義仲寺 行く春を おうみの人と おしみける

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俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南の人々を愛し、たびたび滞在した。
大坂で亡くなった芭蕉だが、遺志により義仲墓の横に葬られた。

そんな義仲寺って根強いファンが多いんです。
錦秋のこの時期義仲寺を訪れた。

この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。

右手の巴地蔵堂は、義仲公の供養に一生を捧げた巴御前の冥福を祈るお堂で、石彫りの地蔵尊が安置されている。

義仲の墓
戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。
首塚は京都市東山区の法観寺にある。

巴塚
義仲の側室で、武勇に優れた美女。
巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが 義仲が強いての言葉に最期の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。

和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという
それより何処ともなく立ち去り信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う
(巴塚の説明より)

山吹御前の供養塚(義仲の側女)
山吹御前は、平家物語の「木曽最期」にほんの少し登場する女性。
木曽義仲の妻と言われている巴御前が、美貌で武勇にも優れていたと言われているが、山吹御前は、木曽義仲が木曽から巴御前と共に都に連れてきた女性だとされている以外は分かっていない。

義仲が都落ちしたとき病気であったため京に残された。
後を追ってこの地まで来たが会うこともできず敵方に殺されたと言われている。

京都金福寺の芭蕉庵や、伊賀上野の蓑虫庵などに通ずる、芭蕉らしい匂いのする翁堂。
お堂を取り囲むように、四季を感じさせる草木が植えられている。

1694年、旅の途中病に倒れ大阪・南御堂前の花屋仁左衛門宅で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死したが「義仲の墓の裏に埋めてほしい」との遺言通りなきがらは義仲寺の源義仲の墓の隣に埋葬された。

元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉の遺骸を乗せた舟は夜のうちに伏見まで下り、翌13日の朝、伏見を立って昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着した。
14日に葬儀が行われ、同日深夜になって境内に埋葬されたという。

この2つの墓を芭蕉の弟子の又玄(ゆうげん)が詠んだ「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」の句碑が墓の側にある。
芭蕉ゆかりの品が資料館に展示されており、芭蕉ファンには見逃せない寺だ。

蝶夢の句碑
初雪や日枝より南さり気なし

粟津文庫
寛政3年(1791年)に蝶夢法師が創設した文庫で、蝶夢(五升庵)は、芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人で、粟津文庫創設の際、蕉門俳書60部を寄贈した。

無名庵
寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって義仲の墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれ、死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。

その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っている。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた後、度々無名庵を訪れ、逗留している。

芭蕉句碑
「行く春を おうみの人と おしみける」

芭蕉句碑
古池や蛙飛こむ水の音

芭蕉句碑
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

かくのごとき をみなのありと
かってまた おもひしことは
われになかりき

三浦義一翁歌碑

としつきは 過ぎにしとおもふ
近江ぬの みづうみのうへを
わたりゆく月

三浦義一翁歌碑

朝日堂。
ご本尊は木彫聖観世音菩薩。右手の厨子の中には義仲公、義高公父子の木像が納められている。

翁堂からやや奥の東側に義仲寺の鎮守木曽八幡神社がある。
1976年に、社殿と鳥居を造立した、義仲寺の鎮守として古図にも登場する社。
八幡社は、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神として崇められていた。

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義仲寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:滋賀県大津市馬場1-5-12
TEL:077-523-2811
JR琵琶湖線「膳所駅」下車 徒歩 10 分
京阪電鉄/石山坂本線「京阪膳所駅」下車 徒歩 10 分

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