということを最初に納得した人でもある。

一世紀の後、江戸時代の漢学者林羅山は、地球が丸いという説に反駁する文章を残した。
羅山より100年前、信長はバテレンから地球儀の説明を聞いて、素直に納得したという。

信長が、例えば家康みたいな人と比べて、際立って違うのは、家康というのは百姓ですね。
農政だけしか考えられなかった。

米穀経済だけを考えた人で、これに対して信長は商業の方を大事にした。

信長は大規模なかたちで、世間と商売しようとした。
しかし、彼の商業政策の記録は残っていないから、詳しいことは、信長の直弟子であった秀吉のやり方で想像するよりしょうがない。

安土城天守閣の1/20スケール模型。その天守閣については精密な画や図面が残っている訳ではなく、簡単な画しか残っておらず、色々な学者、研究家が推定案を出しています。

この模型と、実大5階、6階もあくまでその一案です。

我々に残された信長の遺品は数少なく、若いころの信長は異様な服装をしたというが、現在残っている彼の具足からは、その「おおうつけ」ぶりをしのぶよすがもない。

本能寺で、反乱を起こした光秀の大軍に囲まれたとき、信長は無駄な抵抗と知りながら、激しい怒りを煮えたぎらせ、あらんかぎりの力をつくして槍をふるったという。

時に享年49歳。

人間50年。
下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり

信長の愛誦した幸若舞にうたわれる人間50年の定年に、あと1年足りなかった。

過去の当ブログの信長関連の記事、併せお読みいただければ理解の助けになると思います。
織田信長が敦盛を舞い、桶狭間へ出陣した清州城
信長急成長の転機となった桶狭間
長公廟のある本能寺
織田信長の初めての城 小牧山城
織田信長が領した神戸(かんべ)城
天下人・信長か築いた幻の天守と城 安土城
信長も手本にした戦国最大級の巨大山城 観音寺城
信長天下統一への夢の始まり 小牧山城
天下取りへの転換点 金ヶ崎城
姉川の戦い
小谷山上に築かれた近江の名城 小谷城
特別公開銅閣寺こと大雲院
長篠の合戦って正確には設楽原の合戦じゃないの
武田氏壊滅のきっかけとなった戦いと長篠城
戦国武将の野望を物語る 岐阜城
戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城
悲運の武将 明智光秀終焉の地

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秋晴れの大阪城を散策2

今日は先日とは打って変わり時折小雨のぱらつく鬱陶しい空模様となってしまった。
先日回りきれなかった所を散策した。

石垣の抜け穴?
大阪城には真田の抜け穴等の伝説がありますが、六番櫓西側、南面する石垣の中腹に、ぽっかりと口を開けた謎の抜け穴があります。

石ひとつ分くらいの穴は、石垣の上から15メートルほど下方、水面から8メートルほど上方に位置し、人間が出入りできるようなものではありません。

この穴は1959年(昭和34)の大阪城総合学術調査で発見されたもので、長きにわたってその存在すら誰にも知られずにきた謎の穴です。

一説によると、明治以降に陸軍がつくったといわれていますが、どのような意味があるのかは全くわかっていません。
現在では、2メートルほど進むと崩壊していてそれ以上奥には進めなくなっているそうです。

一番櫓(いちばんやぐら)は南外堀に面して二の丸南面隅櫓7棟のうち一番東に位置しているのでこの名がある。
玉造門を側面から防御する役目をもつ。

もとは乾櫓と同様の総二階造りであったらしいが、寛文8年(1668)に大改造され現在の姿となった。
昭和40年(1965)解体された。

この玉造口は、大阪城の東南の出入り口に当たります。
かつては、他の口と同じように、門の内側に石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていました。

多聞櫓は、慶応4年(明治元年・1868)の維新動乱に伴う大火により焼失した。

その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により、枡形の石垣や焼け残った玉造門などが撤去されたため、現在では門の両脇の石組みしか残っていません。

ちなみに、「玉造」の地名は、古墳時代、勾玉管玉など装飾用の石を造った技術者集団「玉造部(たまつくりべ)」が、この南方に住んでいた事に由来するとされています。

大坂城代京橋口定番屋敷跡
大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸時代の役職の一つ。

将軍直属で有力な譜代大名が任じられた。
大坂城を預かり、西国大名の監視および城の警護等にあたった。

大坂における幕府役職の首席であったが、大坂町奉行など他の役人は、制度上大坂城代ではなく老中や若年寄の管轄であった。

大坂城代玉造口定番屋敷跡
城代補佐として2つの定番を配下に持ち、京橋口定番と玉造口定番は各々の虎口警護にあたり、城代は正面である大手口(追手口)を担当した。

城の周囲は南が城代とその家中、北西が京橋口定番とその家中・与力・同心、南東が玉造口定番とその家中・与力・同心の屋敷地となっており、概ね棲み分けられていた。

江戸時代中期以降、大坂城代・京都所司代を経て老中に就任する例も多い。
関東地方など遠方に領地を持つ大名が大坂城代に就任すると、所領のうち1万~2万石程度を大坂近郊で割り当て直された。

退任時には元の所領に戻された(京都所司代への転任などで、引き続き大坂近郊の領地を領有する場合もある)。
そのため、播磨国(兵庫県)南部では頻繁に領主の入れ替わりがあった。

大坂御坊の蓮如上人袈裟懸けの松
1496(明応5)年、本願寺の第8世法主・蓮如(れんにょ)は寺務を5男の実如(じつにょ)に譲り、上町台地の北端に一宇の坊社(大坂御坊)を建立して隠居した。

蓮如の書状には、「摂州東成郡生玉之庄内(せっしゅうひがしなりこおりいくたまのしょうない)、大坂トイフ在所」とあり、大坂はもともと東成郡の一部の地名であったことが分かる。

当時の大坂は「家の一軒もない畠ばかりの地で虎狼の棲むところ」(『拾塵記』)だったそうだが、京都・山科本願寺が法華宗徒に焼き討ちされたため大坂御坊に本願寺を移し、その後、堀や塀をめぐらせた寺内町として大いに発展していく。

大坂御坊を造るさい、蓮如上人が袈裟を懸けて宗派が栄えることを祈ったと伝えられるのが「蓮如上人袈裟懸けの松」です。
梅林から南へ坂を上った左側に「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑があり、その裏側にあります。

蓮如上人の筆跡の「六字名号の碑」。
蓮如上人自筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号碑は雁木坂(がんぎざか)の上に建てられている。

石碑の傍らに置かれていた曰くがありそうな巨石だが、これは井戸の石枠で、石枠はこの井戸の本来のものでなく、大手口にある井戸が本願寺以来のものと伝えられ、蓮如井とも呼ばれていたが、その井戸枠がここに移されたもの。

空堀・北壁の毛利&細川の刻印、内堀(空堀)の桜門に向かって右側の石垣、肉眼でもはっきりと見える「一に○」の書かれた刻印石が毛利輝元の寄進、隣の●が9つあるのが細川忠興の九曜星・・・。

重要文化財 金明水井戸屋形、創建 1626年 (寛永3年)秀吉が水の毒気をぬくために金の延べ板を沈めたとされる。

江戸時代に「黄金水」と呼ばれていた。
1956年(昭和34年)の大阪城総合学術調査の結果この井戸は徳川幕府によって掘られたもので黄金の延べ板もなかった。

この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。

1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工、百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝えられている。

明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」の名で親しまれてきた。
火薬節約その他の理由により、大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

太鼓櫓跡の手前、兵器支廠跡のあたり、ここもほとんど行く人いませんが西大番頭小屋跡がある。
大番は1組50騎×12組からなる徳川将軍直轄部隊でうち2組が1年交代で本丸の警備にあたったそうです。

大番頭小屋の他には与力や同心の住居があって、明治維新後はこちらも陸軍関連施設となりそのレンガ塀。

早稲田の森に彼岸花が咲いていました。

大阪城を囲む大阪城公園の一角にある大阪城公園内早稲田の森は、かつて大阪城公園を住宅地として開発しようとする行政の計画があったものを、早稲田の卒業生であった当時の大阪市の市長が「住宅地としてしまうよりも自然を残すべきである」として開発を許さず、公園として維持・保存することを決定。

これを大阪早稲田倶楽部が支援していたことから、感謝の意を込めて大阪城公園内に「早稲田の森」が作られたということです。
現在、早稲田の森には石碑が建造され、先人達の足跡を窺い知ることができます。

大阪城のばけものやしきあと
ひっそりとした場所でいかにも化け物が出そうな雰囲気がある。

この京橋口の定番(じょうばん)城に一定期間駐在して城を警護する人は妖怪に取り付かれて半狂乱になったり、なくなったりするものが多かった。

そのために定番上屋敷内には稲荷社が祀られ、新任の際には新たに小祠を修造・奉納するようになっていた。

そのため小祠ばかりになっていたが、1725年(享保10年)下野から度胸のすわった戸田大隅守が赴任 邸内にあった社を取り払い、玉造稲荷に移した。
そうすると2.4mほどの大きさの古狐があらわれ、戸田大隅守が退治した。
といわれています。

移動した社は玉造稲荷内の万慶稲荷神社(まんけんいなりじんじゃ) という所にある。

大阪城の人面石、青屋門から少し梅林へ寄ったあたりから内堀の石垣を見れば、人面石と呼ばれる謎の石がはめ込まれています。

画像では、真ん中より少し左上にある黒っぽい小さい石。

本丸から見て北東…つまり鬼門に当たる方角であるところから、魔除けのためにはめ込まれた物と考えられ、「鬼面石」とも呼ばれる。

人の顔が彫ってあるわけではないが、(あるいは時代とともに風化したのかもしれないが)江戸時代のころより人面石と呼ばれ、気味悪るがられていたそうだ。

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大阪城 へのアクセス、行き方歩き方

地下鉄 【谷町線】谷町四丁目駅1-B号出口 、天満橋駅3号出口
【中央線】谷町四丁目駅9号出口、森ノ宮駅1号出口、3-B号出口
【長堀鶴見緑地線】森ノ宮駅3-B号出口、大阪ビジネスパーク駅1号出口
JR 【大阪環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅
【東西線】大阪城北詰駅
京阪 天満橋駅
いずれも徒歩で約15分から20分