多賀城跡(政庁跡)

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奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。

創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。
8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。

建武新政期と南北朝時代初期、多賀城には陸奥将軍府が置かれた。

奥州将軍府は、多賀城の陥落後、将軍府の中心的武将、伊達行朝の所領である伊達郡の霊山に移転した。

多賀城跡(政庁跡)模型。
11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年(承徳元年)にも陸奥国府が焼失している。

国府多賀城にある後村上天皇御座之処碑
義良(のりなが)親王(後村上天皇)は、後醍醐天皇の第8皇子で、陸奥守北畠顕家と共に元弘3年(1333)に北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に多賀国府へ下向しました。

この時、顕家卿(16歳)、義良親王(6歳)、即位は後醍醐天皇が崩ずる前日のわずか11歳での即位です。

多賀城遺構として確認されているのは政庁跡、築地跡、門、土塁、空堀である。

多賀城の南北大路の階段である。
多賀城の中枢部である政庁から外郭南門へまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道であった。

そして、政庁の南側斜面は、自然石を並べた階段が設けられ、道路には排水用の暗渠も設置されていた。

多賀城碑
当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。

書道史の上から、那須国造碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。
1998年(平成10年)6月、国の重要文化財に指定された。

〈壺の碑(つぼのいしぶみ)〉ともいう。

松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。

碑文には、「京・蝦夷国・常陸国・下野国・靺鞨国(まつかつのくに:中国東北部)から多賀城までの距離。」

と「神亀元年(724)に大野東人(おおののあずまびと)によって設置され、藤原朝狩(ふじわらのあさかり)によって修造された。」

ことと、碑が建立された日(天平宝字六年十二月一日)が書かれているんだそうです。

多賀城碑の傍らに建つ芭蕉句碑。
あやめ草足に結ん草鞋の緒

隣のあやめ園ではあやめ祭りが。

多賀城跡の一角にある。2万平方mの敷地に、250種約200万本のアヤメやハナショウブなどの花が咲き乱れている。

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多賀城跡へのアクセス、行き方歩き方

お問合せ:史都多賀城観光案内所 022-364-5901

JR国府多賀城駅から徒歩10分

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