小雨降る出石城跡

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6月に引き続き今年二度目の出石訪問です。
今回は小雨の中の城下町探訪です、雨にたたずむしっとりとした小京都の味わいもいい。
参考記事:山峡の城下町 出石城
但馬の小京都 出石散策
近畿最古の芝居小屋 出石 永楽館

先ず出石に来たなら訪れるのが家老屋敷跡、丸に無と書くのは仙石家の家紋ですね。
ほかに永禄銭。

稲荷神社参道、本丸西隅櫓を目指すルートもいいがこのルートもいい。
6月に訪れた時はユキノシタの花が満開でとてもきれいでした。
参考記事: 山峡の城下町 出石城

稲荷神社参道あたりから二の丸、城下を望む。
雨は落ち着いた雰囲気を醸し出します。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

出石城の後背・山名氏時代の有子山城への登山口、極めて急峻な山城である。
今回はパス。

以前の登山ルートはここから右側の谷筋に設けられていたが、何年か前の台風のため崩落し、このため新たに尾根筋をほぼ直登する現在のコースが設けられている。

稲荷郭の稲荷社。

ここからは本丸跡、出石の城下町が一望です。

少しズームして見ます、 辰鼓楼と小雨にけぶる城下町が望めます。
雨露をたっぷり含んだ夏草を避けながらの散策です。

感応殿は明治時代に仙石氏の旧臣が建立。
祀り神は幕末に藩主であった仙石氏の祖、仙石秀久公です。

稲荷神社参道を少し下がったあたりの東隅櫓、出石城の好きなアングルの一つ、夏草に覆われた古城です。

稲荷曲輪東側のの石垣、崩れかけたまま放置されているがもったいない。
立派な観光資源です。

諸杉神社は出石城城郭内の東に鎮座する。
当初は出石神社の南西1kmの有子山に鎮座し、古くは諸枌(もろすき)神社と書かれていた。

それを天正2年(1574年)に城の守護神として遷座したとされる。

いくつもの風鈴が紐で釣られ、風に揺らめいている。
多くの風鈴の鳴る音が当たりに響き、雨空につかの間の涼感を感じる。

西側の市営駐車場から本丸西櫓を望む、遠景の小雨に煙る峰々がきれいだ。

出石に来たなら出石ソバ、今日のお昼は出石ソバです。

江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされる。

小雨に煙る小京都での昼食はそばでした。
店舗では通常1人前5皿で供される。
1皿に盛られた蕎麦の量は2~3口程度であり、1皿単位での追加注文も可能な店が多い。

仙石秀久(1552年~1614年)は豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
通称・権兵衛。
しかし、途中何度も挫折、真に数奇な人生を歩んだ武将です。

1552年1月26日、斉藤氏に仕えていた豪族・仙石久盛の4男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)で生まれる。
しかし、兄弟が不幸にあったため急遽家督を継ぐことになる。

15歳の秀久は稲葉山城の戦いで落ちのびた後、信長に勇壮な相貌を気に入られ、黄金一錠を与えられたといわれている。  

信長公、秀久の容貌の勇壮なるを賞す「改選仙石家譜」。
その後羽柴秀吉の配下として各地を転戦する。

1570年姉川の戦いで山崎新平を討ち取り、1574年1000石の一領主となる。
中国攻略に従軍してからも1578年に4000石、翌年に茶臼山城の城主へ。

着々と出世を続け1583年淡路洲本城主5万石の大名となる。
さらには1585年四国攻めの論功行賞により讃岐高松10万石に加増された。

1586年四国を平定した秀吉に従い四国勢の軍監として従軍することになる。
十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海し、豊後で島津家久と対峙する。

しかし四国攻めから間もない状態から四国勢は結束に乏しかった。
加えて大友家からの援軍も少数に留まっていた。

秀久は秀吉からは本隊到着までは持久戦に徹するよう書状を受け取っていたが、互いに犬猿の仲である長宗我部親子と十河存保がそろって反対したにも関わらず両者の反対を押し切り先陣部隊だけでの攻勢を決定した(資料によっては十河存保は長宗我部親子への対立から賛意を示したとも)。

1587年戸次川の戦いで大敗し、長宗我部信親・十河存保らが討死、軍勢も総崩れとなって退却した。

四国へと真っ先に逃げ帰った秀久はこう記された。

「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」(豊薩軍記)

ルイス・フロイスはこの時の仙石軍の様子をこう記した。
「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」(日本史)
「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」(日本史)

それ以上に、九州から四国・讃岐へ勝手に撤収するという醜態を見せ、これらの行状に秀吉は所領没収の上で高野山追放の処分を下した。

その後高野山だけでなく京都、大坂を転々としていたらしい。
1590年に小田原の役がはじまると故郷・美濃で浪人達を集め、徳川家康の推薦もあって陣借りとして参陣。

鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。

秀久は伊豆山中城攻めで『無』の馬印を背負い先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。

その名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程である。

その功績から秀吉から信濃小諸に5万石を与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。

秀吉の死後、徳川家についた秀久は1600年の関が原の戦いで東軍として参戦。
徳川秀忠の側近として上田城攻めに参加。

遅参し、秀忠に対して激怒する家康への謝罪に努めた。
この働きが後に秀忠に重用されるきっかけとなった。

江戸時代になってからは信濃小諸藩の初代藩主となった。
秀久の治世では佐久郡において農民がストライキを起こすなどあまり内政は上手くなかったらしい。

しかし、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。
また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。

1614年、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。享年63。

久秀の逸話

織田家に家臣入りした際、信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。

紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付きの「安珍清姫の鐘」を陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として用いた後、そのまま京都に持ち帰って経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めたという。

常山紀談で仙石権兵衛秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場し、商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている。

「豊薩軍記」は戸次川の戦いの失態について「四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と痛罵している。

伏見城にて石川五右衛門を捕縛したとの伝説がある(公の捕縛者は京都所司代であった前田玄以であるが、「一色軍記」では秀久が捕縛したとの記述が残されている)。
そのため秀久は講談の世界で怪力無双の豪傑として登場する。

関ヶ原では秀忠に従い、上田城攻めに従軍。
その際、真田父子に苦戦する秀忠に「自分を人質に送り先へ進軍していただきたい。
自分が死んでも東軍が勝利すれば満足である」といった進言を行った。

秀忠は「譜代の将でない(外様)ため、昌幸は納得せぬであろう」と実行しなかったが、その忠節を非常に喜んだという。

秀忠は秀久を重用する様になり、関ヶ原の後に秀忠付という名誉職を賜ることになる。
豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分な待遇を受けており、準譜代大名の一角として江戸幕府から相当の信頼を受けていた人物であった。

仙石氏の江戸城内での詰所は、譜代城主格として帝鑑の間であったという。
4代当主仙石政俊以降は外様の小身の席である柳の間に替えられ、後代々同じという。

後に秀忠が将軍宣下を受けた際にも同行して参内を果たしている。
また、江戸の秀久邸に将軍秀忠が訪れるエピソードが残されている。

他に秀久が江戸に参府する時は道中の妻子同伴が許されており、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。

小諸藩主時代には、早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品にしようと取り組んでいた事や、蕎麦切りを媒体にして領民とのコミュニケーションをはかったといわれている。
家名存続のために苛烈な一面があり、関ヶ原の戦いの時、西軍に与した嫡男の秀範を廃嫡の上、勘当している。

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出石城へのアクセス、行き方歩き方

兵庫県豊岡市出石町内町

山陰本線および北近畿タンゴ鉄道 豊岡駅から全但バス「出石行き」で20分、終点下車、徒歩5分

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