南海の名城、高知城

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高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。
山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。
別名、鷹城(たかじょう)。
本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。

追手門
高知城の表門。
石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。
門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。

山内一豊像
土佐藩の初代藩主山内一豊の銅像は、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日を卜して再建除幕されたもの。

板垣退助像
板垣退助は自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となった。

杉の段にある山内一豊の妻像。

三の丸は、慶長6年の築城開始から10年を要して最後に完成した。
面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。
石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。

また、三の丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三の丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。

杉ノ段から右手に石段を上ると鉄門跡がありさらに二の丸、本丸へと続く。

詰門前から天守を望む。
詰門は本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。
門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。

一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。
現在の呼称はここからきているものである。

忍び返しの鉄串は名古屋城、熊本城にも見られるが現存するのは高知城のみ。

本丸御殿入り口、 天守に隣接して造られている。
築城された当初、二の丸御殿ができるまで、山内一豊と見性院が暮していた。
掛川城とよく似ている。

天守より詰門・廊下門・東多聞を望む。

天守より見える鉄門
門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから、こう呼ばれたという。
三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にある。

門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法により堅固な石垣が築かれている。
門内は小枡形になっており、石垣の上から攻撃できるようになっている。

本丸御殿内部。

江戸時代の日時計、中央の線が12時を指す。

鉄門と犬走り。

犬走りから三の丸へ向かう。

山内神社西神門。

山内神社(やまうちじんじゃ)は、高知県高知市にある神社。
土佐藩初代藩主山内一豊、同夫人、および土佐藩歴代藩主を祀る。

盃を片手に容堂公。
酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。

藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。

文化三年(1806)、高知城内の旧野中兼山邸跡(現高知県立図書館・文学館)に、藩祖一豊・夫人見性院・二代藩主忠義を祭神とする藤並神社が建立された。
創建当時の神号は明神でしたが、天保六年(1835)には大明神に昇格し、これを祝って翌天保七年に国をあげての大祭が行われました。

この大祭にあたって、藤並神社の御旅所がこの地に設けられ、領内各町・村・浦からの寄進物の奉納も許可された。
この手水鉢は、大祭にあたって吾川郡秋山村(現春野町)から寄進されたもの。

山内神社の側を流れる鏡川、夕闇が迫っている。

高知自動車道、南国を過ぎたあたりで夕日を迎える。
大阪はまだ遠い。

淡路SAでトイレ休憩、もう8時前だ。

酒と女と詩を愛した山内容堂。
容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。
幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言した。
容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白した。

これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に大政奉還した。
しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。
同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。

容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した。

また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したことに対して、徳川氏を中心とする列侯会議の政府を要求した。

松平春嶽が同調したが、ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖があり、その上に酒乱状態の容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」などと発言してしまった。

堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されてしまったが、泥酔状態の容堂にまともな返答ができるはずもなく、会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派すなわち討幕強行派のペースで進んだ。

慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽。伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。
しかし、京都の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加。

同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを谷干城から報告を受けた土佐に在国中の板垣退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した。
容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する板垣率いる土佐迅衝隊に寒いので自愛するよう言葉を与えた。

隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。
また、連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。
俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという。

また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいう。
明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。(Wikipedia)


酔って候

司馬遼太郎著「酔って候」
幕末の混迷期、なす術を知らない三百諸侯のなかで、自らの才質をたのみ、また世間の期待を集めた「賢侯」たち。

かれら土佐の山内容堂、薩摩の島津久光、伊予宇和島の伊達宗城、肥前の鍋島閑叟は「藩主なるがゆえに歴史の風当りをもっともはげしく受け、それを受けることによって痛烈な喜劇を演じさせられた」。

高知城へのアクセス、行き方歩き方

高知城公式サイト

〒780-0850
高知市丸の内1丁目2番1号
TEL 088-824-5701
FAX 088-824-9931
路面電車(土佐電気鉄道伊野線)高知城前駅(最寄り駅)下車、徒歩約5分
JR四国土讃線高知駅から 徒歩約25分
バス約10分
高知城前駅まで路面電車で約10分、下車後徒歩約5分

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