東海の名城、日本初の木造復元天守閣 掛川城

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日本100名城の一つ。
戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心、拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台となった。
朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られる城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものである。

復元整備された天守と城門。
3層4階の入母屋造である点と、2重目の唐破風出窓や慶長時代の様式といわれる花頭窓などは、絵図などの調査に基づいて忠実に再現されている。

また、この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にしてそれに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。

掛川城大手門礎石(そせき)根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門楼門ろうもん)でした。
大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。

直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げた。

十露盤堀(そろばんぼり)
本丸を囲む重要な堀。
水がたまった部分が、そろばんの箱のように見えることが十露盤堀の名称の由来と考えられています。

1600年(慶長5年)の関が原戦後、一豊が20万石大名として土佐へ移った後の城主には徳川譜代の大名(松平、青山、北条、井伊、小笠原など)が任じられた。

延享3年(1746)からは江戸城を築いた太田道潅の子孫が城主となり、明治維新まで藩政をつかさどった。
掛川城は江戸時代11家26代にわたり徳川家主要な大名が任じられた東海道の要衝の地であった。

天守台の張り出し部分には石落としや槍を突き出したりして、石垣を登ってくる敵を攻撃する設備が備えられていた。

天守よりの眺望。
現在の「掛川」という漢字が現れたのは、少なくとも“山内一豊公”の時代以降と言われている。
それまでは「懸河」または「懸川」と表記されていた。
掛川城も同様で「懸河城」「懸川城」などと記されている。

霧吹き井戸
西から徳川家康、東から武田信玄に攻められた駿河の今川氏真は、重臣朝比奈泰朝の掛川城へ逃げ込みます。

この城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったといいます。
以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。
霧吹井戸は、天守台の脇に現存している。

1861年(文久元年)に再建された二ノ丸御殿が現存し、1980年(昭和55年)に国の重要文化財に指定されている。

二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物。

城御殿の庭越しに天守を望む。

書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室しつが連なり、各室は襖ふすまによって仕切られている。

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掛川城へのアクセス、行き方歩き方

掛川城公式サイト
静岡県掛川市掛川1138-24
東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線・天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線掛川駅から北へ徒歩7分

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