南朝の里 賀名生梅林散策

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奈良には「三大梅林」というのがある。
「賀名生(あのう)梅林(2万本)」「月ヶ瀬梅林(1万本)」「広橋梅林(5千本)」となり、賀名生梅林は奈良県下でナンバーワンの梅林です。

また、梅林入口付近には、南朝の行在所だったといわれる賀名生皇居跡(堀家住宅)(重要文化財)がある。

標高200mから500mにかけての丘陵北面は霞か雲か、一面の梅花に覆われその数2万本、山腹に点在する民家とあいまって壮観だ。

五條市西吉野町には約30haの梅林があります。
この辺りは一目万本と言われる。

早春の陽光を浴びて、純白や淡い紅色の2万本もの梅花が咲き、雲海のような幻想的な風景が広がります。

北曾木の丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が続きます。

見返り1000本、東雲1000本、奥の千本と景勝ポイントを巡ります。

梅林の“中心部”にある「教蓮寺」が梅の間から見えます。
1500年の建立だとか。

西の1000本辺り、弁当を広げる人たちも見受けられる。

道端でミツマタの花を見つけた、この時期黄色い見事な花姿を見せてくれる。

賀名生梅林も山にあるので山岳の景色との兼ね合いがとても綺麗で心和ませる。

賀名生の地名縁起

南朝こそ正統でありたいと願う後村上天皇は、かつては「穴生(あなふ)」と呼ばれていたこの地に夢現実の願いを込めて「叶名生(かなふ)」と名付けました。

その後、正平6年(1351年)には足利氏が南朝に帰順し、また多くの公卿や殿上からの賛同を得た事より願いが叶ったという喜びを記して、再度この地の名前を名付け改める勅書を下されました。
それが、「賀名生(あのう)」縁起です。

遙か延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏の軍勢によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に西吉野に立ち寄られました。
天皇を手厚くもてなした郷土「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上天皇、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。

藁葺屋根の素朴な屋敷の前に建つ重厚な冠木門には、倒幕の志士天誅組吉村寅太郎の筆による「賀名生皇居」の扁額が掲げられています。

少し離れた場所から住宅を見る、現在も子孫が生活され、春と秋に有料で一般公開される、予約制。

・・・1336年、足利尊氏によって都を追われた後醍醐天皇は吉野への途中、賀名生に立ち寄り、郷士、堀氏の邸宅に迎えられた。
その後、1348年、後村上天皇が吉野から難を逃れ、この地にお遷りになり、長慶天皇、後亀山天皇と三代にわたって皇居となった。・・・

南朝の精神的支柱であった忠臣、北畠親房さんのお墓へ。
ちょっと歩きます。

北畠さんのお墓への階段の左には、「南朝三帝賀名生皇居址」の碑。

北畠親房さんといえば「神皇正統記」。
南朝の正統性をきちんと記した方。
お墓の前の左右の献燈には「忠烈無比」、「神皇正統」と彫られています。
 
正平9年・文和3年(1354)、賀名生の地で死去したとされます。

玉垣に囲まれた円墳の上に五輪塔が立っています。
墓は終焉の地賀名生にあるが、阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に顕家と共に祀られている。
また、室生寺にも親房のものと伝えられる墓がある。

親房墓の横に「二百十人塚」が有ります
延元~正平の頃(14世紀中頃)、宇智・吉野更に四条畷にまで敢然と起って戦い壮烈な最期をとげた郷土の忠臣二百十人の忠魂碑です。
延徳3年(1491)、西俊・珍阿の両名が本願となりこの石塔を建て供養したと伝わります。
古くからから「二百十人塚」と呼ばれ、語り伝えられる。

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賀名生梅林へのアクセス、行き方歩き方

奈良県五條市西吉野町北曽木
問合せ 0747-33-0301/五條市役所西吉野支所地域振興課

JR五条駅→奈良交通バス十津川方面行きで25分、バス停:賀名生和田北口下車、徒歩3分