犬鳴山

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犬鳴山(いぬなきさん)は、大阪府泉佐野市大木犬鳴の犬鳴川渓谷を中心として、そこへ流れ込む燈明ヶ岳(標高558m、西ノ燈明ヶ岳ともいう)等の山域全体の総称。

「犬鳴山」という名称の山があるわけではない。

七宝瀧寺参道としての犬鳴川を持ち、決して高い山域ではないにも関わらず、渓流沿いの山岳景観は「大阪府 緑の百選」にも選ばれ、地元民に深く愛されている。

関西国際空港が開港してからは、空港からもっとも近い温泉「犬鳴山温泉」がある場所として名前が広がった。

画像は2の橋。

山中には、七飛瀑(両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千寿の滝、行者の滝)をはじめ大小48の滝がある。

このうち行者の滝は滝に打たれる修験場として知られている。
一般の一日体験も可能であり、女性でも参加できる。(有料、要予約)

画像は大黒天。

大阪府で最も高いノッポ杉、樹高38m。

なお「犬鳴山」の読み方についてであるが、地元では通常(いぬなきさん)と呼ぶ。

これは次節で述べているように、「犬鳴」が寺院の山号に由来しているためである。

そのため地元で「いぬなきさんに行く」と言えば、犬鳴川渓流沿いの参道を遡って七宝瀧寺へ行くことを指すのであって、決して山歩きに行こうと言っているわけではない。

これに対し、参道渓流入り口の温泉郷では(いぬなきやま)と読ませて「犬鳴山温泉」と称している。

犬鳴山という名前は、七宝瀧寺の山号である「いぬなきさん」に由来したものである。

両界の滝。

犬鳴大明神の由緒

古記にに依れば白鳳齊明天皇の御字、役小角が当山奥の滝(行者の滝)にて本尊倶利迦羅大龍無動明王をご感得になられたその少し前、同じく口の瀧(両界の滝)にてご修行の折、火の神が御誕生されました。

滝よりお生まれになったので瀧宮大明神と号し麓の大木の里に鎮祭しました。

平安初期、延直式で式内郷社に列され、火走神社として爾来高く尊崇されています。

今、そのご分霊を神意により犬鳴大明神と号し此処生誕地に改め勧請し奉る。

近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。

南北朝期に六坊が創建され、室町期には二十坊の坊舎を有し、本堂の修復も行われて隆盛を迎えた。

しかし豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎を焼き払われ、田畑山林も没収され、一時は廃絶同然となった。

のち岸和田城主より寺領五石の寄進を受け、ほぼ今日見られるまでに復興したものである。

修験道は、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰。

仏教に取り入れられた日本独特の宗教でもある。
修験宗ともいう。

修験道の実践者を修験者または山伏という。

修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。

日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。

この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。

修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語とされる。

画像は瑞龍門(行者迎えの門)

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。

表現形態として、権現(神仏が仮の姿で現れた神)などの神格や王子(参詣途上で儀礼を行う場所)がある。

修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。

役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。

修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。

その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。

神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。

そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。

このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、修験道法度弐を定めることで仏教の一派と見なして統制した。

修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。

江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし、両派に分けて競合させた。

ただ本山派は天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山とするように、いずれも仏教教団の傘下で活動した。

宇多天皇の御代、紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。

怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。

犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。

愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝滝寺の僧となって愛犬を供養した。

このことを聞いた天皇はいたく感動し、七宝滝寺に『以後「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜ったと伝えられている。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。

里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。

また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。

御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。

犬鳴山七宝瀧寺は、院号を「白雲院」と呼ばれていますが、これには乙女の哀しい物語があります。

その昔、淡路の小聖という修験者がいて、しばしば御所へ出入りしているうちに、官女の志津女という美人に想われる身となりました。

小聖は修行の妨げになるからと志津女を振り切って、犬鳴山中に逃れてきました。

志津女は小聖をあきらめきれず、あとを追って諸国を探し求め、遂に泉州犬鳴山に小聖が修行しているのを風のたよりに聞き、かの僧に一目会うべく犬鳴山まで来ました。

しかし、険しい渓谷の山路と、飢えと寒さ、そして俄かにたちこめてきた白雲によって道を見失い、ついに路傍に悶死しました。

村人は志津女の亡骸をねんごろに葬りました。

こうしたことがあってから、犬鳴山に白雲が立ちこめる日は必ず雨が降るので、村人は「志津の涙雨」だと言い、また、倒れていた付近の山肌から流れしみ出した清水を「志津の涙水」と呼ぶようになりました。

志津女の墓は、本堂下手100mの付近、参道の傍らにあり、その側からは今も涙水のように、清水が流れ落ちています。

書院はこの時から、「白雲院」と呼ばれるようになったと伝えられています。

また、一心を込めた願い事がある場合、この水を持ち帰り毎日飲用すると必ずや願い事が成就するといわれています。

付近にはお志津地蔵尊の御堂が建立され、一願成就のお地蔵さまとして信仰を集めています。

行者の滝。

橋の上まで進んで滝のクローズアップを撮ろうとしたのですが、バッテリー切れでアウト。

Z6は電池の消耗が激しい、予備の電池の傾向が必要になる。

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