信長天下統一への夢の始まり 小牧山城

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永禄3年(1560)、桶狭間で今川義元を討った信長は、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃の斉藤道三を次の攻略対象としました。
そして永禄6年(1563)、信長は頂上から美濃方面を一望でる小牧山に城を築き、清州から居城を映しました。

以前は小牧山城が築城後わずか4年で廃城となったことから美濃攻めのための一時的な砦としか考えられていませんでしたが、近年の発掘調査によって小牧山に多数の曲輪や石垣が見つかり、本格的な城が築かれたことが確認されました。
また、小牧山南部には南北1.3㎞、東西1㎞にわたる城下町を築いた形跡も見つかっています。

小牧市役所の脇に大手道があり、ここから頂上を目指す。
織田信長は、小牧山の山頂から麓まで塁濠をつくり、要所に重臣の館を置き、南側に大手道を開いたという。

山頂まで登る間には、幾つも曲輪や石塁があり、また麓には空掘が残るなど十分に楽しめる城である。

頂上には天守閣の代わりに小牧山歴史館が建つ。
安土桃山時代の聚楽第の「飛雲閣」をモデルとしたものです。

徳川義親公の銅像です。
小牧山は、明治維新後も尾張徳川家の所有地でしたが、1927年(昭和2年)に、徳川義親公により国に寄附されました。
植物学者としては、昭和天皇の兄弟弟子でした。

長久手合戦図屏風
1584年4月9日、池田恒興(つねおき)・森長可(ながよし)軍を家康軍が撃破した戦いを描いています。
1584年(天正12年)、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。

この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、「城」とみなせるほど強固な陣地が築かれた。
秀吉の大軍も容易に手が出せず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。

急造「小牧山城」は、徳川勝利の一翼を担ったことになる。
戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。
秀吉は、部下池田信輝の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ、家康自ら秀吉軍を急進撃します。
このあと、戦況は膠着状態となりますが、秀吉と信雄の講和によって家康も撤収し、長期におよんだ戦いは終わりました

歴史館の最上階から南を眺めると名古屋のビル街、小牧飛行場が見える。

山頂、小牧城の脇に建てられた御野立聖蹟の石碑。
大きく重厚な運筆です。

小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある標高86mの山。
平野の真中にある為、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができる。
山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートル。

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小牧山城へのアクセス、行き方歩き方

小牧市堀の内一丁目地内
名鉄小牧線小牧駅よりバスで小牧市役所前下車。
または小牧駅から徒歩20分。
山頂まで徒歩15分。

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