古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場 宇陀陣屋

宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのに始まる。
築城時期についてはわかっていないが、南北朝時代には構えられていたと思われる。

また、城名は秋山氏が居城としていた頃は松山城とは呼ばれず、秋山城と呼ばれていた。

元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給した。

城下町としての機能を失っても、「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。

西口関門は福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和6年に国の史跡に指定された。

宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には枡形がある。
町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。

説明板には名称として「史跡 旧松山城 西口門」とある。
西口関門より、こっちのほうが良い。
旧位置のまま現存する城下町の門としては珍しいという。

こちらが春日神社の参道入口。
薬の館 の少し北。

当地を探訪する観光客は、ほとんど町並み散策が主で、松山城へ登城する人は少ないという。

しばらく進むと、右側に大きな櫓台が見えてくる。

櫓台は左右にあり、その中央に緩やかな石段。
見るからに大手門という感じ。

この石垣は旧 春日門の跡、説明板が建っている。
調査の結果、先ほどの石垣は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の築造。

門自体は16世紀末つまり福島氏の入城前後に建てられたようだ。

境内入口に杉の巨木があり、高さ約7mほどの所から、山桜が寄生したように育っており、「羽衣桜」と呼ばれています。

春日門跡を越えると、石鳥居に続く参道へ。
春日門の上は武家屋敷だったとあるので、武家屋敷跡にそのまま家が建っているのかもしれない。

史跡 宇陀松山城跡 ← という石碑を目印に神社横の道から山城へ向かう。

この辺りは標高も高く先日来の雪が残る。

途中、秋山城跡 ← と書いてあるが、大和国に豊臣秀長が入る前、この城は秋山氏が支配しており、その頃は秋山城と呼ばれていた。

天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。
以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、改修が行われ近世城郭へと移行した。

この間の大規模な改修により、宇陀松山城が大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として豊臣政権に認識されていたことが伺える。

城跡に近づくと、大きな横堀が見えてくる。
右上は御加番曲輪だが、この横堀が掘ってあるとさすがに登れない。

ちなみに御加番とは、正規の守備隊に加勢して守備に当たる部隊のことを指す。

巨大横堀を越えると、緩やかな石段が見えてくる。
ここからが圧巻の連続食い違い虎口。

福島氏改易後に破城されているため石垣は下部しか残っていないが、それでも発掘調査により出てきた石垣が見え、この迫力!
往時は右に左に曲がりくねった大手口だったのだろうか。

元和元年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、高晴は改易され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。

破却の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目される。

奥の一段高くなっているところが天守台。
木がきれいに伐採してあって、非常に見晴らしが良い。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城した。

高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに大規模な改修を行った。
近年の発掘調査により、本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってきている。

これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と呼ばれるようになったと考えられる。

天守台の一番置くには石垣が積まれた一段高いところがあり、そこには白髭大明神が鎮座していた。

景観資産になっている宇陀松山城本丸跡からの眺め。
左の雪をかぶった山々が大峰山脈か。

木が伐採されており非常に見晴らしがよい本丸付近。
景観資産を謳うだけのことはある、木が繁り眺望の利かない城址が多いが、見習うべし。

下山に架かる、この辺りは武家屋敷が立ち並んでいただろう。

下山後、春日神社参拝。
ご祭神、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売大神。
由緒は詳かでない。

春日神社。奥には石垣で一段高くなったところに赤い本殿が見える。
まるで城だ。

五輪塔地輪を使った水鉢
本地輪は鎌倉時代の形態をよく示しており、水輪以上が失われているが、復元すると高さ約180cm前後の大きな塔になる。

絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て、いったん春日神社へ入る。
そして、神社から再び城へ向かう構造をとる。
つまり、この時代の春日神社は城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。

境内に残る杉の巨木の切り株から若い木が育つ。

灯籠の後ろの霊宝石の由来
宇陀旧事記に「春日神社には天児屋根命を祀り阿貴山の峰に神楽石麓に天の瓊矛《ヌボコ》と称する長さ拾余石の霊宝石あり」と揚げられている。
恐らく古代祭祀用に供せられた神聖なる霊石と考証される ~立て札より~

本殿の南には、2本の合体した杉をご神木として「木の神」を祀る伊太祁曽神社がある。

この神は紀州に坐して木の種を筑紫より始めて我が国全土に播種植林せされ給うたのであります
歳月を経るに従い、国内は緑の山を成し、遂に山青く水清き森林美となる根源を培養せられたことにより神代の昔から「木の神」と称えられ農林殖産、特に木材関係者の尊崇するところであります。

平成五年九月五日紀伊国伊太祁曽神社より御分霊鎮座 ~立て札より~

手水舎横に、空洞があります。
説明によると、城への抜け穴であったのではないか?と書かれています。

とても、人が入れそうなスペースではありませんが、こういう穴があれば、おもわずそう考えてしまう気持ちもわからなくもないが。

城下町は重要伝統的建造物群保存地区に商家町として選定されており、現在も優美な町並みを残している。

国道166号線の東に南北約1kmにわたり続く町並み(古家約130戸)

昔から宇陀を代表する銘菓「きみごろも」

溶けかかった軒の雪も落下寸前!!

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宇陀松山地区へのアクセス、行き方歩き方

近鉄大阪線榛原駅下車
奈良交通「大宇陀」行き約15分