南北朝、戦国争乱の城と恋物語 金ヶ崎城址

金ヶ崎城は敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城である。
治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
ここ金ヶ崎は大きな二つの戦闘の舞台となっている。
南北朝の争乱と織田信長と朝倉義景との戦闘だ。

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は1570年(元亀元年戦国時代)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退である。

撤退するにあたって、信長は金ヶ崎城に木下秀吉を入れておくことにした。
通説ではこの時、秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、『武家雲箋』などによると、殿軍には他に摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残る。
また、「寛永諸家系図伝」「徳川実紀」などでは徳川家康もこれらに加わったとしているが、一次史料には家康の名は見られない。

信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。
京への到着は4月30日(6月3日)。
信長の供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。
池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。
信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。

なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと『朝倉記』にはある。

また金ヶ崎の戦いの本質は、将軍足利義昭が企画したもので、朝倉氏が拉致軟禁していた武田元明の救出が目的であったとの説もある。
それによると元明が救出された時点で金ヶ崎の戦いは目的が達成され、織田軍は撤退を始めたとする。

金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。

明治30年、金ヶ崎城ゆかりの南朝方武将を祀って、金ヶ崎宮摂社絹掛神社として創建された。
鳥居の前には鎮魂之碑が建てられています。
祭神は、南朝方武将の藤原行房、新田義顕、気比氏治、気比斎晴、瓜生保、瓜生義鑑、里見時成、里見義氏、由良具滋、長浜顕寛、武田與一、以下殉難将士。

京を逃れて吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇は、恒良,尊良親王と新田義貞を越前に派兵。
建武3年(1336)10月南朝方は金ヶ崎城に拠ったが、延元2年(1337)3月足利勢に包囲されついに落城。
後醍醐天皇の第二皇子尊良親王と新田義顕は金前寺の観音堂にて自害。
 
金ヶ崎城を脱出した新田義貞は瓜生保と共に杣山城に拠り再度奪還するが、足利勢に攻められ敗走した。

1336年(延元元年/建武3年10月13日、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。
翌1337年(延元2年/建武4年2月5日)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直す。
2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。
3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。
尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する。

1338年(延元3年/暦応元年)4月(旧暦)には越前の軍事的主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。

金ヶ崎城跡にある南北朝時代の金ヶ崎の戦いの古戦場碑。

明治42年6月には古墳が発見されている。

『月見御殿』
尊良、恒良親王以下の武将が管絃の船を浮かべて紅葉を愛で月を賞したという。

月見御殿跡から下を見下ろすとまさに断崖絶壁。

標高86mの金ヶ崎城、眺望が良い。天候がよければ遠く越前海岸まで見える。
春は桜が綺麗。

月見御殿から海を見ると、敦賀火力発電所が目に飛び込んできます。
広々とした発電所に黒々と光るものが。
なんと、ここは石炭で発電されている珍しい火力発電所です。
黒く見えているのが石炭です。
日本全国に火力発電所は約180箇所ありますが、ほとんどは重油やLNG(天然ガス)を燃料として使っていて、約5パーセントの発電所でだけ石炭が使われています。

尾根伝いに手筒山方向に向かう。
すると堀切が見えてきた。
ここが三の木戸である。

「水の手」と呼ぶ削平地があるが、炭化した米が発見されたそうだ。
朝倉勢の兵糧庫があり、信長との戦いで焼けたそうな。

そこからさらに進んだところにある二の木戸。
やはり堀切である。
ここは激戦となったところ。

二の木戸から30mほど進んだところに一の木戸がある。
ここから先は手筒山への登山道になるようで、これが城の入口であったのだろう。

丁度金ヶ崎宮で花換祭が行われていたが、「花換祭」の由来は、男女交際のきっかけがあまりなかった明治40年代、桜見物に訪れた男女が「花換えましょう」と声を掛け合い、互いの『桜の小枝』を交換して思いを確かめ合ったという言い伝えが伝承されているとか。

殿横の館では、参拝者が恋などの願いや思いを『桜の小枝』に託し、参拝者と福娘とが『桜の小枝』を交換するロマンティックな光景も。

さらに友達同士、家族同士、カップル同士などでも交換すると、『桜の小枝』により幸せが宿るといわれています。
花換えをしたカップルは将来幸せに恵まれるともいわれていることから、多くの若者も訪れています。

福娘と交換したら友達同士・家族同士・カップルまた見知らぬ者同士でも交換していくところがポイントです。
『桜の小枝』は交換するほど幸せが宿るといわれ、幸せが宿った『桜の小枝』は持ち帰り、玄関先や神棚などに飾ろう。

芭蕉翁鐘塚
1690年8月江戸時代の俳人 松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた。
芭蕉は敦賀での仲秋の名月を楽しみにしており、いくつかの月の句を詠んでいる。
月清し遊行のもてる砂の上     名月や北国日和定なき

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金ヶ崎城址へのアクセス、行き方歩き方
住所:敦賀市金ヶ崎町1-1
問い合わせ:金崎宮社務所(0770-22-0938)
JR小浜線 「敦賀駅」下車 徒歩29分
「港町バス停」下車 徒歩9分
「セメント前バス停」下車 徒歩10分
「北小学校前バス停」下車 徒歩13分