川中島合戦の前線基地 松代城

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松代城は元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。
また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。
形式は輪郭式平城。
国の史跡に指定されている。

本日の朝のプラスワンの旅は中止です。
日の出時刻が6時12分、朝食が6時30分と、残念ながら時間が取れません。
美ヶ原からの朝日の写真が撮りたかったのですが、朝食している間に日が昇ってしまいました。
失敗です。

美ヶ原(うつくしがはら)は、八ヶ岳中信高原国定公園北西部にあり、長野県松本市、上田市、小県郡長和町にまたがる高原。
日本百名山の一つ。
美ヶ原という呼称が定着したのは、1921年(大正10年)に木暮理太郎が、日本山岳会の会報『山岳』に登山の記録を載せてからである。

ホテルの壁面に尾崎喜八作の「松本の春の朝」がはめ込んでありました。
「松本の春の朝」  尾崎喜八作 『高原詩抄』より 第6編(昭和17年刊行)
夜明けに一雨あったらしく、

    空気は気持ちよく湿っている。
    山にかこまれた静かな町と清らかな田園、
    岩燕が囀(さえず)り、れんげそうの咲く朝を、
    そこらじゅうから春まだ寒い雪の尖峰が顔を出す。
    日本のグリンデンヴァルト、信州松本。
    凛とした美しい女車掌が運転台の錫(すず)の筒へ、
    紫と珊瑚いろ、 
    きりたてのヒヤシンスを活けて去る。

因みに尾崎喜八は「美ヶ原」を詠んだ詩が有名で、「美しの塔」にその詩が刻まれており、その名作といわれる詩、「美ガ原溶岩台地」も同じ詩集『高原詩抄』(第47編)に収められています。
きっと、この「松本の春の朝」も「入山辺(イリヤマベ)行きのバス」とあることから、彼が愛した美ヶ原へ登るために(登山口の三城牧場まで)出発する朝の松本駅前の様子なのでしょう。

バスの車窓より善光寺平(ぜんこうじだいら)
長野盆地(ながのぼんち)は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平(ぜんこうじだいら)と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。

その他の四つの平とは
松本盆地(松本平)
佐久盆地(佐久平)
伊那盆地(伊那谷、伊那平)

長野電鉄の「屋代線」の松代駅
残念ながら2012年3月31日で、長野電鉄の一部路線である「屋代線」24.4kmの運行が終了してしまいました。
非常に趣のある駅舎です、郷愁をそそります。

残された鉄路もさみしそう。

池田満寿夫美術館
長野市で育った異才の芸術家・池田満寿夫の作品を収蔵する。

栗菓子製造・販売の株式会社竹風堂(上高井郡小布施町)が運営し、竹風堂松代店に併設されている。

正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。

千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等張・原与惣左衛門が配置されたという。

南の櫓門

甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。

千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。

平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

海津城址の碑

松代城から川中島の合戦の時、上杉謙信の軍勢が陣を構えた妻女山はすぐ目と鼻の先だ。 ここが川中島の合戦の舞台であったことを思い起こさせてくれる。

不明門(ふめいもん)とは読んで字のごとく、「あかずの門」。

縄張りは有名な山本勘助という。

ドウダンツツジの赤が見事、松の緑と映える。

桜の葉も黄色く色づく。

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松代城へのアクセス、行き方歩き方

住所:長野県長野市松代町松代44
電話:026-278-2801(真田宝物館

長野電鉄屋代線 松代駅 徒歩5分
JR長野駅から川中島バス「松代行き」で約30分 松代駅下車

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