信長も手本にした戦国最大級の巨大山城 観音寺城

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標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。
南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。

総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。
天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。

周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

繖山は御神体山で観音正寺の裏参道(車道が此処まで 通じている)へ進む、奥の院があり登り口には”ねずみ岩”の奇岩・大岩を見て急斜面に積まれた自然石の石段を登る。

観音正寺仁王像。

観音正寺境内からの眺望。

観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

食い違い虎口跡。

山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。

平井丸は、標高375メートルで面積は約1700平方メートル、平井氏の居館があったのではないかと思われている。
観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。

その中で特徴的なのが、高さ3.8メートル、長さ32メートルにも及ぶ虎口跡があり、2メートル以上の石も使用されている。

この平井氏は観音城主佐々木六角氏の重臣で6家老、即ち、平井加賀守定武・後藤但馬守賢・進藤山城守貞冶・目加田摂津守清綱・蒲生兵衛太夫賢秀・三雲三郎左衛門の一人である。

この平井加賀守定武の娘は小谷城主浅井長政の妻として小谷城にこし入れしていたが、その後政略により長政は織田信長のお市と結婚することになり、平井氏の娘は送り返されたことはよく話に出てくる。

池田丸は標高365メートル、面積は約2700平方メートルで、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。
またこの曲輪は南曲輪と北曲輪にわけられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

面積は約2000㎡と本丸1950㎡より少し広い。
ここでの礎石はほとんど整然と残っているので建物の規模と輪郭を推測することは可能と されている。
池田氏は佐々木家の旗頭・七手組.魁(さきがけ)として代々武功をあらわした名高い家柄である。
本家は甲賀郡池田家であるが、分家の蒲生郡池田家が圧倒的に勢力をもちここに郭を有している。

平井丸と落合丸の間の通路。
なかなかにいい感じです。
落合丸は、3つのに区画されている小さな曲輪です。

観音寺山の標高は440m、この本丸は標高395mで面積1950㎡である。
どんな建物が建っていたのか資料は全くない。

すでに絶版しているが弘文堂書店が1979年に出していた「まぼろしの観音寺城」第1巻に縄張り図が掲載されている。
といっても、現在の登山道が記載されていないので、この最大級山城では迷う可能性が少々。

史跡観音寺城跡発掘調査現地説明会資料が、縄張りと山道の両方が記載されているので良い。
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課サイトでPDFでダウンロードできる。

ただ、説明会用資料のためすべての山道が明確に記載されるいる訳ではなく、観音正寺の東側の大目付付近や淡路丸は記載されていない。
また、繖山の三角点からの山道はPDF中央上の「澤田」邸から下る点線部分と覚えておこう!現地では、安土考古学博物館に城跡鳥瞰模型がある。

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観音寺城へのアクセス、行き方歩き方

JR西日本琵琶湖線安土駅
安土駅→徒歩約40分→桑実寺→徒歩約30分→観音寺城本丸跡地

登山はちょっと、という人はタクシー利用で。
安土駅前にはタクシーもあるが常に常駐するほどではない。
予約を入れておけば別だが、そうでない場合はとなりのJR近江八幡駅から乗車すると良いかも。
五個荘側の山頂付近の観音正寺の駐車場まで約25分(約3,500円)の距離。
駐車場から徒歩10分で観音正寺。
このルートを川並口筋という。

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