秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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ハイアット リージェンシー 大阪(エタニティ・凛-rin-)


生きた建築ミュージアム最後の訪問はハイアット リージェンシー 大阪の結婚式場エタニティ・と凛-rin-。

建築家・青木淳氏が手がけた「エタニティ」、デザイナー ・野井成正 氏が手がけた「凛-rin-」デザイナー チャペルツアー。

ホテル自慢の2つのチャペルをツアー形式で訪問します。

今回唯一抽選で当たった施設、参加者は15名、最後に手土産付きだった。

一つ手前の駅から歩く。

国際展示場の開場に併せて、当時はまだ珍しかった国際ブランドのホテルが上陸。

2006年に新設されたチャペルは建築家・青木淳氏の設計で、リングを立体的に組んだ構造体が、幻想的な内部空間をつくり出している。

1994年6月24日、大阪南港の再開発事業「テクノポート大阪」の中心である咲洲コスモスクエア地区に28階建ての高層ホテル「ハイアット リージェンシー オーサカ」として開業、2009年に名称を「ハイアット リージェンシー 大阪」に変更した。

施設は大林組が建設・所有し子会社「エイチ・アール・オーサカ」が運営していたが、2014年3月に香港の不動産・ホテル運営企業ガウ・キャピタル・パートナーズ子会社のGCP Hospitality Japanへホテル事業を譲渡。

ホテル物件は2016年11月に星野リゾート・リート投資法人が取得し、ホテル運営企業のGCP Hospitality Japanも星野リゾートの傘下に入り社名を「HRO」に改めた。



広々とした、居心地のよいロビーラウンジからは屋外庭園とウォーターガーデンの素晴らしい景観が。






白い教会は、「ハイアット・リージェンシー・大阪」の結婚式場として建設された80人収容の小さなチャペルである。

直径60cm、部材の太さが25mm角の鋼材リングが、立体的に組み合わさった構造を持つ。

リングの立体配置は、任意の立体を充填する切頂性四面体を仮想の1単位とし、その4つの正六角形に内接する円の配置に相当する。

鋼材リングは、互いに溶接により結合され、全体として、大部分を空隙が占める泡状の立体格子を形成している。

立体格子は、屋根を支えるだけでなく、外装のガラスを支持するMPG構法としても利用されている。

立体格子の内側には、二重に織りこまれた白いオーガンジーのスクリーンが吊るされている。


番傘にインスパイアされた芸術的なチャペル 凛-rin-

シンプルな外観からは想像できない、木組みの天井が美しいチャペル。

バージンロードを照らす天窓からの光が、ゲストとふたりの新たな歩の道標に。

グランドピアノ、コントラバス、チェロに加え、ヴォーカルの生歌が響きわたり、天窓からの光がバージンロードを美しく照らす、おふたりのためだけに用意されたステージ。

アクセス

大阪メトロ
中央線コスモスクエア駅経由、ニュートラム南港ポートタウン線 中ふ頭駅下車、徒歩約3分。

お車で
阪神高速湾岸線、南港北出口(南行き)から約5分・南港南出口(北行き)から約10分。
大阪港咲洲トンネル道路ご利用で、大阪港の築港交差点よりホテルまで約4km。
※330台収容の駐車場完備。

無料シャトルバス
JR大阪駅とホテルを結ぶ無料シャトルバス(所要時間約25分)をご用意。

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ミズノ大阪本社


生きた建築ミュージアム訪問6社目はミズノ大阪本社。

1906年に大阪で創業した世界的な総合スポーツ用品メーカー。

特に野球が国民スポーツになるのに果たした役割は絶大だ。

1992年竣工の大阪本社は南港エリア最初の超高層ビル。
隣に新研究開発拠点も完成した。

ミズノ大阪本社は、2022年4月に30周年を迎えました。

現在の場所に移るまでは、大阪は千里・淀屋橋・鷺洲に事業所がありましたが、それらを統合すべく現在の住之江区に建設されました。

当時はまだ現在の最寄り駅であるコスモスクエア駅は存在せず、5km以上離れた弁天町駅からチャーターバスで通勤していた。

朝の時間は特に混むので、出勤時間を9時、9時半、10時の3段階に分けて調整していました。

ミズノスポートロジーギャラリー

大阪南港、ミズノ本社ビルの1・3階に設置された、スポーツ商品を展示するギャラリー。

明治時代から現在までのオリンピックの公式ポスターや、過去100年間のミズノの歩みやスポーツ・オリンピックの歴史、大正後期の野球選手のユニフォームや昭和初期の牛革グラブなど、明治39年(1906)の創業以来、日本のスポーツ界を支えてきたトップメーカーのスポーツ用品がズラリと並ぶ。

また、2012年にリニューアルオープンし、プロ野球コーナーやアスリーツ・ロードコーナーを設置。

展示だけでなく、実際にミズノ契約選手が使用している用具に触れることができる。

その他、用具やウエアに秘められたミズノの最新技術を伝えるコーナーでは最新機能がわかりやすく体感できるキットも用意している。
入場は無料。

クリスタルオブジェ「炎」

ところで、ミズノ社員は大阪本社のことを「MC」と呼びます。
何の略でしょうか?
ミズノコーポレーション(Mizuno Corporation)?ミズノカンパニー(Mizuno Company)?いいえ、答えは「ミズノクリスタ」です。

実は、ミズノ大阪本社は「ミズノクリスタ」という名前がつけられているのです。

外観がクリスタルであり、規則正しい原子配列を持つ結晶のような構造のビルであることから、クリスタルとミズノを結び付けて命名されたそうです。

本社1階には、スポーツ文化新世紀への熱い心を込めて制作されたクリスタルオブジェ「炎」が展示されています。

アクセス
南港ポートタウン線「中ふ頭駅」より徒歩5分
営業時間10:00~18:00

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ブリーゼブリーゼ


サンケイビルの跡地に建つ超高層ビルは、国際コンペの名だたる建築家の中から、若手ドイツ人建築家がデザインアーキテクトに選ばれ話題に。

東京五輪のロゴをデザインした野老朝雄氏が関わるなど見どころも多い。
イケフェス大阪の評。

2008年(平成20年)10月3日にグランドオープンした地下1階から地上6階および33階の計8フロアから構成される商業施設。
総店舗面積は約10,000m2。

ブリーゼブリーゼのシンボルマークは、BREEZÉの「B」をモチーフに「風のなかで軽やかに踊る人」を表現している。

デザインは、「自分らしく生きる女性」のイメージとエンターテインメントを象徴している。

又1階の吹き抜け部分には施設のコンセプト「『驚き』こそ最高のおもてなし」を体現し、コンピューター制御で手を上げるなどの動作ができるキャラクター「ブリCH」(全長12メートル)が設置されている。

由来

建物名称「BREEZÉ」は、ダブルスキンファサードを採用し、外部の風速に影響されず室内に流れ込む風量を一定に制御する風量調節弁と各階の空調機と連動する換気扉によって、「そよ風=breeze」を感じる自然換気が行われることに由来する。

6階の壁画アートは、作家自身が大阪の街を歩き、道行く人に聞いて感じた「大阪の今」と「それを取り巻く世界」をドローイングしたもの。

ダイナミックかつ綿密な、まさに圧巻のアートワークです。

1~6階を貫く開放感溢れる吹き抜けには、光と色彩のアートが壁一面に施されています。

色とりどりの葉がそよぎ、舞を躍っているかのような、広大に広がる色鮮やかな森の空間のイメージです。

アクセス

西梅田駅から徒歩3分(180m)
北新地駅から徒歩3分(230m)
大阪梅田(阪神)駅から徒歩6分(400m)
バス停

ハービス大阪バス停から徒歩2分(140m)

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大阪市中央公会堂


大阪市中央公会堂へ向かいます、コロナ 水際対策緩和で外国人旅行客増加で水上交通も俄に活気を帯びています。

「こども本の森中之島」(安藤忠雄氏が大阪市に寄附)。

安藤さんは、近代米国の詩人サミュエル・ウルマンが70代で作った「青春の詩」からオブジェを着想、安藤さんの建築の建物には大概青いリンゴがある。

安藤は大病で療養生活を送った折に読書する時間を得たことで、子どもが本と触れあう場所を作ることを着想した。
建物の設計も安藤が手がけている。

蔵書の貸し出しは行わない代わりに、館内および公園内全てを閲覧スペースとしている。
開館時の蔵書(約1万8600冊)には市民から寄贈された本も含まれる。

大阪・中之島公園の一角に、温度計と時計の機能を兼ね備えた円錐形のオブジェが設置された。

高さ3メートルの対になったガラスのコーンは、「地球の体温計」と名付けられ、上昇を続ける地球の体温を可視化する意図が込められた。
青色のLEDが上下することで気温を表示する。

「地球はひとつ。気温を視覚化することで、年々暑さが増す地球規模の環境に意識を向けながら、50年後、100年後も人々に愛され、この地に残り続けてもらいたい」と建築家の安藤忠雄は述べた。

大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円(父親の遺産50万円に自分の手持ち財産を加えたもの。

現在の価値で数十億円)を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。

「北浜の風雲児」と呼ばれていた株式仲買人・相場師の岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さやアメリカの富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い感銘を受けた。。

帰国後、岩本栄之助は父の遺産と自分の私財を併せた100万円を地元の公共施設建設に寄付することを決めた。

当時、大阪の中之島は、蔵屋敷の廃止後、町が衰退しその後の町の将来ビジョンをどうすべきか検討中であったので、岩本の寄付金はその町の中心シンボルとして「中央公会堂」の建設に使われることに決まった。なお、「中央公会堂」の所在地は浜田藩の蔵屋敷跡になる。

設計デザインは、「懸賞付き建築設計競技」(最終的に13名が参加)により、当時29歳だった岡田信一郎のデザイン案が1位に選ばれ、その岡田のデザイン原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。

辰野金吾は東京駅の建築家でも知られる。

1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日に中央公会堂は完成し、オープンする。

一方、株式仲買人の岩本栄之助は第一次大戦による株式相場の大変動で大きな損失を出す。

周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧めるが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。

1916年(大正5年)10月、中央公会堂の完成を見ないままピストルで自殺した。(享年39歳)

鍛造による部材構成。
部材は全てピン接合。

その状態が見えるように塗装していない。

特別室に入るとまず目に飛び込んでくる壮大な天井画!!

日本神話から「天地開闢(てんちかいびゃく)」の様で高天原に生まれた三柱の神。

天井画は、日本神話に登場するイザナギとイザナミが国づくりのために用いる天沼矛を授かる場面。

北側の壁には商業の神としてスサノオノミコト、南側の壁には工業の神としてフトダマノミコトが描かれています。

これは商業都市として繁栄をとげた大阪にちなんだものです。

そして何といっても扇形の窓いっぱいにほどこされたステンドグラスの華やかさ!

使われているガラス片は5,162枚に及ぶとのこと。

見事なステンドグラス!中央円部分の四隅のリボンのような紋様が大阪市の市章である「みおつくし」になっています。

凸レンズがたくさん使われています。これは部屋の隅々に光を拡散させるためだそうです。

扉の模様も描かれているように見えて、実は色の異なる木を模様に切り出しはめ込むという木工象嵌(もっこうぞうがん)という技法が用いられています。

前回の訪問記
大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人で … 続きを読む →


大阪市中央公会堂は日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。

赤煉瓦ネットワーク(東京大学生産技術研究所教授・藤森照信氏ら監修)による「20世紀 日本赤煉瓦建築番付」にて、広島県にある江田島旧海軍兵学校生徒館、福岡県にある今村天主堂と共に、西の横綱に選ばれている(東の横綱は、東京駅や富岡製糸場など)。

横浜開港資料館日本赤煉瓦建築番付でも、京都国立博物館と共に、西の横綱に選ばれている。

栴檀木橋(せんだんのきばし)

江戸時代の初期、土佐堀川を渡って中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられる橋。

橋筋に栴檀の大木があったところから、この名が付けられたという。
明治18年(1885)までは木橋のままだったが、大洪水で流出。

しかし付近に大阪図書館(現在の中之島図書館)や大阪市庁舎の建設が決まったため、大正3年(1914)に再び架けられた(その後、昭和10年1935にも架け替えられている)。

現在の橋は、昭和60年(1985)に架け替えられたもので、旧橋のイメージを大切にしながら、橋面などは中之島図書館や中央公会堂など背景にある歴史的建築物との調和を重視したデザインとなっている。

橋詰にその由来を伝える碑や大正時代の親柱、先代の橋の橋名板、センダンの木のレリーフなどが展示されている。

「緑の賛歌」は、彫刻家「本郷新」の作品で、1973年に大阪市の緑化運動に協力して、浅井鉞次郎氏が寄付したブロンズ像。
1973年4月16日に除幕式が行われた。

アクセス

地下鉄御堂筋線「淀屋橋」駅下車1番出口から徒歩約5分
京阪電鉄「淀屋橋」駅下車18番出口から徒歩約5分
京阪電鉄中之島線「なにわ橋」駅下車1番出口すぐ

ライトアップ時間
 3~4月 19時~23時 
 5~8月 19時30分~23時 
 9~10月 18時30分~23時 
 11~2月 18時~23時
      時間帯は予告無く変更することもあります。

公会堂スタッフによるガイドツアー

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大阪証券取引所ビル


大阪証券取引所ビル

平和不動産の所有で、下層階は旧市場館の外観を保存したものとなっている。
エントランスホールの大型モニターには、大阪取引所の顔である日経225先物取引の取引値が表示されている。

欧州に留学。神戸事件、堺事件と続く外国人殺傷事件の解決に奔走し、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。

欧州留学して外 国事情にあかるいことから、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。

これが大阪とかかわる第一歩であった。

五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。

東の渋沢栄一と並び称される五代が49才の若さで亡くなったことは、大阪にとってまことに不幸であった。

遺言で大阪の土となった。
墓は阿倍野斉場にある。

当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。

現代的なビルに建て替わっても、金融街の顔として親しまれた外観は残された。

吹き抜けのエントランスホールも当初からの空間。

楕円形なのは直交していない堺筋と土佐堀通の関係を調整するため。
設計者の技量が光る。

諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。

なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引である。

この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引の方法にあたる)が行われていた。

テナントは、地下1階と1階に「ポンテベッキオ」など飲食店が、2階は銀行とクリニック、3階には大阪経済大学(北浜キャンパス)が入居し、社会人向けの実践的カリキュラムを提供している。

5階は見学スペース「OSEギャラリー」(2015年2月2日オープン)となっている。

オフィス棟の上層部にはSCSKの西日本(北浜)オフィスや証券会社が多数入っている。

旧市場館は1935年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。

施工は大林組。2004年の新ビルでも円形のエントランスホールの外観のみ残されている。

開業免状

大阪株式取引所設立出資者の上位は下記の6名である。

株数 出資額 氏名 属籍 出自・備考など
150 1万5000円 五代友厚 薩摩藩士 参与・大阪府判事
150 1万5000円 鴻池善右衛門 鴻池財閥 鴻池家第11代当主
150 1万5000円 三井元之助 三井財閥 京都三井伊皿子家第7代当主
150 1万5000円 平瀬亀之助 大阪千種屋 第三十二国立銀行創立者
150 1万5000円 住友吉左衛門 住友財閥 住友家第15代当主
150 1万5000円 笠野熊吉 薩摩藩士 広業商会総裁

かつて証券取引所の立会場で、手でサインを使って売買注文を伝える証券マンのことを「場立ち」と呼んでいました。

場立ちの歴史は古く、江戸時代の享保15(1730)年に幕府から米切手を売買する現物市場と、米の代表的な銘柄を帳面上で売買する先物取引が認められ、大阪に「堂島米会所」が開かれた時に遡ります。

場立ちのサインは、手話のように手の動きで売買注文の内容を表します。サインで表す内容は「どの銘柄を、何円で何株買う(または売る)か」です。

まず銘柄を表すサインですが、たとえばトヨタ自動車の場合は片手でカタカナの「ト」を書き、そのあとに両手でハンドルを握る仕草をします。
また、NTTは片手を耳にあてて電話で話す仕草、キャノンはカメラのシャッターを押す仕草をするといった具合です。

難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる堺筋の橋。
浪速の名橋50選選定橋。
大阪弁では「ナンニャバシ」と発音する。

橋詰の4ヶ所に、阿(あ)と吽(うん)それぞれ2体の石造のライオン像が配置されていることから、「ライオン橋」の愛称でも親しまれている。

その後、橋本体の傷みがはげしく、架替えられたが、装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている。

難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年頃に行基によって架けられたといわれている。

天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。

「浪華橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。

1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。

中之島 夜景散策
日没後は橋の下側がカラフルにライトアップされ、水都に花を咲かせます。
難波橋」を渡っている時はこのライトアップに気がつきませんが、「中之島公園」へ入って分かるライトアップ、粋な計らいですね。… 続きを読む →


1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。

パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたといわれるこの新橋が現在の難波橋である。

華麗な照明灯、中之島公園へ降りる広い石造りの階段などが美しい。

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カレーと甘いものと雑貨 北浜長屋


北浜レトロのすぐ近所に長蛇の行列、店をのぞいていたら係の女性がどうぞ並んでくださいと、でもたくさん並んでんや、なに、すぐですからどうぞ。

勧められるまま列に並ぶ、生きた建築ミュージアムのサイトでは見落としていたなぁ。

船場の川沿いに残る唯一の木造建築は、1912年に建設された和洋折衷の二軒長屋。

耐震補強を含めたリノベーションによって、人気のカレー店とカフェへと再生された。

川の眺めと、2階道路側の金属天井が見どころ。
と、サイトにはある。

築100年以上という二軒長屋を改装した同施設。
「一部に100年前のレンガ壁なども残る歴史ある建物で、水辺を気楽に楽しんでほしい」という思いで開業したという。

ラクダの置物がやけに目立つ。

ビルの谷間にはさまれるように、木造2階建ての建物が残っています。

この「北浜長屋」は、二軒続きの長屋として1912(大正元)年に建てられました。

通り沿いの外観は一見したところ、和風です。
でも、格子戸のついた町家などとも違います。もっと頑丈な感じがします。

その理由が、黒い壁と小さな窓ではないでしょうか。
黒い壁は木造の建物の外側に、漆喰(しっくい)に煤(すす)や炭を混ぜた「黒漆喰」を塗り込めてできています。

江戸時代の倉庫である蔵(土蔵)のつくり方を取り入れています。

2階の小さな窓も、同じく蔵に由来したものです。
縦長の窓はすべて両側に扉を備えています。

万一の火災の際には、しっかりとかみ合うよう合わせ目にギザギザを付けた観音開きの扉を閉めます。
こうすれば火が侵入することなく、中にしまっている物品が守られます。

埼玉県・川越の蔵造りの町並みが思い出されるかもしれません。
実際、川越にある建物もこの建物も、関東風の見世蔵にならっています。

それでいてこちらは、あたりがどこか柔らかいのです。
大きな箱棟や鬼瓦をあげる関東風の屋根ではなく、さらりとむくり(ふくらみ)をつけた関西風の瓦屋根によって、品よく仕立てているからです。

確かに以前行った川越の街で見かけた風景に瓜二つだ。
川越城と小江戸川越を散策
江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。 別名、初雁城、霧隠城。 関東七名城・日本1 … 続きを読む →


ふと見上げると、100年前の天井が、そのまま残っていました。

この場所にぴったりなコンセプトのお店で、時間を忘れて隅々まで見入ってしまいました。

なんと、金属製の天井がむき出しで、建物の歴史を感じます。

2階から望める大川。
行きかう船やバラ園も見えます。
ビジネス街にありながら、ここだけ時間の流れが止まったようです

週末は2時間待ちも当たり前だそうです。

「オクシモロン 北浜」さんは、鎌倉や二子玉川で人気の『カレーと甘いものと雑貨』のお店の関西初出店のお店。

OXYMORON(オクシモロン)

意味は↓
[意味の矛盾する語句を並べて、言い回しに効果を与える修辞法。
「無慈悲な親切」「ゆっくり急げ」など。(コトバンクより)]

大阪メトロ堺筋線、京阪本線「北浜駅」より徒歩約2分、土佐堀通りと土佐堀川に挟まれた北浜リバーサイドの二軒長屋の中にお店があります。

営業時間

平日 11:30~20:00(ランチLO 14:30、ティータイム14:30~17:00、ディナーLO 19:30)
※ティータイム中、カレーの提供は2種類のみ
土日祝 11:00~19:00(LO 18:30)

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北浜レトロビルヂング[北浜レトロ]


今年もイケフェス大阪がやってきた。

2日間の会期で138件の公開参加建物、申込不要で楽しめる建物は、メイン期間の各日ともに100件近くもあるのです。

私はたくさん申し込んだのですが、当選は1件のみだった。

以前からその存在は知ってはいたが参加するのは初めて。

当選者数が少ないのは当然、そもそも定員がせいぜい15名から20名がほとんどなのだ。

最初に選んだのはアフタヌーンティーが有名な英国カフェ「北浜レトロ」。
何もかも可愛すぎた!【まるで絵本の世界】

お店の扉を開けると、まるで絵本の中に入り込んだようなメルヘンチックな世界が広がります。

店内は白い壁にエメラルドグリーンの柱や窓枠、木の床がレトロな雰囲気をかもし出しています。

味のあるアンティークの棚にはオリジナルブレンドティーや英国風の食器、インテリア雑貨が、所狭しと置かれていて、なんだかわくわくしてしまいます。

巨大なティーポットの立体看板が目印。

もともと証券の仲買業者の社屋として明治45年(1912)に竣工した建物は、英国のグラスゴー派の影響を受けており、国の登録有形文化財ともなっている。

現在は1階が英国風ケーキ・紅茶雑貨ショップ、2階が紅茶通の間で人気を集める英国アンティークの雰囲気ただよう喫茶店。

ドアノブや電気のスイッチなど、店内のいたるところに英国製のインテリアが使われている。

ケーキ、スコーン、サンドイッチなどがつくアフタヌーンティーセットがこの店の人気メニュー。

大阪の都市部にたつ魅力的な建築をいっせいに無料で公開、誰でも自由に内部まで見学することができる「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪(通称:イケフェス大阪)」。スタートから数えて5回目となる。

こうしたイケフェス大阪の取り組みがモデルとするのは、昨年25年目を迎え、2日間の会期で800件以上の建築物公開と25万人を超える動員数を誇るロンドンの「オープンハウス」だ。

現在ではワールドワイドに各地で展開しているオープンハウスも、90年代のスタート時点では20件程度の公開からだった。

事前申込みに落選して、がっかりしている方も多いと思いますが、実は、イケフェス大阪2022の公開参加建物138件のうち、申込不要で楽しめる建物は、メイン期間の各日ともに100件近くもあるのです。

2日間でどれだけ回れるか、時間と体力の勝負だ。

紅茶はイギリス、フランス、インド産のものなど約40種、ケーキは毎日店で手づくりされているそうだ。

2階のカフェスペースの窓からは、中之島のバラ園が一望でき、昼のひとときを過ごすのにおすすめの場所だ。

アフタヌーンティーは、イギリスの貴族たちの間では、ただのティータイムという位置づけではなく、重要な社交の場でした。

また、礼儀作法を学ぶというのもアフタヌーンティーの役割。

礼儀として、正装で参加する必要があったのだそうです。

そして、アフタヌーンティーを主催することは、貴婦人達の間のステータスで教養やセンスを披露する場と考えられていたので、富の象徴であり食卓をエレガントに演出してくれる銀食器を、上流階級の女性たちは競うように取り入れました。

歴史とセンスのある陶磁器や銀食器は、どれだけきちんと手入れされ、どれだけのお料理やお菓子をサービスできるかなど、もてなす側の技量がはかられ、社交界の注目の的でした。

お屋敷で働く使用人達の大事な仕事の一つは、この銀食器を磨きあげること
しかも
大量の銀食器を管理し磨き上げることが出来たのは、男性の上級使用人のみ。

銀食器の美しさは、そのお屋敷の品格を表しているとされていたので、誇りある役目だったそうです。


巨大なティーポットの立体看板はあちこちにある。




1875年(明治8)伊藤博文、井上馨、五代友厚らの斡旋で、大久保利通、木戸孝充、板垣退助が北浜の料亭「花外楼」で談合し、立憲政体の基礎が確立されたのが「大阪会議」です。

「花外楼」のある一帯は、もとは三角州の新地で蟹島(かにしま)と呼ばれ、眺望が良く多くの料亭が立ち並んでいました。

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ。

募集要項では9時から30分が見学時間となっているる。

しかし、現在10時30分、いまだに長蛇の列だ。

アクセス
北浜(大阪府)駅26(京阪)出口から徒歩約1

淀屋橋駅22(京阪)出口から徒歩約2分

なにわ橋駅3出口から徒歩約3分

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