花子の過ごしたまち甲府

新府城、武田氏館、積翆寺と見て回り、今日の泊りは花子の過ごしたまち甲府の甲府ワシントンホテルプラザです。

今回も朝食前の早朝散策に出かけた。
画像はJR甲府駅、中央本線と、当駅を終点とする身延線の2路線が乗り入れている。

甲府という名称は、1519年(永正16年)に武田信虎が居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まる。

戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。

江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。

甲府盆地から見える富士の姿が頭にあったのですが、天候が思わしくなく富士を仰ぐことはできず。
ホテルのポスターの写真を拝借、少しピンボケです。

甲府駅は地上駅であり、舞鶴城跡(甲府城)の一部にある。

甲府駅の立地する甲府市丸の内一丁目は内堀に囲郭された甲府城の内城部分に位置し、現在の甲府駅駅舎は城域北側の清水曲輪に相当し、曲輪には櫓や書院、城門などの施設が存在していた。

南側には屋形曲輪・本丸が所在する。
清水曲輪の東西・北側は内堀が囲郭し、北側にはニの堀で囲郭された武家地に通じる山手門が所在している。

明治期に甲府城は廃城となり、ニの堀は埋め立てられ武家地は払い下げられて官公庁用地として開発され、甲府駅の開業に至る。

駅前にある信玄像は川中島の戦いの陣中における姿を模したもので、右手に軍配、左手には数珠を持ち、床几(しょうぎ)※1にどっかりと腰をおろしています。

駅の正面壁面には朝ドラでお馴染みの花子とアンのポスター。

駅北口にある時の鐘、「甲府市史」などによると、時の鐘は寛文年間(1661年~1673年)、今の中央2にあたる横近習町に設置され、その50年ほど後には現在の甲府駅北口に近い愛宕町へ移転された。

以降、200年以上、住民に時刻を知らせていたが、明治時代初期に取り壊された。

時の鐘の写真や図面が残っていないため、明治時代の建築で時の鐘を模写した可能性があるといわれる法性山玄法院(同市天神町)の鐘楼をモデルに再現。

この鐘楼は戦時中に取り壊されたが、写真が残っている。

国の重要文化財の甲府市藤村記念館。

山梨県最古の学校・旧睦沢学校をここに移築(1966)保存したもの。一連の洋風学校は県令の藤村紫朗が導入した。

街角には花子とアンののぼり。

花子の画像もあります。

1893(明治26)年甲府市で生まれます。

花子は幼少期を甲府で過ごしたのち、東京へと引っ越します。
その後、東京のカナダ系ミッション・スクールで女学生時代を過ごし、21歳となった1914(大正3)年、再び甲府市に戻り、山梨英和女学校(現在の山梨英和中学・高等学校)の教師となります。

後に「私の青春時代の思い出は、甲府とともにあるといってもいい」と話されるほど、甲府では充実した日々を過ごされていたようです。

甲府は水晶の産地として培われた技術を他の貴金属にも生かすようになり、宝石の街といわれるまでに発達。

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