太田垣蓮月隠棲の地神光院

才色兼備な陶芸歌人太田垣蓮月尼が晩年隠棲したといわれる西賀茂の神光院(じんこういん)を訪れた。

正面門前の参道は、新緑・紅葉・桜と楽しめます。
またこちらは「厄除け大師」として知られています。
5月中旬~6月中旬 花菖蒲(はなしょうぶ)
8月上旬 百日紅(さるすべり)

12月上旬~1月下旬 山茶花(さざんか)と 四季を通して多様な花木が境内に咲くことでも知られる。
特に12月前後に境内に咲く、白い八重のサザンカは、当院にのみ存在する珍しい品種である。
五山の送り火、「舟形」はこの寺の後ろの山(西賀茂船山)で灯される。

神光院(じんこういん)山号は放光山。
本尊は弘法大師(空海)像で、「厄除け大師」として信仰されている。
東寺(教王護国寺)、仁和寺と並ぶ京都三大弘法として有名であり、地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親しまれる。

蓮月隠棲中の明治初期に、廃仏毀釈運動を受けて一旦は廃寺となったが、蓮月没後の1878年(明治11年)に僧侶、和田月心により再興された。
静かな境内を舞台に、『銭形平次』や『御家人斬九郎』、『暴れん坊将軍』を始めとする、時代劇の撮影がたびたび行われてきた。

幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月は、晩年の75歳から当院に隠棲していた。
境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶室(蓮月庵)が残されている。

茶室「蓮月庵」
蓮月に茶室を紹介したのは同院の月心和上と親交があり、蓮月がただ一人、心を許した明治、大正に活躍した画家の富岡鉄斎。
蓮月が60才の頃、侍童として預かったのが後の富岡鉄斎であった。
富岡鉄斎が姉のように慕った女性の庵が残り梅が咲く季節には素敵な風情となります。

太田垣蓮月尼の歌碑。
ただならぬ枕の草に虫鳴ひて秋あはれなるわが庵かな

暮れぬとて帰る家路もそこはかと夏草しげし西賀茂の里

願くはのちの蓮はちすの花の上へに曇らぬ月を見るよしもがな
蓮月

池の奥に静かにたたずむ本堂。
太田垣蓮月(1791~1875)は,名を誠といい才色兼備でしたが、夫と二度も死別、四人の子にも先立たれ、33歳で出家して蓮月尼と称しました。
煩わしさを逃れ生涯三十数回住まいを替え「引越しの蓮月」と異名されましたが(勤皇の志士を匿ったためと言われます)、戊辰戦争の際に、三条大橋を通りかかった官軍の西郷隆盛に歌を渡したというエピソードでも知られます。
「あだみかたかつもまくるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」・・同じ日本人同士が戦うことの悲劇を詠ったこの歌が、江戸城の無血開城に影響を与えたとも伝えられています。

その後、剃髪して尼となり、陶芸や歌・書に励み、製作した急須・茶碗などの陶器に自詠の歌を彫り込み『蓮月焼』として名声を博した。
手ひねりの陶器に自作の和歌を彫るという「蓮月焼き」を生み出すにいたったのも、豊かな発想と柔軟な思考を持ち合わせていたからでしょう。
そのなんとも艶っぽい蓮月焼きは、京の町では当時、かなりの評判に。
あまりの人気に贋作も多く出回り、さらには京を訪れて、蓮月焼きを買って帰らなければ、「何をしに行ったかわからない」と言われてしまうほどでした。

弘法大師像、空海は42歳の時神光院を訪れ、90日間の修行後、この地を去る時、人々との別離を悲しみ、自らの姿を池に写し自像を刻んだという。

毎年7月下旬には、空海がキュウリに疫病を封じて病気平癒を祈願したことにちなみ、厄病除けの祈祷「きゅうり封じ」(きうり加持)が行われる。
名前を書いた紙できゅうりを包み、祈祷後家に持ち帰り、庭に埋める順だが、
近年マンションが増え、埋める所の無い人も多い。
その人はこのキュウリ塚に収める。
眼病にお悩みの方、そして厄病・厄除けのご祈祷を受けたい方は神光院を訪れてみてはいかがでしょう。

境内奥にある「本堂」。
こちらは上賀茂神社の一宇を再興したものどして、「弘法大師自作」と言われる自像が安置されとるということです。
この時期緑がひときわ目に染みる。

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神光院へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市北区西賀茂神光院町120
電話:075-491-4375
市バス 1、9、快速9、37系統「神光院前」より徒歩2分