日本の霊場 山寺(立石寺)

立石寺(りっしゃくじ)は、山寺(やまでら)の通称で知られ、古来、悪縁切り寺として信仰を集める。
寺名は古くは「りうしゃくじ」と称した。

蔵王国定公園に指定されている。
平泉中尊寺・毛越寺、松島瑞巌寺とともに「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。

日枝神社の参道より奥ノ院を目指す。

根本中堂は立石寺という御山全体の寺院の本堂に当たる御堂。

現在の根本中堂は延文元年(1356年)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造・五間四面の建物で、ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれる。

立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。

当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。

立石寺は山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。

最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を援助した。

義光の時代の分限帳によれば、立石寺には寺領1,300石が与えられている。

根本中堂には招福布袋尊の木像が鎮座していた。
おそらく参拝者がなでて少しでもご利益を得ようというのだろう、布袋尊は人の脂でてかてかに光っていた。

これは「亀の甲石」と言って、亀の形をしてる事から、小銭に名前を書いて置くと、延命・長寿など諸々の願いに霊験があると信じられ(良善院資料)、夕方に小銭を神前に奉納して、祈祷されている。

真っ白い仏「万物供養阿弥陀如来」です。
生命を供養してくださるそうです。

立石寺と聖徳太子がどういう関係だろうと調べてみたがよくわからない。

根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑がある。

その右側面に一具の「左羽に夕日うけつゝほととぎす」の句を刻み、左側面には二丘の「楽書は笹の葉にある清水かな」と川丈の「花咲かぬ草木より風薫りける」の句が刻まれている。

本堂から山門に向かう途中に、清和天皇の宝塔がある。
立石寺は清和天皇の勅願により開山され、三百八十町の寺領を免租地として下賜されるなど、手厚く保護されたことから、死後、その徳を慕って根本中堂の北西側の隅に宝塔を建てて供養した。

ハンス・ティーデマン先生(1883年ドイツ生まれ哲学博士)は、1921年から10年間山形高等学校においてドイツ語を教授した。山形の風土を愛し、独自の風格をもって青年の教育にあたった...

「こけし塚」は、本当にこけしの形をしていて、あちこちにある山寺の絵図には、他のものは省略されていても、必ずこの「こけし塚」だけは表示されていた。

秘宝館の向かい側に、1972年建立の芭蕉像と「奥の細道」紀行300年を記念し、1989年に建てられた曽良の像、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を刻む芭蕉句碑がある。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を刻む芭蕉句碑。

山門は茅葺の趣がある建築物で建立は鎌倉時代と伝えられています。
山門を潜ると料金所があり奥之院までは八百余段の石段が続きます。

山門からやや登ったところに間口2.7m、奥行1.8mの姥堂がある。

十王経に書かれた鬼婆で、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取るという奪衣婆(だつえば)の像と地蔵尊が並んで祭られている。

姥堂は、これを境にした極楽(上方)と地獄(下方)との分かれ目とされ、極楽浄土への入口と説かれている。

沢山の仏像の中を黙々と奥ノ院を目指す。

慈覚大師お手掛石
登山口から270余段、奥の院まで730余段

お山の自然にそってつくられたこの参道は、昔からの修行者の道。
一番せまいところは約14センチの四寸道で、開山・慈覚大師の足跡をふんで私たちの先祖も子孫も登るところから、親子道とも子孫道ともいわれる。

左上にそびえる百丈岩の上に、納経堂や開山堂、展望随一の五大堂がたっている。

芭蕉せみ塚
俳聖松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは元禄二年(1689)旧暦で五月二十七日(新暦七月十三日)、紀行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿坊といわれています。

その後、翁に連なる弟子たちがこの地を訪れ、往時の面影から翁を偲び、この場所が芭蕉翁が句の着想を得た場所ではないかと、翁の遺した短冊を土台石の下に埋め塚を立てたものがせみ塚となります。

その後、山寺は斎藤茂吉をはじめ多くの俳人・歌人が訪れ、今尚変わらぬ風景に芭蕉翁を感じた方々が残した詩が参道の至るところに句碑となって見られる。

芭蕉せみ塚の上あたりで小休止。
左は絶壁がそびえる。

蝉塚から更に行くと、道の右側に直立した巨岩が見えてくる。
長い歳月にわたる自然の営みが岩を風化させ、阿弥陀如来を彷彿させる姿にした謂れから「弥陀洞」の名があり、岩の高さから「丈六(一丈六尺。約4.8m)の阿弥陀如来」とも呼ばれる。

山寺夜行念仏
夜通し独特の節回しの念仏を唱えながら死者の供養をし、立石寺奥の院を目指します。
階段脇にある燈篭に灯が灯ります。
約百年ほど前から行われている伝統行事。

「空也塔」と書かれています。
「空也上人」の供養塔というか、念仏信者が建てるものです。

この先に奥の院の山門・仁王門があり、弥陀洞から仁王門を眺める光景は、立石寺一山の中で格別に美しい風景の一つとされ、紅葉の季節になると仁王門周辺のもみじがその度合を一層強め、更なる絶景を醸し出す。

仁王門
嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門で、左右に安置された仁王尊像は、運慶の弟子たちの作といわれ邪心をもつ人は登ってはいけないと、睨みつけている。

見上げれば立派な彫刻が。

目指す奥ノ院はすぐそこだ。

百丈岩の上に立つ開山堂は立石寺を開かれた慈覚大師の御堂で、この御堂が建つ崖下にある自然窟に大師の御遺骸が金棺に入れられ埋葬されています。

御堂には大師の木造の尊像が安置されており、朝夕、食飯と香が絶やさず供えられ護られています。

普段は扉の閉じられた御堂ですが、年に一度、大師のご命日に当たる一月十四日に法要が行われ御開帳されます。

向かって左、岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で、山内で最も古い建物です。
ここに奥之院で四年をかけ写経された法華経が納められます。
県指定文化財で、昭和六十二年に解体修理が行われました。

五大明王を奉る五大堂。
舞台造りのこの御堂からは山寺を一望でき、絶景を楽しむことができます。

五大堂からの見事な眺望。

修行の岩場

急峻な岩場、釈迦ヶ峰の頂上釈迦ヶ岩の上に建つ釈迦堂。
こちらは現在も一般人の立ち入りは許されず、修行僧のみ立ち入ることの出来る修練の場だ。

金乗院の上方に山頂売店があって、ここから山側に歩いて行くと、平地があり、正面の岩壁基部に一間四方の準提堂(左)と六観音堂(右)が建つところがある。
ここが、胎内堂から地獄谷、釈迦堂を巡り帰着する地点だったところで、六観音堂の右方向にある小道が、巡礼に使用された登山道である。

目的地奥ノ院と大仏殿への最後の階段。

立石寺鐘楼堂
鐘は招福の鐘としても知られる。
除夜の鐘は1月1日0時からで、12月31日の夕方頃から鐘楼堂の入口に行列ができる。
一般の参加も可。

奥之院は通称で、正しくは「如法堂」といいます。
慈覚大師が中国で持ち歩いていたとされる釈迦如来と多宝如来の両尊を御本尊とする如法堂は、参道の終点にあるので「奥之院」と呼ばれています。

また如法堂左側の大仏殿には、像高5メートルの金色の阿弥陀如来が安置され、宗派を問わず供養に数多くの人が訪れます

像高5メートルの金色の阿弥陀如来。

華蔵院
ここも十二支院の一つで、慈覚大師が開山のみぎりこの寺にお住まいになったといわれ、本尊は慈覚大師作の観世音菩薩と伝えれれます。向かって右側にある岩屋には、岩屋をお堂に見たてたその中に三重小塔があります。

永正十六年(1519)に造られたこの塔は柱間一尺五寸ほどの小さなものですが、他の塔と同様の工程で組み上げられ全国で最も小さい三重塔ということもあり、国の重要文化財に指定されています。

登山口まで無事降り立ちました。

宝珠橋のたもとに巨石「対面石」がある。これは、慈覚大師が立石寺を開山するにあたって、宝珠山を住処とする狩人磐司(ばんじ)と対面し寺院建立の了解を得たところと伝えられ、傍らにあった欅の木は、「山寺七木」の一つに数えられた。

「山寺七木」は、この「対面石の欅」の他、「山王(日枝神社)の銀杏」、「南院の藤」、「三輪の老松」、「極楽院の椿」、「暖沢(あだかざわ)の千本桂」、「如法堂(奥の院)の飛梅」を指したが、現存するのは「山王の銀杏」と「暖沢の千本桂」のみである。

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立石寺へのアクセス、行き方歩き方

立石寺公式サイト

住所:山形県山形市山寺4456-1
電話:立石寺事務所/023-695-2843

JR仙山線山寺駅より徒歩7分 立石寺登山口