桜の名所 高遠城

今回は信州の名城巡りです。
往復1,100㎞超のバス旅、お尻が痛くなりました。

まずは、絵島囲み屋敷でお馴染みの高遠城。

まずは駒ヶ根で昼食です。
本来なら木曽駒ケ岳が望めるのだが、今朝ほど駆け抜けていった台風26号の余波でご覧の通り。

進徳館、最後の藩主内藤頼直創設の藩校です。
高遠藩主内藤頼直が前藩主頼寧の意志を受け継ぎ、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て万延元年(1860)3月郭内三ノ丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設した藩学校。

グランドゲートをくぐると高遠城址公園。

高遠城は戦国時代、武田信玄の家臣であった山本勘助が縄張りした堅城で城主は武田氏一族が務めた。別名兜山城ともいわれる。

1582年(天正10年)、城主・仁科盛信(信玄五男)の時落城するが、この時籠城していた信玄の娘・松姫(盛信の妹)と、攻城軍の総大将織田信忠(織田信長嫡男)は元婚約者同士であり、落城にまつわる悲劇として知られている。

江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。
1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。

以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。
城の縄張りは中世の状態を踏襲しているが、本丸には御殿と天守代用として三層の辰己櫓が上がり、主要な城門は枡形虎口形式の櫓門が建てられており、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった。

高遠閣は、大正・昭和初期の稀有の建物として平成14年8月21日に国の登録有形文化財として登録され、史跡高遠城跡のシンボルとなっている。

手前の二ノ丸から本丸空堀をまたぐ桜雲橋を渡り、問屋門をくぐれば本丸に入る。

この門は高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門。
江戸時代、主な街道には宿駅が定められ、問屋と称する公用の荷物の継ぎ送り、また、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人をおいていた。

樹齢130年を越える老木を含めて、1300本の見事な桜の木です。
その花形は、やや小ぶりで赤みを帯び、その可憐さと規模の大きさは、「天下第一の桜」と称されるほどで、平成2年には日本桜の会の「さくら名所百選」にも選ばれている美しい桜です。

新城藤原神社は、古来より城内にあった藤原鎌足を祀った藤原神社に、織田信長との合戦で戦死した武田信玄の息子の仁科盛信の霊を祀った新城神をに一緒に祀ったと言われている。

本丸跡、ここからは中央アルプスが望めるはずだが、台風の余波で霧が多く視界はなし。

太鼓櫓は、搦手門の傍らにあって、楼上に三鼓を備え、常に番人をおいていて、時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って、時を知らせていた。

廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて時を報じていたが、明治10年(1877)頃に本丸、西南隅の現在地に移し、旧制どおり朝6時から夕6時まで偶数時を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。

本丸の空堀、広大な空堀が比較的良好な状態で残っている。

南曲輪からも中央アルプスの眺望があるのだが、本日はご覧の通り。

白兎橋を渡り法憧院郭(ほうどういんぐるわ)へ向かう。

文政の頃、高遠町の酒造業広瀬次郎左衛門という人があった。
その号を白兎と称し、和歌、狂歌などが得意であった。

文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して奉行所に押し寄せた百姓に与え、大事に至らずにすんだ。
その孫省三郎は私有地だった旧高遠城の法憧院郭を買上げそれを公園として寄附した。
その時この橋を造り、祖父の徘号にちなみ「白兎橋」と名づけられたものである。

ここに法幢院というお寺があったが、他へ移築したので法憧院郭と呼んだ。
天正10年の戦いには滝川一益がこの方面から攻め込んだ。
郭につづいて東方に幅6メートル、長さ170メートルの馬場があった。

白山橋からは仙丈ヶ岳が望めるはずだが・・・・・・

伊那市立高遠町歴史博物館は高遠の歴史と暮らしに関する文化財を展示する。
1階の歴史コーナーでは高遠城の模型や明珍(みょうちん)の兜、高遠藩主・内藤家の甲冑などを見ることができる。

物語まぼろしなりし我が絵島
  墓よやかたよ今うつゝなり 十月亭
(有島生馬)
                絵島囲み屋敷前

江戸城の大奥女中であった絵島が、痴情沙汰でこの地に遠流されて、28年間の生涯を幽閉をされたという、絵島囲み屋敷(復元)。

絵島は高遠に遠流の身となってから、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の日々を送った。

屋敷は格子や矢来で厳重に囲まれており、昼夜10人近くに見張られていたといいます。
こうして絵島は28年を高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことなく61才で病没していくのです。

格子で囲まれた絵島の部屋。

優雅な衣裳を剥ぎ取られ、木綿着物に着替えさせられた大年寄絵島は、幕府内の権力争いと大奥の大改革であった正徳の大疑獄(絵島事件)の犠牲に。

ここでの絵島は不条理に耐え、33歳から生涯を閉じる61歳までの28年間を朝夕一汁一菜、読経と写経を行う常精進の生活を送ったという。

高遠藩は大年寄という高い地位にあった絵島に対し、その取り扱いに慎重であり、さらに幕府の命には背かぬように細心の注意をはらっていたことがうかがわれる。

城内を歩いて廻り、南門より辰巳櫓を眺める。

名君・保科正之と生母・お静の方の像。

保科正之は信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。
江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。

高遠のマンホールの蓋の絵柄はズバリ桜。

絵島と生島の悲恋物語

ようやく安定期に入った江戸幕府は六代将軍・徳川家宣から七代将軍・家綱に移り代わった時代。

絶世の美女と謳われた中臈・絵島は家綱に代わったことにより大年寄に出世し、大奥の権力者となった。
だがまだ若い絵島は悶々とした日を過ごしていた。

一生、死ぬまで大奥に閉じ込められる女たちは年に一度の里帰りを楽しみにしていた。

その日、出入りの商人から芝居見物に誘われた絵島は花形役者・生島の美貌と男らしさに虜になってしまう。

評定所や江戸中町奉行坪内定鑑・大目付仙石久尚・目付稲生正武らによって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。

江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。
連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は武士の礼に則った切腹ではなく斬首、弟の豊島常慶は重追放となった。

月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩内藤清枚にお預けとなったが、事実上の流罪であった。

江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島への遠島、山村座座元の五代目山村長太夫も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。
この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。

このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出され、最終的に50人近くの人が罰せられた。

この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍となった。

そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、江戸幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。

秀忠が正室の江(崇源院)以外の女性に産ませた(お静の方)唯一の子 保科正之

慶長16年(1611年)5月7日、第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。
幼名は幸松。
母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘(『以貴小伝』『会津家世実記』)、もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である静(志津、後の浄光院)。

秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ赴いているほか江戸近郊で鷹狩を行っており、静の妊娠はこの間のことであると考えられている。

生誕地に関しては諸説あり、浦和宿近郊の現さいたま市緑区で出生したとされる。
なお、「会津松平家譜」では江戸神田白銀の竹村次俊宅にて正之が出生したとある。

近世武家社会においては、正室の体面・大奥の秩序維持のため侍妾は正室の許可が必要で、下級女中の場合にはしかるべき家の養女として出自を整える手続きが必要であったと考えられている。

また、庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例であり、幸松の出産は武田信玄の次女である見性院(穴山信君の未亡人)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された。

この事実は秀忠側近の老中土井利勝や井上正就他、数名のみしか知らぬことであったという。
また、「会津松平家譜」では武田氏に預けられたのは慶長18年(1613年頃)としている。また、正之が生まれた場所は静の姉婿に当たる神田白銀町の竹村助兵衛方であったともいわれる。

元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。
ただしこの時、正之は正光の養子にすでに左源太という男子がいることをお供の女性が茶飲み話していたのを聞いて、母にむかって「肥州(正光)には左源太という子がいるからいかぬ」と駄々をこねて母を困らせ、母の説得でようやく高遠入りしたという。

正之は高遠城三の丸に新居を建設されて母とともに生活し、正光の家臣が守役となり、正光も在城の際には日に5、6度はご機嫌伺いをしたという。
正光は自らの後継者として正之を指名し、養子の左源太にも生活に不自由しないよう加増や金子を与えること、自らの存命中に秀忠と正之を父子対面させたいことを約した遺言を遺している。

なお、長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされて知ったとされ、後で成就院は家光より寺領を寄進された。

後に新井白石は正之を重用した家光の行為を「善政の一齣」であると記している。

また次兄徳川忠長と対面しており、忠長からは大変気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられたとしている。

寛永8年(1631年)、正光の跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となり、正四位下左近衛中将兼肥後守に叙任。
以後、会津中将と通称される。

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高遠城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県伊那市高遠町東高遠城跡
電話:0265-94-2557(伊那市教育委員会高遠教育振興課)

JR飯田線伊那市駅からJRバス高遠行きで25分、高遠下車、徒歩20分