自転車で大和川へ


コロナ過、いろいろな過ごし方が出てきていますが「チェアリング」も流行っているとか、ごろんと昼寝もいいかも。

堤防の上、川沿い、サイクリングや散策を楽しむ人がたくさんいます。

南海高野線、堤防下には紫と言うよりは、赤紫の花の名前は、ナヨクサフジです。

尚、ナヨクサフジの花言葉は「世渡り上手」だそうです。・・・

阪堺大橋から安彦大橋まで往復です。

堺の晩春を彩る“つつじロード”

樹齢80年を超えるつつじと、近年になって植えられた約2,500本、総延長約600メートルに渡るつつじのプロムナード。

“大阪みどりの百選”にも選出された旧浅香山浄水場や、浅香山緑道など一帯で、例年、4月下旬~5月上旬につつじが見ごろを迎える(新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2021年度の「浅香山つつじまつり」の開催は中止となりました)。

浅香山緑道に、与謝野晶子の歌碑がありました。

 ● 大和川 砂に渡せる板橋を 遠くおもへと 月見草咲く

 ● 沙(すな)白き 新大和川 わが町に さかひ(堺)少女(おとめ)の 浄(きよ)かれと添ふ

 ● 橋一つ 越え大阪に 続くより 近きこころに 作れ都も

日本の各地やヨーロッパを旅していますが、砂も水も美しかったふるさとの大和川がなつかしいとうたっています。

前方に阪和線が見えてきました、今大和川左岸を走っています。

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。

奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。

生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野に出ると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込む。

管理境界地点の看板には下流は「大和川」、上流は「初瀬川」と記されており、この地点より上流が初瀬川と通称される。

ただしあくまでも河川法上は源流まで大和川である。
上流の橋の欄干や地図上では大和川と記されている。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。

同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

安彦大橋で折り返しです。

右岸の阪和線下菜の花の群生がきれいです。

流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった。

水質改善の取組により平成22年、23年には、国が管理する一級河川の中で、「過去10年間で水質が大幅に改善されている河川」で全国第1位になるなど水質の改善が進んでいます。

南海高野線まで戻ってきました。

大阪市と堺市の境界である大和川に架かる阪堺線の「大和川橋梁」、この橋は阪堺電気軌道の創業時の1911年製で、全長198mのプレートガーター橋です。

さらに橋を支える橋脚は珍しい鉄管柱で、近代土木遺産に選定されています。

川を渡る神輿~住吉大社神輿渡御
五月殿の前には夏越女らが乗る車が待機しています。 人力による神輿渡御は、実に45 … 続きを読む →

大和川夕景
今日もきれいな夕日、ススキが陽に映えてきれい、土手の上下に散策の人。 夕日を背に … 続きを読む →

チン電と夕日
チン電と夕日を狙うには絶好の日和だ。 大和川、遠里小野大橋の下で日差しを避けて時 … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

雨の日 住之江公園界隈


犬の散歩も雨の日は大変です、ビショビショになって濡れるので、散歩後のケアが大変です。

ぬれそぼった猫、拡大して見ると毛もぴしょぴしょになっています。

飼い猫の寿命が10年以上、ときには20年近く生きる個体もあるのに対し、野良猫の寿命は3年から5年程度だといわれています。

こちらはちょうど餌やりに来た人がいるようです。

配達を商売にしている人も雨で大変です。

向こうからこちらへ向かっている人は交通整理のガードマンです、どちらも大変な職業です。

雨の日の花嫁も大変そうだけど拡大して見ると二人とも幸せそうな表情をしています。

雨のお出かけ、肩のあたりはぐっしょり濡れています、傘の猫がらがかわいいね。

少しの散歩だけど町は様々に変化しています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

阿弥陀池から土佐藩邸周辺散策


鰹座橋交差点

鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間に架設されたと考えられる。

鰹節を売買する鰹座があったことが橋名の由来で、また土佐殿橋とも呼ばれた。

江戸時代は鰹座橋と玉造橋の間に土佐藩大坂蔵屋敷があり、土佐廻船によって鰹節を始めとする海産物、材木などが大量に陸揚げされ、盛況を極めた。

玉造橋交差点

かつてあった玉造橋が交差点名の由来。

玉造の名は17世紀半ば、大坂城・玉造口の与力・同心が増員のため、ここに移転させられたことによる。

伯楽橋

明治41年(1908)、市電東西線開通に合わせて架橋。

西詰めに開かれた松島遊郭の圧力で 、昭 和15 年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。

伯楽というのは『荘子』に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しを見分ける名人のことで、そこから牛馬の売買・仲介者、病気などを治す医者のことなどを指す言葉になりました(伯楽の音変化で博労、馬喰ともいう)。

土佐稲荷神社(三菱発祥の地 岩崎家旧邸跡)

かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物が扱われた。

明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法である「開成館貨殖局大阪出張所」の幹事心得となり、大阪事務所を指揮して汽船・武器の輸入に活躍。

翌年、廃藩置県が行われるとの情報で後藤象二郎、板垣退助らと協議して長堀川北岸に事務所を置き、藩から独立した九十九商会を設立、土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めた。

廃藩置県後、一旦、三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称。

これが三井、住友と並ぶ日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起こりです。

土佐稲荷神社は三菱発祥の地で、彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて社章(スリーダイヤ)を作りましたが、土佐稲荷神社の神紋の中にもスリーダイヤが入っています。

岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣なども三菱系列の会社が寄進しています。

また第12代横綱・陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存しています。

木村蒹葭堂邸跡碑

蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。

庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。

蒹葭堂は生まれつき病弱で手がかかる子どもであったので父より草木を植えて心を癒すことを許され、やがて植物や物産への興味に繋がっていく。

近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実・本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。

また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。

寛政2年(1790年)55歳のとき、密告により酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。

酒造の実務を任されていた支配人 宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう。

蒹葭堂は直接の罪は免れたが監督不行き届きであるとされ町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受ける。

彼の死後、膨大な蔵書は幕命により大部分は昌平坂学問所に納められたが、帝室博物館書目に昌平坂学問所の蔵書印が押された蒹葭堂蔵書の一部が確認できるため、いくつかの過程を経て一部散逸してしまったことははっきりしている。

昌平坂学問所に納められた大部分は、現在内閣文庫に引き継がれている

奇抜なウォールアート発見。

大阪・北加賀屋がカベジョの聖地に
インスタ映えスポットが見つかるサーチアプリ『GENIC WALL(ジェニックウォ … 続きを読む →


和光寺(阿弥陀池)

阿弥陀池は古代からあって、霊水が湧く有難い池で、廃仏派の物部氏によって池に投げ捨てられた阿弥陀如来が、推古天皇10年(602)に信濃の住人・本田善光に拾われて善光寺まで運ばれたという言い伝えがあります。

善光寺に紅葉を訪ねる
善光寺の御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた … 続きを読む →

皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたという。


元禄11年(1698)、堀江川が開削され、堀江新地の区画整理が始まると、翌年、長野・善光寺から智善上人を迎えて、阿弥陀池のほとりに和光寺を建て、善光寺本堂に安置されていた阿弥陀仏を本尊としてお祀りした。

境内及び周辺には講釈の寄席、浄瑠璃の席、軽業の見世物などが並び、2月の涅槃会や、4月の仏生会の植木市は、こと賑やかあったといいます。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

松下幸之助創業の地

福島区は大阪大空襲の被害をあまり受けなかった、区の7割が非戦災地域。

今では近代的な街に生まれ変わっているが、商店街の奥の奥は戦後のどさくさ横丁「地獄谷」、伝説のストリッパー一条さゆりの引退公演が行われた吉野ミュージック劇場が存在していた町でもある。

地獄谷、こんなディープゾーンがあったとは!

リバーガーデン福島 こもれびの丘

14,998㎡の広大な敷地を活かし大阪市中心6区最のガーデン。

アテナ塔

人々の幸せと森を守るアテナ神。
ここに住まう方、地域の方々全てが幸せに暮らせるよう遺跡に願いを込めました。

アテナ神の聖鳥である知恵の鳥フクロウも共に見守っています。

野田阪神駅前にはトヨタやイオンモールなどが並ぶ。

イオンとファッション・グルメなど多彩な専門店を有するショッピングセンター、ウイステ。

ウイステとは、植物の「フジ」(Wisteria)のこと。

15世紀ごろの当地周辺は「野田藤(ノダフジ)」と呼ばれるフジが美しく咲き乱れ、日本中に花の名所として知られていた(現在、福島区の花はフジである)。

このことから、新たに開業したショッピングセンターの愛称に、当地ゆかりの植物であるフジにちなんだ名が付けられた。

阪神本線の高架下、「野田阪神機械工具街」という看板が掲げられている。

この界隈は松下幸之助が電気器具工場を始めた地だけのことはあって、いまだに町工場の多い一帯だ。

松下幸之助創業の地記念碑(大開公園)

1918年(大正7年)松下幸之助23歳の時に、大阪市北区西野田大開町844番地(現在の大開二丁目)に借家を借り、妻むめの、義弟井植歳男(三洋電機創業者、当時15歳)の3人で松下電気器具製作所を創立。

1922年(大正11年)創業の家が手狭になったことから、西野田大開町896番地(現在の大開二丁目)に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工した。

松下幸之助は終生この地に本籍を置いていた。

松下幸之助さんが誕生した、和歌山(紀州)を代表する石といえば、緑泥片岩(りょくでいへいがん)であり、阪南・和歌山から四国一帯にかけ一つに繋がる地層の中にある約1億年前の堆積岩で、緑泥岩を含んでいるため、青緑色に冴え、色があせず、景岩、石碑、石垣に用いられています。  

築城の名人・藤堂高虎が造った和歌山城の石垣をはじめ、松下幸之助氏生家跡の松下公園に建立された「松下幸之助君 生誕の地」(湯川秀樹氏 揮毫)などに使用されています。

和歌山周辺では昭和初期から採掘や採石が禁止され、現在は四国の阿波、伊予などのみで販売され、この緑泥片岩の石碑も、伊予西条市周辺の川から採石された自然石で、大きさ、形、色、艶など一番良いものを現地で探し当てました。

題字「松下幸之助創業の地」は、松下幸之助氏のご長女、松下幸子様の揮毫により刻み込まれました。

昭和7年(1932)の創業記念式典で、水道水のように大量の製品をどこでも安価に供給するのが産業人の使命であるという有名な「水道哲学」を説きました。

記念碑は直筆の「道」の文字が刻まれています。

「松下幸之助 創業の地」由来

松下幸之助氏:1894.11.27 ~ 1989.4.27 和歌山県海草郡和佐村出身。

この地大開は、松下電器産業株式会社の創業者 松下幸之助氏が大正7年(1918)3月7日、同社の前身「松下電器器具製作所」を創立した創業の地です。

のちに経営の神様と呼ばれ世界中にその名を馳せた松下幸之助氏は23歳の若さで配線器具の製造・販売を始め、昭和8年(1933)に門真市に移転するまでの15年余をこの地で過ごし、事業の進展とともに逞しく大開から巣立っていきました。  

松下幸之助氏は大開の人情や風土に育まれ、大開小学校の保護者会会長や大正14年(1925)には区会議員に当選するなど、文字どおり大開の一員として充実した日々を過ごしました。

松下電器の業容の発展に伴い移転を余儀なくされたものの、終生本籍をおいていたことが物語るように大開きは同氏ときわめてゆかりの深い土地であります。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

頑張ってます じゃんじゃん横丁


てんしばから地下鉄動物園前まで・・・

テンシバでは家族連れがグランドシートを敷いてくつろいでいました。
まるでコロナを忘れたように。

10年位前にはまだ危険な雰囲気を漂わせていた高架下などは、ここ数年で驚くほどクリーンな雰囲気へと変わった。

かつては「ここにいる立ちんぼは相手にしないでください」との物々しい貼り紙も見られ、動物園前駅・新今宮駅が大阪市天王寺動物園の最寄り駅であるにも関わらず、ジャンジャン横丁を通ることに抵抗を感じる家族連れなどは、天王寺駅から動物園へ向かっていた。

現在は家族連れでも来られる雰囲気になっている。

ジャンジャン横丁
天王寺動物園の最寄り駅動物園前駅からジャンジャン横丁を抜ける道、以前はジャンジャ … 続きを読む →

大きなふぐの看板と、”新世界のづぼらやで〜 づぼら連中集まって〜”のテーマソングで、関西人にはお馴染みのづぼらや。

やはりあの大きなふぐの看板がないとなぜかさみしい。

インバウンドの姿が消えて久しい。

しかし結構町は賑わっている。

林芙美子の小説「めし」には戦後間もないころのジャンジャン横丁の様子が細やかに描かれている。

「ジャンジャン横丁」の表記はこの作品で初めて使われた。

それまでは「ジャンジャン町」が主流で、以後、ガイドブックなどに「横丁」表記が増え始めた。

戦後、店々から呼び込みのための三味線や太鼓の音がジャンジャンと響いていたことからその名がついたといわれるこのアーケードの左右には、「ソース二度漬けお断り」の串カツ屋をはじめ、焼き肉、食堂、寿司、うどん、立ち呑み居酒屋など庶民派の店がずらり。

名棋士・坂田三吉を生んだ土地柄らしく、囲碁や将棋クラブも盛況で、ガラス越しに観戦するのも楽しい。

1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態変更して復活。

近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、新世界名物として知られるようになった。

温劇の幕間コントからは間寛平が巣立っている。

店をのぞいてみるとどの店もほぼ満席の状況。

昼間から飲むのは感心しないが店がにぎわっていることにある種の安ど感を覚える。

新世界 おもろっ
路面電車を追っかけてて終点恵美須町まで来たのでついでに新世界をのぞく。 通天閣に … 続きを読む →

そして今なお古きよ き市場の面影を残し、地元住民に愛さ れています。  
長さ約150mのアーケードで行われ る、昭和レトロなバザールナイト。

今回は入り口をのぞいただけで素通り、しかし、なかなか面白いことやってそうで゛す、改めて来てみよう。

新世界市場で奇祭「セルフ祭」
久しぶりに新世界市場へ、なんか催しをやっている、セルフ祭りってなんや。 シャッタ … 続きを読む →

ユニークなポスター市場 新世界市場
新世界市場の商店街をあげて盛り上げようと、このポスター展が企画された模様。 商店 … 続きを読む →

大阪芸人発祥の地 新世界
地下鉄動物園前駅、壁面にリアルな大自然や動物が描かれた空間が広がる。 1918年 … 続きを読む →

今でき希少価値となったチンドン屋に出くわす。

チン電と通天閣
通天閣5F展望フロアから阪堺電車をとらえる。 画像中央の白い屋根が新世界市場、最 … 続きを読む →

100年前の恵美須町駅の様子。

大阪歴史博物館
久し振りに同館を訪れたが10年1日のごとく何も変わっておらず、唖然とした。 水都 … 続きを読む →

初代の通天閣は明治36年に開催され、五ヶ月で500万人以上の人を集めた第5回内国勧業博覧会の会場跡地の一部に明治44年に建設されたもので、エッフェル塔を模したデザインでした。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

木津川遊歩空間(愛称:トコトコダンダン tocotocodandan)

今日は24節季の一つ「雨水」。

空から降るものが雪から雨に変わり、積もった雪も解けて水になるころ、という意味。

農耕の準備を始める目安とされたが、世間では雪花が散り、北風が吹き荒れる寒い日が続いています。

春まではもう少しかかるようです。

トコトコダンダンは、水都大阪再生の取り組みの一環として、水辺の回遊性を向上させるための遊歩道事業のうちの一つとして整備されました。

細い入り口から奥に300mほど広がっています。

地域の方々のくつろぎの場、憩いの場、散歩道、遊び場などとして活用されています。

この日も階段部分でお昼をいただく人、犬と散歩する人たちの姿が見られました。

途中広くオープンスペースになる部分が独特の平面形状になっているが、元々は広場の方向に続く堀と木津川の接続部を埋め立てた箇所にあたる。

第2回 日本建築設計学会賞(大賞候補作品)、グッドデザイン賞2018、土木学会デザイン賞2018年度,2019年度奨励賞を受賞している。

もともとは大阪城築城時に材木の物流拠点として使用された材木浜だったが、1955年以降、数回にわたり防潮堤が築かれ、水辺が遠い状況にあった。

2010年までに耐震補強された護岸を土台とし、その上部に広場と片持ち梁の雛壇状の遊歩道が設置される。

川に面する「だんだん畑」がコンセプト。
『トコトコダンダン』の名前の由来は、こんな風に、広場にたくさん段差があることなのです。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

東梅田界隈


阪急東通商店街は、大阪市北区の小松原町と堂山町と神山町に広がる商店街。

商店街の人通りは少ない。

昔懐かしい姿も散見される。

兎我野町にある曹洞宗寺院圓通院。

道路を挟んだ横の墓地には赤穂浪士大石内蔵助良雄の父親の墓や四十七士の一人大石瀬左衛門の父親大石八郎兵衛の墓があります。

大石家の菩提寺だったのでしょうか。
観光寺でなく山門は閉まっています。

お初天神のあたりは夜間営業の店が多く、昼間はひっそり。

人込みを避けて進む。

東梅田の東の繁華街には古代から伝わる興味深い地名がついています。
曽根崎町、兎我野町、神山町、小松原町、堂山町。

繁華街の人込みを抜けると、そこには由緒ある社寺が目の前に・・・・・・・・・・・・。

お初天神、以前の訪問記をご覧ください。

この世の名残夜も名残・・・ お初天神
「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏 … 続きを読む →


お目当ての昼食場所は7年前に訪れた「夕霧そば」、店名の由来は近松門左衛門作「廓文章」の夕霧太夫にちなみ、夕霧そばと命名したという。

『夕霧そば』の魅力は、白いそば粉に柚子の上(表)皮を練りこんだ香り高いそば、そのものです。

夕霧太夫の眠る上町台地散策
鳳林寺(上島鬼貫墓所)~吉祥寺(赤穂浪士の菩提寺)~青蓮寺(竹田出雲墓所)~増幅 … 続きを読む →,/a>

夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く
四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~ … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

亀岡散策


丹波亀山城址、明智光秀によって丹波統治の拠点として機能した城郭。

丹波亀山藩が亀岡藩に改称したのは明治2年6月19日ですが、これはその1か月前に終結した戊辰戦争が関係しています。

前年の慶応4年に勃発した戊辰戦争では、伊勢亀山藩が新政府側、丹波亀山藩は旧幕府側にそれぞれつく形になりましたが、結果としては旧幕府軍が敗れています。

このため、版籍奉還に伴う形で丹波亀山藩は明治政府から改称を迫られて、現在の亀岡になったとされています。

江戸時代初頭には近世城郭として整備された。

大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。

戦後再建され、大本の本部が置かれている。

大円寺の創建は天文22年(1554)、専譽周公上人を招いて開山したのが始まりと伝えられています。

13代室町幕府将軍足利義輝が帰依した事で寺運が隆盛し当地域の学問所として多くの学僧が集い影響力を持ちました。

古き良き雰囲気を感じられる関酒造は、明治8年創業で屋号は「井づ源」といいます。

関家は、江戸時代には今の亀岡市内に35町もの田畑を所有する富農であり、米相場の商いもされていました。

酒造りは江戸末期に副業として始め、現在の建物は江戸末期から明治にかけて建てられた物です。

昔ながらの手作りの袋しぼりで酒造りをされている。

白壁になまこ壁の伝統的な酒蔵建築が印象的な丹山酒造。

楽々荘(らくらくそう)は京都府亀岡市にある旧田中源太郎邸を使用したホテル。

1898年(明治31年)頃建築の洋館と七代目小川治兵衛作庭の日本庭園が有名。

2018年3月にがんこフードサービスが借り受けて「がんこ京都亀岡楽々荘」として改装開業した。

京都鉄道株式会社(現在の嵯峨野線)の創設者で衆議院議員・貴族院議員を務めた田中源太郎が自らの生家を改築したものである。

煉瓦造りの洋館は1898年頃に本邸として、書院造りの和館は同年頃に迎賓館として建設。洋館と和館の前に広がる650坪の枯池泉回遊式庭園は七代目小川治兵衛(植治)の作庭で、安土桃山時代の石燈籠や鉄製井筒などが亀山城から移設されている。

今日はこちらでお昼をいただいた。

庭を歩くこともできました。

広い芝生が続く向こう側や離れの前は日本庭園になっていて、欧米の庭園の影響を受けた明治時代の庭づくり特色が伺えます。

そして作庭したのは七代目小川治兵衛(屋号「植地」)の手になるものと聞いて納得。

小川治兵衛といえば平安神宮や丸山公園、無鄰菴をはじめとした南禅寺別荘街の庭を作庭した方。

近代庭園の先駆者であり明治の名作庭家で明るく開放的な庭を作っておられます。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

なぎさ海道散策


駅舎はJR西日本グループのショッピングセンター(JR西日本アーバン開発)、ピオレ明石及び山陽電鉄明石駅と一体化している。

明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。

縄張りは連郭梯郭混合式の平山城である。

丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となった。

今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が外様大名の多い西国の備えとして、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城されました。

本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつで、国の重要文化財に指定されています。

人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されている。

岩屋神社

社伝によると、成務天皇13年6月15日に天皇の勅命により、淡路島の岩屋より神を勧請して創祀されたと伝えられる。

同年夏に当地の子供に淡路島の岩屋の神が懸かり、当地に勧請するようお告げがあり、勧請したという伝承もある。

旧波門崎燈籠堂(通称 明石港旧灯台)は石造の灯台で、1657年に当時の明石藩主 松平忠国によって作られたと伝えられている。

古代明石港は明石川河口にあったと推測されているが、1621年 当時の明石藩主 小笠原忠真によって城造り、町造りの一環として砂浜に掘り込みを行い新たに明石港が作られた。

明石海峡大橋架橋以前は、岩屋港(播淡聯絡汽船・淡路連絡汽船・明石淡路フェリー)、富島港(西淡路ライン)など淡路島へ旅客船が頻発していた。

架橋にともない航路・事業者が再編されたものの、旅客減により航路廃止が相次ぎ、富島航路が休止となった2008年5月19日以降は、淡路ジェノバラインによる岩屋航路のみが発着している。

内港は小船がひしめいてどうやって外に出るのかなと心配するほど。

魚の棚(うおんたな・「うおのたな」或いは「うぉんたな」とも)は、兵庫県明石市本町一丁目にある商業地区。

鮮魚店が多いのが特徴で、県外からの客も多く明石の観光地としても重要な位置を占めている。

過去にはマルハの創始者中部幾次郎の林兼商店(はやしかねしょうてん)などもあった。

とくに、海峡付近や播磨灘一帯で採られ明石漁港から水上げされた新鮮な魚介類を「前もの」と呼び、「明石鯛」「明石蛸」を筆頭に活きの良さを売り物としている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

明石文化博物館

明石市立文化博物館は明石駅からほど近く、1991年10月、明石海峡を望む高台に開館。

明石の歴史と文化を「自然環境と人々のくらし」と題して八つのテーマで紹介する常設展示のほか、特別展や企画展などを開催しています。

200万年前に棲息した「アカシゾウ」の実物大模型。

アカシゾウは、明石市とそのまわりの地域から多数の化石が見つかっています。

特に1960年代までは、林崎から江井ヶ島までの海岸の崖からよく発見されました。

た、明石海峡からは現在でもしばしば漁船の網にかかって引き上げられています。

アカシゾウは、象としては小型で今の象と比べると胴の長さのわりに足が短く、肩の高さは大きな個体でも2mくらいでした。

甕、赤根川金ヶ崎窯。

明石の漁業

明石市は、明石海峡のもたらす影響により、地先海域は起伏に富んだ海底や複雑な潮流から瀬戸内海有数の好漁場であり、古くから漁業が盛んな地域です。

当地域で、営まれている漁業は、5トン未満の小型漁船を使用した小型底びき網、船びき網、たこつぼ、一本釣り、ひきなわ、はえなわなど多種多様な漁船漁業に加え、漁業者の約半数が従事するノリ養殖漁業であり、水揚げされる魚介類は「明石だこ」「明石鯛」「明石のり」をはじめ四季折々に多種多様です。

浮樽

昔の網漁のウキ。
上部の筒の中に油をしみこませた布や縄を入れ、それに火をつけて目印にした。

明石海峡のジオラマが展示されている。

明石沖で深く切れ込んだ海溝は不気味なほど、我々は普段意識することなくこの海峡を行き来している。

新門司へのフェリーで何度この海峡を行き来したことか、海峡の深さを意識することなく・・・・・

日の出の瀬戸内航路
早朝5時小豆島沖を航行中、闇には灯台の灯りが時折り灯る。 低い雲間からの日の出。 … 続きを読む →

明石海峡大橋を過ぎたあたりは好漁場なのかおびただしい数の漁船が出漁中。
遠景に湾岸道路、京阪神の街並み。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!