東海道を睥睨(へいげい)する 亀山城

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伊勢亀山城は、1265年(文永2年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山に築城された。

神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。
その後、関氏の時代のうちに現在の位置に移され、1567年(永禄10年)の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。

1590年(天正18年)に豊臣秀吉に従った岡本宗憲が入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸などのその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。

亀山は東海道の宿場町である。
東から近づくと街道は城の大手門で遮られて南に下がり、城を右手に見ながら迂回し、また北に向かい、さらに城の西のはずれで西に少し方向を変えながら鈴鹿峠方面に向かう。
安藤広重の版画の風景は、この西の総門付近のものである。

城内に唯一残る多聞櫓。

江戸時代初頭には丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いによって、天守を取り壊されている。

また、そう見せかけた徳川の陰謀との見方もある。

またこの時期の亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。
このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。

1636年(寛永13年)、城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。

「与助井戸」
亀山城本丸で使用されてきた井戸で、亀山城築城の際、この場所にあった民家「与助鍛冶」を、城外へ移したことから、「与助井戸」と呼ばれています。

「明治天皇亀山行在所遺構」の石碑。

亀山神社。

大久保神官家棟門。

正慶元年(1332)の銘のある宝篋印塔の基礎部。

三重櫓跡。

三重櫓跡下にある公園池、かつては堀だっただろう。

二の丸帯曲輪へ向かう土手、高さはありませんが、背後は急峻な崖になっており、背後からの守りは堅そうです。

亀山古城の跡を示す石碑

案内板は亀山神社から北東、直線距離にして500~600mの住宅地に中に建つが、石碑背後の丘には遺構を観ることは出来ない。

案内板にも、亀山古城の城域は特定されていないと記されているが、亀山公園の東の北公園(戦没者慰霊碑のある高台)には土塁,土塁の虎口、および北側斜面の藪の中に曲輪と1条堅堀が残ることから、北公園一帯が亀山古城ではなかったか。

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亀山城へのアクセス、行き方歩き方

住所:三重県亀山市本丸町

お問合せ / 亀山市まちなみ文化財室 TEL.0595-84-5078

JR関西本線『亀山駅』より 徒歩10分

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