初秋の飛鳥路散策

初秋とはいえ日中はまだ暑い。
初秋の飛鳥散策としゃれ込んではみたが、日中はやはり暑い。

先ず高松塚壁画館を目指す。
のどかな風景に心洗われる。

高松塚壁画館は高松塚古墳より発見された石槨内部の模型と、永久保存が図られている高松塚古墳の出土品(模造)や壁画の模写を展示している。
館内は撮影禁止につき画像はありません。

すぐそばにある高松塚古墳。
発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことだという。

修理中の2008年11月25日に顔料分析中、東壁女子群像の顔料部分を機材で損傷する事故を起こしている。

その後は保存施設の撤去と共に発掘調査に基づく形状の復元工事が行われ、2009年10月24日から一般公開された。
墳丘の角度が急であるため、植垣と柵で囲まれており、立ち入りはできないようになっている。

これからキトラ古墳を目指す。
彼岸花は盛りを過ぎほとんどが枯死している。

食欲の秋、サギも餌を狙っている。

柿がたわわに実り、秋を感じさせる。

里では何の煙か、優雅に田園に煙がたなびく。

橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。
田圃はすでに稲の収穫は終わっていた。

キトラ古墳に到着、なんと家屋が古墳にめり込んでいる、と勘違いした。

何のことはない、キトラ古墳壁画がはぎ取られた後、南側に「仮設保護覆屋」が建設されているんです。
墳丘はカバーに覆われており見学は出来ない。

文武天皇陵
文武天皇は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのうえのみささぎ)に葬られた。

現在は宮内庁により奈良県明日香村栗原にある栗原塚穴古墳が陵墓に指定されているが、八角墳であり横口式石槨を持つ同村平田の中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力である。

先ほど訪れた高松塚古墳遠景。

珍しい白い彼岸花が咲いている。

畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。

両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。

元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。

「鬼の俎」

亀石は言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。

亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。

亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。
そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。

石舞台古墳の被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。

『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。
封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。

ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。
また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張している。

ちなみに石舞台古墳には30数個の岩が使われ、その総重量は2300トンとのことだ。
特に天井石は北側が約64トン、南側が約77トンと推定され、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわせる。

地底に吸い込まれそうな羨道入り口。

正面の石に「馬子墓」の文字が刻まれて要るとのことだが!!????

発掘調査では、石棺は発見できなかったが、石室から平らに加工した凝灰岩の破片が見つかっている。
調査の成果と飛鳥時代の古墳の知見を基にして復元された石棺が、外堤の一画に展示されている。

古墳の傍らに石舞台古墳の説明があり、石舞台造営の様子の想像図がしめされている。
中々面白い説明だ。

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