秀吉と長浜

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。

小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。

天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。

その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。
対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。

喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。
次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。

秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。
小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。
この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

戦国時代の頃の話。織田信長は美濃の斎藤攻めで、堅城の稲葉山城の攻略が難航していました。

そのとき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、城の背後からの奇襲を織田信長に進言。実行隊長となります。
木下藤吉郎は稲葉山城の侵入に成功。稲葉山城に火を放ちます。

そして、信長本隊に送った合図が 槍の先に付けた瓢箪だったという話です。
そして木下藤吉郎の活躍もあり、稲葉山城は落城。(1567年)

功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可しました。
これが木下藤吉郎改め、豊臣秀吉の馬印が瓢箪となり、高々と掲げられるようになりました。

そして、快進撃の止まらぬ秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていきました。
その結果、秀吉の馬印のことを、千成瓢箪と言います。

「市章」を中央に、長浜城主であった「豊臣秀吉」の 馬印である「千成瓢箪」をデザインしたマンホール蓋。

「市章」は、「千成瓢箪」を長浜祭の曳山の数「12」を 周囲に配置し、中央に長浜の「長」を図案化したものです。

秀吉が活躍した稲葉山城の攻略、この時の功で千成瓢箪を馬印に・・・・
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今年3月に訪問した時の記事戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城がこちらにあります … 続きを読む →


千成瓢箪のデザインの角型マンホール蓋。

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