熊野御幸記を歩く⑤山中渓入り口~布施屋渡し場

熊野御幸記も今回で5回目です、今回も小さいカメラです。

前回はここ、泉南I.C.北交差点まで歩きました。

先ず「琵琶ヶ岸懸」(びわががけ)を目指す。

薄暗い山中渓沿いの道を進む。

この先、道は大きくえぐれて道幅は50cmほどで、しかも路面は谷に向かって大きく傾いており、左手は石崖でつかむところがない。

縄が1本渡してあるのでバランスをとるためだけにこの縄をつかんで慎重に渡る。

また、現地の説明板では、次のように具体的な情景を描写している。

昔、琵琶法師が熊野詣を思い立ち、琵琶を背にこの谷まで来たとき、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。

法師のなきがらは川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶を奏でるように聞こえるので、人々はこの谷を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられています。

熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、きわめて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。

今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。

後鳥羽熊野御幸記には「八日天晴拂暁出道参信達一ノ瀬王子又於坂中祓参地蔵堂王子次参ウマ目王子次参中山王子」とある。

一ノ瀬王子の次は地蔵堂王子とあり、この時には長岡王子はない。

地蔵堂王子はこの石碑があるのみ。

現在、馬目王子は波太神社摂社の鳥取神社に合祀されている。
馬目王子は山中神社(現、地福寺)に合祀され、この山中神社が鳥取神社に合祀され、さらに波太神社の摂社になったと言う事である。

熊野古道とは関係ないが、田中武八翁碑(山中村庄屋田中家12代当主)

1874年(明治7年)、和泉国第二十四区山中村戸長を拝命し、小学校創設や地福寺の再建に尽力したという

山中宿目指し進む。

古くから「山中宿」と呼ばれる宿場町として発展し、現在も古い街並みが残っている。
江戸時代、紀州徳川藩の参勤交代時には山中宿が利用された。

石畳が整備されいい雰囲気になっています。

右手に江戸時代中期の建築といわれる「旧山中宿の庄屋屋敷」が残っている。

山中神社の祭礼にぶつかる。

この板状の石を屋根にした小社は、塞之神(さえのかみ)をかねた道祖神である。
山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣」の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってきた。

山中渓駅(JR阪和線)を通過する列車。

JR山中渓駅を南下してしばらく行くと 山中関所址 がある。
かつては熊野街道を通る人々から木戸銭を徴収して儲けたようである。

日本最後の仇討ち場の碑が県境に建つ。
安政四年(1857)に土佐藩士『広井大六』は同藩士の『棚橋三郎』に口論の末に斬捨てられた。

『大六』の子『岩之助』は安政五年江戸に申し出て『仇討ち免許状』を与えられた、『岩之助』は加太に潜んでいた『三郎』を発見し紀州藩へ改め仇討ち申し出た所、

紀州藩は『三郎を国払いとし境橋より追放する仇討ちをしたければ境橋の和泉側にて仇討ちすべし』と伝えた。

文久三年(1863)岩之助は境橋の和泉側で三郎を待ち受け見事に仇討ちを果たしたとされる。

この先はもう和歌山県だ。

熊野古道道標。

第一滝畑踏切を渡った所に中山王子跡がある。

和歌山県にはこのような詳しい案内板が王子毎に建つ。

中山王子址

案内板には・・・・前半割愛

『後鳥羽院熊野御幸記』(建仁元年~1202~の後鳥羽上皇熊野参詣に随行した藤原定家の旅行日記)には、十月八日の頃に「天、晴る。ウハ目王子に参る。沢、中山王子に参る。」と記されている。

ここから南へ約四キロ行くと次の山口王子社がある。

雄ノ山峠は阪和道建設時に削り取られて切通しになっている。

かつての雄ノ山峠を回顧できるものは殆ど残っていないが唯一峠付近から移転された不動明王像が往時の面影を伝える。

ここを超えると急な下り坂になります。
遠く向こうに紀ノ川が見えます。

本日の最終目的地布施屋もあの辺りか。

山口王子は泉州から和歌山へ入った二番目の王子社で雄ノ山峠を下って山を下りた地点である。
前の中山王子社から徒歩約1時間。

「熊野参詣(宴曲抄)」に、長岡信達も過ぎぬれば、あの彼方是方の峰つづき、雲の幾重ぞ外に見えし、葛城山の山中、山口の王子に来にけらし、と出ている。

中山王子から、雄の山峠を越えると、紀伊路に入る。
このあたりに関があった。

白鳥の関という紀州民話の中にこの白鳥伝説が残されている。
かなり古くからあるらしく、万葉集に、こんな歌が残されている。

吾が背子が あとふみもとめ 追いゆかば 紀の関守い 留めてむかも

(あの方の後を追っかけて真土山まで行ったなら、紀伊の関所の番人は、引き留めるでしょうね)

神亀元年(724年)10月聖武天皇の玉津島行幸の際、お伴の中にある女性の恋人がいて、その人に送るために金村が女性から依頼されて作った歌である。

もう刈り入れも終わっている、柿の木といいコラボレーションだ。

まっすぐに集落の間を登った所に山口神社があります。

古くは日吉春日神社といわれたが、明治四十二年、山口王子社、白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称されたようです。

当社は王子社ではないが、熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立寄ったと伝えられています。

今日はここでお昼の弁当をいただきました。

出発時から台風の接近を気にしながら歩いているが、この雲は台風の影響によるものと思われ、時折ポツリと来る。

この辺りからは、この導き石に沿って進みます。

川辺王子と言われている所は2カ所あり、山口王子跡から南下して、県道粉河加太線を右折してJR紀伊駅方向に進む。

紀伊上野バス停留所付近を左折。
この道を南に降ると小さな社が見えてくる。

たんぼの中を中村王子跡を目指す。

中村王子址

田んぼ端の高札には こう記す。

川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけ盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。

この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。

楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。

川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道筋が年代によって多少変わったためと考えられる。

中村王子社の次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。

     平成五年三月三十一日

      和歌山市教育委員会

力侍(りきし)神社「川辺(かわなべ)王子跡」

中村王子跡の東約200mに力侍神社の鳥居があります。
鳥居の脇には「和歌山県指定文化財 史跡川辺王子跡」の石碑が立っています。

大阪から雄ノ山峠を越えて、中山王子、山口王子に次いで3番目の王子ですが、場所については諸説があります。

鳥居をくぐり200mほど参道を北へ進むと、力侍神社と摂社・八王子神社の社殿に到着します。
2つの本殿は共に江戸時代寛永年間に建造されたもので、県指定の文化財になっています。

大正15年県委員の調査は、ここを川辺王子跡としている

中村王子跡の看板から、南に向いて行くと紀ノ川の土手に出る。
土手の下には紀ノ川の渡しの説明板がある。

往事はここに渡しがあり、たくさんの人々の行き来を見守ったであろう。
現在は、土手を登り、右に曲がって川辺橋に迂回して渡る。

川辺橋は県下最長の橋のようだ、長さ755.5m。

橋を渡った土手に建つ道標。

布施屋の渡し場址
現在の国道は川辺橋を渡るが、徒歩で旅をしていた時代は船に頼らざるを得なかった。

渡し場跡を示す高札
昭和30年代まで渡し場が使われてきたことが書かれていた。

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