藤田邸跡の紅葉が見事です


紅葉が見頃です、藤田邸跡庭園。

本邸跡を中心とする中央部は1954年(昭和29年)に鉄筋コンクリート造りの蔵を本館とし、多宝塔を擁する藤田美術館として藤田家の至宝を一般公開。

2022年4月1日、本館であった蔵が取り壊され、新たな本館オープン。

リニューアルオープンの藤田美術館
2022年4月1日にリニューアルオープンした藤田美術館。 同館は、明治維新後に起 … 続きを読む →

曜変天目茶碗を所有することで有名です。

曜変天目の典型例は世界に4碗しか現存せず、いずれも日本にあり国宝もしくは重要文化財に指定されています。

春は桜秋は紅葉と新たな名所の誕生です。

後に藤田財閥となる藤田組の総帥、藤田伝三郎が大川の左岸、網島の地にあった日本郵船会社大阪支店長屋敷を1886年(明治19年)に買い取って移り住み、さらに前年の明治十八年の淀川洪水で荒廃していた大長寺(後に移転)の敷地を1887年(明治20年)頃に取得。

1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけて旧本邸を完成させた。

尚、大長寺は近松門左衛門の人形浄瑠璃、「心中天網島」の舞台だ。

1916年(大正5年)には長男の平太郎が和歌山県高野山の光台院から檜皮葺の多宝塔を移築(光台院には全く同型のものを新築して寄進)し、それを銅板葺に改めた他、梅園梅叟(ばいえんばいそう)を庭師として豪華な日本庭園を完成させた。

この多宝塔は徳川家の紋章が入った江戸時代初期のもので、高野山でも珍しい貴重な建物。

しかし、1945年(昭和20年)6月7日の第3回大阪大空襲により表門・東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔などいくつかの建物を残して他はほとんどが焼失した。
戦後、その敷地は分割された。



池に架かる石橋、紅葉とのコントラストが美しい。

真っ赤な実をつけたナンテン。

藤田伝三郎氏は、1841年現在の山口県萩市の醸造業の家庭に生まれ、一代で藤田財閥を作りあげました。

ありとあらゆる業種の会社を経営し、今では誰もが知る大企業の多くの前身を築き、民間人初の男爵になります。

明治後期、総面積が約53,000平方メートルあり『網島御殿』と言われた藤田邸。

今は、その東邸は結婚式場を含む庭園が人気の料亭『太閤園』になり、西邸は空襲で焼失するも、建て替えられ大阪市公館になり、現在はその建物をレストラン『ザ・ガーデンオリエンタル大阪』として営業しています。
『太閤園』2021年6月30日をもって終、さる宗教団体に買い取られた。

西邸を中心とする南部は昭和18年に大阪市の手に渡り市立実業会館として使用するが空襲で焼失。

1959年(昭和34年)に大阪市が迎賓館を建築して整備し、大阪市長公館をへて大阪市公館となった。

2014年(平成26年)からはレストラン・ブライダル施設「ザ・ガーデンオリエンタル大阪」として営業している。

表門を含めて長らく放置されていた日本庭園を中心とする北西部だが、やがて大阪市が入手。

この真下の地下を走ることとなるJR東西線とその駅となる大阪城北詰駅の新設工事の際に資材置き場等に使用され、その後きれいに整備。

JR東西線開通後となる2003年(平成15年)12月19日に「旧藤田邸庭園」として大阪市から名勝の指定を受けた。

2004年(平成16年)に藤田邸跡公園として桜之宮公園の一部となって新たに開園した。

ガラス張りの4面から光が入る開放的な「ザ ミュージックホール」と、水面の輝きと降り注ぐ陽光が美しい「ザ ミュージックホール ウェスト」。

洗練されたモダンさとナチュラルな魅力が調和する2つのチャペル。





夏には藤田邸跡公園のすぐそばにある 「ひょうたん池」でハスの花が見れます。

毛馬桜之宮公園 ひょうたん池
大阪でハスの花がまとまって咲く場所というと、万博公園や長居植物園などへ足を運ばないと見れないかなと思っていたのですが、まさかこんなに近くにあったとは知りませんでした… 続きを読む →


アクセスは、JR東西線の『大阪城北詰』駅が最も近く、3号出口を右折し、まっすぐ進むと、当時の栄華を偲ばせる立派な門が見えてきます。
こちら側と、桜ノ宮公園側からでも入場する事は出来ます。

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