沖縄屈指の名城 今帰仁城

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日本100名城の一つ。
今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))
今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。
堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。

攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。

今帰仁城の模型。
城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。
北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。

1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。
2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。
2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナ城跡へ改められた。

昭和50年、沖縄海洋博覧会の工事の進む中、石垣が積まれた箇所の発見がありました。これが城郭の一部であることが確認され、昭和54年12月28日に国の史跡として追加指定されました。

高さは2メートル前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続きます。
石垣で囲まれた空間を外郭と呼んでいます。
最近調査が行われ、外部の整備が進められています。

お城入り口の城壁
見応えがあるのは何と言ってもその城郭である。

外周は約1500m、高さ6~10mで自然の地形に沿って巡らされた様は「万里の長城」を想像するに容易である。

カーザフは、平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをいいます。
ここは、一段と低い所でその両側は切り立った「谷底」になっています。

この地名の語義は「川迫(さこ)」つまり、川の谷間として理解されています。
露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったものと想像することが出来ます。

入場券発売所の周辺にはいつも猫がいます。
発売所のカウンターで寝ていることもあります。
声をかけると愛想をしてくれました。

平郎門(へいろうもん)は今帰仁城の正門で、その名称は「琉球国由来記」に「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。

現在見る門は、昭和37年(1962)に修復されたもので、左右に狭間があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢なつくりとなっています。

内部から見た『平郎門』。
狭間は門番が外を見張るためののぞき窓になっています。

平郎門からまっすぐ伸びた階段。
七五三形式の階段参道になっています。

本来は曲がりくねっていたと思われるが、地元民によって桜の植栽とともに整備されたものだそうです。

階段の両脇は寒緋桜が咲き誇っており、折から桜祭りが行われていた。

ピンクがかわいい寒緋桜の名所でもある。

主郭から見下ろす『志慶真門郭』(しじまじょうかく)と城壁
城跡の南側の、主郭より一段低いところにあります。
今帰仁城の裏門にあたり、戦略上重要な所であったと思われています。

城の裏門にあたる志慶真門を守るこの場所から武家屋敷跡が発掘されています。
この城は標高約100メートル、古期石灰岩(こきせっかいがん)のほぼ独立した丘の上にあります。
そのため、城内の生活用水については不便であったとされています。

地元の古老によると、志慶真川から急な崖を登って水をかつぎあげたといわれています。
実際、志慶真門郭の北東部には水揚げ場跡が残り、石垣は志慶真川に突き出すようにして積まれています。

階段の道に比べると旧道はゴツゴツしている上に滑りやすく、歩きやすいとは言えませんが、何となくこちらのほうが趣があるような気がします。

また、右側に目をやると眼下に谷と遠くの景色が見えます。
この谷は古い石切り場らしく、樹木の間に現われている崖の岩肌は直線的な切れ目が多数見られます。

階段を登って左手に石碑があります。北山王側室であった志慶真乙樽(シゲコウトゥダル)が詠んだ琉歌で『今帰仁の城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきやいはきやい』と刻まれています。

老年になってできた子を可愛がる様子を時期はずれのみかんに例えた歌だそうです。
今から700年ほど前、乙樽という絶世の美女がいて今帰仁城主に見初められ側室になります。

王妃との間に子がなかった城主は老齢になってやっと子を授かりますが、その子を見ることもなく死んで行きました。
王子は千代松と名づけられましたが、臣下が反乱を起こし、乙樽も王妃も必死の思いで城から逃げ出しますが、産後間もない王妃は逃げ切れず、王妃は乙樽に子をたくし、志慶真川に身を投じて命を絶ちました。

乙樽は残された千代松をわが子のようにかわいがり、立派に育てあげます。
やがて千代松は丘春(おかはる)と名を改め、かつての臣下とともに敵をうちます。

乙樽は忠誠と慈愛の証として神人(かみんちゅ)という職を与えられたと伝えられているそうです。
『志慶真乙樽の歌碑』が大庭の一角に建てられています。

ソイツギ(城内下の御嶽)
北殿跡(ハサギ跡)の西側にあって、城(ぐすく)ウイミの時ここでも祭祀(さいし)が行われています。
神名は 「ソイツギノイシズ御(お)イベ」とされています

版築(はんちく)
今帰仁城の造られた山は石山で、頂上まで岩盤が露出していますから、人が住む場所がありません。
そこで、土を盛り上げて平らにするという方法で、基礎工事を行います。

ここに版築と呼ばれる中国の技法が使われていました。
赤土を敷いては突き固め、敷いては突き固め、と何度も繰り返します。
土が流れないように土留めの石を積みながら、基礎工事をおこないます。
発掘調査したときはツルハシが立たないほど、カチカチに固まっていたそうです。

御内原(うーちばる)から見下ろす「大隅」。
兵舎が立ち並んでいたのだろうか?
平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分を大隅と呼んでいます。

現在蜜柑や桜が植栽され、城外に抜けられる洞穴もあり、面積はかなり広い郭の一つです。
ここは、かつて「城兵達の武闘訓練の場」であったと想定されており、以前大量の馬の骨が発掘された場所です。

大庭(うーみやー)の東にある一段高くなった郭(くるわ)を主郭(俗称本丸)と呼んでいます。
主郭には多くの礎石(そせき)が現存し、桜の植樹のためか、一部移動させられている石もあります。
かつての建築物の形がいくらか想像できます。

1982年から4年間、発掘調査が行われました。
発掘調査の結果13世紀終り頃から17世紀初め頃まで機能していたことが分かりました。
監守引き上げ以降は火神の祠(ひのかんのほこら)が設置され、さらに来歴碑が建立され祭祀(さいし)を行う場として利用されています。

「火の神(ひぬかん)」拝所
右手奥には火の神を祭った祠(ほこら)があり、その傍らに石碑があります。
これは『山北今帰仁監守来歴碑記』で、北山滅亡以来、中山(後の琉球王国)から派遣された歴代の監守の名前が記されています。

監守引き上げ以降は火神の祠(ひのかんのほこら)が設置され、祭祀(さいし)を行う場として利用されていたと考えられています。

古宇利(こうり)殿内火神
小さな祠(ほこら)に香炉(こうろ)が置かれている簡単な作りで、東北の方向を拝み、古宇利島(こうりじま)の人々が旧8月に参拝します。

北殿跡の北側、一段高いところを御内原と呼んでいます。
ここは、かつて「女官部屋」があったといわれているところです。
城内でも崇高な場所とされ男子禁制の御嶽テンチジアマチジがあります。

北端からの眺望は城内で最もよいところで、大隅一帯の石垣をはじめ今帰仁村全域、伊平屋・伊是名の島々、国頭の山並麓、晴れた日には遠く与論島が眺められ、海を眼下に見ることができます。

クバの御嶽
今帰仁城跡の西にある古期石灰岩ならなる植物に覆われた丘陵。
地元ではウガミーと呼び神域とされる。

今帰仁城へのアクセス、行き方歩き方

今帰仁城公式サイト

住所:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
電話:0980-56-4400

高速バスor20番系統(名護西線)で名護バスターミナルまで。
バスターミナルで66番系統(本部半島循環線今帰仁廻)で今帰仁へ。
下車徒歩約15分。

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