尼崎寺町散策 全昌寺


兵庫県尼崎市寺町にある曹洞宗の寺院。
山号は桃源山。

慶長年間(1596年~1615年)膳所藩主・戸田氏の菩提寺として戸田甚五郎が膳所桃木原(現・滋賀県大津市)に建立したと伝えられる。

元和3年(1617年)戸田氏鉄が尼崎藩主として移封された際、随伴した僧・雪山呑秀により当地に再建された。

寛永11年(1635年)、戸田氏鉄の美濃国大垣藩移封により大垣でも「全昌寺」を建立、尼崎を本院とした。

文政5年(1822年)の火災で記録などが焼失、阪神淡路大震災でも被災し、鐘楼などは再建された。

曹洞宗の本山である総持寺(神奈川県)の輪番地寺院としてたびたび禅師を送り出した名刹です。

檀家には尼崎藩旧松平家の家臣も多く、漢学者の豊島成温、内田頼重らの墓所としても知られています。

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尼崎寺町散策


駅前の涼しい噴水をしり目に寺町の散策です。

尼崎寺町は阪神本線尼崎駅の南西に位置し、多くの仏教寺院が密集している。
少しづつ紹介します。

阪神尼崎駅を南側に出て西へ徒歩3分。

車の多い道路「五合橋線」を越えて少し南に歩くと五合橋線沿いの壁に戦争中の機銃掃射のあとが保存されています。

近隣で伝わる話によると、グラマン戦闘機は乗員の顔が鮮明に見える穂ど低空を飛行し、逃げる住民を射撃していたとのこと。

1617年、膳所藩から尼崎藩へ移封された戸田氏鉄が尼崎城築城の際、城域にあたる大物周辺(現・尼崎市大物~東本町)に多くあった寺院を別所村へ集め、一画を寺町とした。

江戸時代初期は20ヶ寺を数えたが、藩主移封に伴う移転などで、現在は3.9haに11ヶ寺が残る。

国の重要文化財7件をはじめ、県・市の文化財が多数あり、尼崎市都市美形成条例によって景観の保全・整備が進められた。

ここはお寺とビル群が混在しています、お寺だけを撮るというわけにはいかず、不思議な景色です。

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源九郎稲荷神社


小さな稲荷であるが、日本三社稲荷の一つに数えられ、また近畿二大稲荷や関西三大稲荷に数えられることもある。

北向きの本殿に『白狐源九郎』が祀られている。

忠臣狐伝説義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御前を守り通した。

義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は、親の皮で出来た御前の鼓であったが、それを知った義経は、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許した。

源義経が兄頼朝との戦に際し、義経は幾度もこの稲荷に助けられ、この稲荷に源九郎の名を贈ったという伝説が、社名の由来となっている。

翁の姿をした源九郎狐が、長安寺村の宝譽という僧の夢枕に立ち、郡山城に自分を祀ってくれたら城の守護神になろうと告げたので、宝譽は豊臣秀長にこのことを告げ、城内竜雲郭に稲荷が創建されたと伝えられている。

源九郎稲荷神社の狐絵馬。

境内ではアジサイが涼やかに咲いていました。

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柳生 芳徳禅寺


芳徳禅寺は正木坂を上り詰めた小高い山の上にある。

右へたどれば一刀石への分岐。

芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺院。

山号は神護山(じんごさん)で、本尊は釈迦如来。
芳徳禅寺とも称される。

『念ずれば花ひらくなる必ずや
        柳生街道来ます日待たむ』
先代の住職の奥様のお歌だそうです。

直ぐ反対側には、誰もいない静かな正木阪道場に。

柳生十兵衛の弟・友矩の邸宅跡に建てられています
 
芳徳禅寺の先代住職・橋本定芳さんが、昭和6年に道場建設を願い約30年の年月をかけて、同40年春にようやく完成しました

屋根や柱などの構造物は、もと興福寺の別当だった一乗院の建物で、玄関は京都所司代の玄関を組み合わせた重厚な建物です

兵法の 梶をとりても 世の海を
       渡りかねたる 石の舟かな

柳生城は戦国時代、柳生家厳の時に筒井氏との戦いでその名が登場するが、創築の時期は分らない。

柳生氏が土豪として戦国を生き抜く過程で整備されたものであることは間違いないだろう。

(写真・芳徳寺山門前に残る土塁と「石舟斎塁城址」の碑。)

寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。

宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した。

宗矩の子列堂義仙が第一世住持となり、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。
宝永8年(1711年)の火災により全焼したが、正徳4年(1714年)に再建された。

本堂には本尊釈迦三尊像の他、木造沢庵和尚坐像および、木造但馬守宗矩坐像を安置している。

また、伝柳生三厳筆「月乃抄」などの寺宝を伝え、柳生氏に関する資料多数を収蔵しており、資料館が併設されている。

廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義の弟・基夫氏が資金を遺贈し、本堂が再建された。

その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた。

墓地へ回る。

うっそうと茂る森の中に墓地はある。

柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。

霊源坂を北へ降りる。

霊源坂の中ほど東側の地が柳生宗厳(石舟斎)の居住地とされる。

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柳生八坂神社


元は春日大社の第四殿比亮大社を祀っていたが、柳生宗冬が大保町の八坂神社からスサノオの分霊を勧請して社殿を造営して、八坂神社と改めたという。


拝殿については同じく柳生エリアにある神社であり、本殿ではなく磐座をご神体とする天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)の能舞台として用いられていた建物を移築したという歴史も持っています。

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新緑の円成寺


奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、仏師・運慶のもっとも初期の作品である国宝・大日如来像を所蔵する。

真言宗御室派の仏教寺院。
山号は忍辱山(にんにくせん)、本尊は阿弥陀如来。

伽藍の前面に広がる苑池を中心とした庭園はその形式から平安末期、12世紀頃の作と推定される。
この時期新緑が見事。

円成寺について、『和州忍辱山円成寺縁起』(以下『円成寺縁起』と略称)は、奈良時代の創建を伝え、別の縁起には延喜年間(901 – 923年)の創建を伝えるが、いずれも伝承の域を出ない。

『円成寺縁起』によれば、この寺は、鑑真とともに渡日した唐僧の虚滝(ころう)が天平勝宝8年(756年)に聖武天皇の勅願で創建したという。

『和州忍辱山円成寺略言志』も同様の創建縁起を伝えるが、虚滝なる僧については、他に確認できる史料がない。

一方、『忍辱山知恩院縁起』によれば、この寺は京都東山鹿ケ谷に円成寺を建立した益信という僧が、延喜年間に大和忍辱山を訪れ、この地に寺を建てて円成寺と号したという。

「苑池」から眺めた風景で、正面の建物は楼門。

本堂前から楼門(応仁2年(1468年)建)。

本堂 – 室町時代の建築だが、全体の意匠は寝殿造風。

入母屋造で妻入(屋根の形が三角形に見える方向を正面とする)とするのは仏堂建築には珍しい。

寺の説明には文正元年(1466年)建立とあるが、文化庁の資料では棟木銘から文明4年(1472年)建立としている。

現本尊である阿弥陀如来坐像は、技法・作風から11世紀後半〜12世紀初頭の作とみられ、『円成寺縁起』に登場する経源が本尊として安置した阿弥陀像がこれに当たる可能性もある。

柱には阿弥陀如来に随って来迎する二十五菩薩の像が描かれている。

現存する多宝塔は平成2年(1990年)の再建で、旧多宝塔は大正9年(1920年)、老朽化のため撤去された。

ちなみに、鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、旧円成寺多宝塔の初層部分の材を用いて建てられたものである。

多宝塔には現在は大日如来坐像の新調されたレプリカが安置されており、金色に光り輝く姿をみられる。

春日堂(左)・白山堂(右)(国宝)

本堂の脇に建つ2棟の社殿で、2棟とも同規模・同形式。

安貞2年(1228年)の再建といわれる。
春日造社殿の現存最古の例として国宝に指定されている。

明治初期の神仏分離令による破壊をまぬがれるため、仏堂風に「堂」と称した。

新緑のきれいな境内、秋には美しい紅葉が見られる。

行きにくい場所にあることから隠れ寺の感がある。

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住吉大社 御即位奉祝 奉納行事


令和に改元され各地でお祝いの行事が行われているが住吉大社でも御即位奉祝の行事が行われた。

住吉公園では今、ルピナスが見頃。

平成最後の日も令和最初の日もあいにくの雨。

お祝いのちょうちんで飾られた住吉大社。

境内にはいつの間にか遣唐使発進の地の日が建てられている。

参拝者は雨の中長蛇の列。

各本宮の前には行列ができています。

第四本宮向かい側では御即位奉祝記帳所が設けられている。

5月1日~6日(9時~16時)の期間、「神館」を一般公開、皇室ゆかりの御品や肖像画が展示される。

夏祭や御田植神事で奉仕されている各団体をはじめ、御代替りに相応しい能「大典」の奉納や舞楽の奉納が行われている。

武者行事の皆さん、神館前で記念撮影。

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初夏の壷阪寺


つい先月までひな祭りで賑わっていた町もいまは閑散としています。

以前のひな祭りの様子
高取土佐町並み「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で11回目。 町あげてのイベン … 続きを読む →


バスの車窓から野焼きの様子。

日本では春先のまだ草本の新芽が出ない時期に、野山の枯れ草を焼く事が多い。山焼きとも言う。

日本の自然の状態では酷寒地を除き、草原は森林へと遷移する。
野焼きを行うことで、この遷移がリセットされ、初期状態の草地に戻る。

一方、有機物の蓄積を減らし、無機塩類とすることで新たに出る若草のための肥料としたり、農業害虫を焼き殺す効果も期待される。

南法華寺は、奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院。
山号は壺阪山。一般には壺阪寺の通称で知られる。

703年(大宝3年)創建と伝え、西国三十三所第六番札所。

天竺渡来大観音石像は、インドハンセン病救済事業のご縁でインドからご招来したもの。

インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な方のご支援で、提供され、延べ7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作された。

20mの巨岩は動かすことも、運ぶことも不可能なので66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられた。

この巨岩を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されている。

また、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められ、66個の石が1本の巨石となっている。
この大観音石像はインドの文化勲章受章者シェノイ氏及びその一門によって製作されたもので昭和58年3月12日開眼法要が営まれた。

高取城跡への登山道、緑に覆われてきれいです。

以前の訪問記
日本最大の山城 高取城
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われた高取城。 日本国内では最 … 続きを読む →

苔むす石垣に名城の面影を偲ぶ 高取城
高取城は別名、芙蓉城ともいわれ近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば … 続きを読む →


境内ではカワイイ童子が出迎え。

壷阪寺は4,000株以上の山吹が咲き誇る関西最大級のやまぶきのお寺です。
4月上旬~5月中旬やまぶきまつりが行われる。

大釈迦如来石像「壷阪大仏」

平成19年11月開眼
身丈10m、台座5m

インドでの奉仕活動のご縁から始まった国際交流・石彫事業の一環で、製作されたもの。

「大石堂」の堂内、中央に安置されているのが「大仏舎利塔」。

大石堂一字金輪曼荼羅。

慈眼堂横の回廊、春から初夏にかけて、やまぶき、つつじ、ラベンダーが咲き誇り、秋には境内一円のもみじや周辺の山々が色づき山寺独特の鮮やかな紅葉の風景が広がります。

眼の観音様として親しまれている十一面千手観音菩薩坐像。

当寺の本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、元正、一条、桓武天皇をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かったとされているが、特に、近年当寺が眼病患者を救う観音を祀る寺として有名になったのは、明治時代に失明回復祈願にまつわるお里沢市の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺阪霊験記が世間に共感をよんだことによるといわれている。

正面から見て右側に球を持った手が見えるが、この手が目摩尼手で眼を救う手といわれている。

天竺渡来佛伝図

この石のレリーフはインド南部のカルナタカ州において、延べ5万7千人もの石工たちの手によって、インドの石に彫刻され製作されたもの。

誕生から入滅までの間にある、数百もの佛伝図の中から、比較的誰でも知っているストーリーが選ばれて描かれている。

壷阪寺 八角堂(本堂)の縁から眺める二上山(幽かに見える奥の山)

「天の二上」と呼ばれ神聖な山と崇められる標高517mの雄嶽と474mの雌嶽の二峰からなり、日の沈む神の山とされています。

壷阪寺 以前の訪問記

紅葉の壺坂寺に遊ぶ 
盛りを過ぎたとはいえまだまだ紅葉が楽しめる壺坂寺、参道山道で。 駐車場から見上げ … 続きを読む →

高取城の護り五百羅漢
西国三十三所巡礼の札所であり、眼病封じのお寺としても知られる『壷阪寺』。 本堂か … 続きを読む →

観音霊場壺坂寺の諸仏
草創については不明な点が多いが、伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上 … 続きを読む →

壺坂寺 冬の早朝
奈良時代の創建と伝えられる町内屈指の古刹で、清少納言も『枕草子』の中で「寺は壷坂 … 続きを読む →

土佐街道 高取町の町を散策
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わら天神宮


敷地神社(しきちじんじゃ)は、旧社格は村社< わら天神の通称で知られる。
舞殿

元々当地には、北山の神として葛野郡衣笠村に降臨した天神地祇が祀られていた。天長8年(831年)、この地に氷室が設けられ、その夫役として加賀国から移住した者が、崇敬していた菅生石部神社(敷地天神)の神を勧請し、北山の神の隣に祀って菅生石部神の母神の木花開耶姫命を祭神に定めたという。

応永4年(1397年)、足利義満が北山殿(後の金閣寺)を造営するに当たり、参拝に不便になったことから、両社を合祀して現在地に遷座した。

安産の神として信仰されている。安産御守として藁が授与されることから「わら天神」の通称があり、藁に節があれば男児、節がなければ女児が誕生すると言われている。

六勝神社(摂社)

右側には伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六神を祀るという「六勝神社」。

六神のご利益は絶大で商売繁盛、必勝祈願、心願成就となんでもござれ!現在では「六(む)つかしい事に勝つ」という語呂合わせから、近年では難関試験突破の守護神としても注目されています。

ちなみに、安産祈願で訪れた場合は左側の本殿からお参りする順序となっています。

境内本殿西側に綾杉明神を祀っています。

「捨遣集」十神歌の部に清原元輔が安和元年(968年)「生ひ繁れ平野の原のあや杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」と詠む。

応仁の乱の兵火を免れましたが、明治29年8月の台風に惜しくも倒壊致しました。
昔から神木として崇拝する者多く、今や素屋根をかけ「綾杉明神」と敬い奉る。

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石座神社


創建については明らかでないが、日本三代実録に

元慶四年十月十三日癸巳、山城国正六位上石坐神、授従五位下

とあり、元慶4年(880年)時点で既に岩倉の地に鎮座していたとされ、この地の名称の由来となった。

なお、当時の鎮座地は、現在の岩倉西河原町にある石座神社の御旅所にあたる山住神社であり、社殿を持たず、御神体の磐座を崇める古神道の形が今に残る。

磐座から神秘的な雰囲気が 山住神社
古代の人々は、山住神社の後ろにそびえたつ山を神南備山(かむなびさん)と仰ぐ巨石を … 続きを読む →


天禄2年(971年)に行われた大雲寺の造営に伴い、石座明神がその鎮守神として、現在地の大雲寺境内に勧請される。

長徳3年(997年)4月18日に神殿が新築され、石座明神と共に、新羅・八幡・山王・春日・住吉・松尾・賀茂の七明神が勧請、合祀され「八所明神」と称した。

なお、旧来の石座明神社は、八所明神社の御旅所となった。

後に西社が建造され、東社の八所明神に加え、伊勢・平野・貴船・稲荷の四明神が祀られ「十二所明神」と称した。

天文15年(1546年)、細川国慶と当時の岩倉領主山本尚則が大雲寺近辺で交戦し、大雲寺も兵火を被った。

その際、鎮守社であった八所・十二所明神の社殿及び古文書を焼失する。

その後、天文22年(1553年)に両社が再興され、天正2年(1574年)に両社の社殿も再建される。

この社殿は明和3年(1766年)にも改造築され、この時作り変えられた社殿が現存している。

明治以降、旧来の石座明神社が「山住神社」、八所・十二所明神社が「石座神社」と改称される。

明治10年(1877年)、現在の岩倉村松町にあたる「正水山」の一言神社が石座神社境内に合祀される。

明治11年(1878年)には石座神社裏の「万年岡」にあった福善社が石座神社境内に合祀される。

昔、岩倉に2匹の大蛇が現れて、人々や田畑に危害を加えた。

人々はおおいに苦しみ、大蛇の退去を願って様々な手法を用いても効果がない。

神に祈っても無駄で途方に暮れていた。

石座大明神に訴えたある夜、夢枕に老いた尼が立ち、「神火をもちて向え」と教授したという。

夢が覚めて神前の燈火をうつして大蛇に対すると、大蛇は後ずさりしつつ、遂にいずれかへ逃げ去ったという。

現在、雌雄の大蛇をかたどった松明を燃やす神事は、大蛇退治の模式であるという。

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