家康生誕の城 岡崎城

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岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にあった城。
徳川家康の生地である。
別名、龍城。

岡崎城主の田中吉政が10年かかって造り上げたという「岡崎宿27曲がり」を無事通り抜けることは、東海道を歩く者にとっての大きな楽しみの一つと言える。 

冠木門前から出発して「若宮通り」「伝馬通り」「「連尺通り」「木まち通り」「松葉通り」を通って「矢作橋」に至る約4km。 

途中で「岡崎城」や「八丁味噌蔵」などに寄り道して2時間の宿場歩きが楽しめる。

大手門(復元)

三河武士のやかた家康館
家康公と彼に仕えた三河武士たちの人間像を中心に、数多くの史跡や文化財などをわかりやすく展示されている。

三河武士のやかた家康館の内部。

駿河で元服した【たけちよくん】は、松平元康と名乗ります。

岡崎城二の丸御殿の井戸

【現地案内文】
この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成19年度の発掘調査で発見されました。

岡崎城二の丸御殿(現在の家康館からこの井戸付近までの位置に建っていました。)に伴うものと推定されます。
二の丸御殿の絵図には、建物の北東側に2基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられます。

昭和57年に建てられた本多平八郎忠勝公銅像。
家康公の四天王の一人。

徳川家康公銅像

銅像の説明板より
天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。

幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。

以後持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基礎をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。

空堀

清海堀。創築者西郷頼嗣(清海入道)の名を伝える空堀。
城内で一番深い。

巽閣北側の堀と石垣。
後方は水堀。

本丸南側に残る水堀に架かる神橋(後世に造られた橋)。橋を渡った所は風呂谷曲輪。

復興天守
昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守が復元。
鉄筋コンクリート3層5階で、内部は歴史資料館。
岡崎城の天守は、田中吉政が最初に建造したという。

元和3年(1617)、本多康紀が築造した天守は3層3階、地下1階、望楼式で、南に付櫓、東に井戸櫓が付く複合天守だった。

本丸南西側の虎口。
近世城郭にしては入口が狭い。
通用門といったところであろうか。

お城入り口の手前右側にある、東照公遺訓碑。
家康が征夷大将軍に命じられたときに遺訓を書いたといわれています。
 
『人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。
いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

堪忍は無事長久の基、怒りは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。

慶長8年正月15日

人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな』

天守閣前に建つ家康の遺言の碑。

『わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難(かんなん)することあらんには、たれにても其の任に変らるべし、天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四條安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし』

神橋を渡ってみる。

石垣は本丸の石垣。

三日月の穴が穿れた川上三太郎の句碑。

『子供は天の子風の子地の子』の文字が刻まれています。
川柳人の川上三太郎の作品です。

天守をバックに家康公像。

しかみ像

世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画で、このしかみ像は、かの画像を基にして制作された石像。

岡崎公園時計塔(からくり時計)

櫓の形をした電話ボックス。

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岡崎城へのアクセス、行き方歩き方

住所:岡崎市康生町561-1番地
電話:0564-24-2204/三河武士のやかた家康館

名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩約15分

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