世界三大夕日の街釧路を散策

世界三大夕日は、「フィリピン・マニラ」 「インドネシア・バリ島」 「北海道・釧路」
釧路の場合は、海だけでなく「湿原」の水蒸気もプラスされ、より赤く見える要素が多い。

ホテルについたのが日没時間の10分前、走りに走ってやっと間に合った。
幣舞橋からの日没のショットです。

やっと間に合ったところで構図を考える余裕も何もない。
とりあえず日本初の橋上彫刻「四季の像」の一つを入れることでまず1枚。

丁度この日は中秋の名月、夕日がおさまった後で「四季の像」の一つを入れて満月を一枚。

翌朝5時前に幣舞橋の上から夜明け前の釧路川とイカ釣り船を。

釧路川にずらりと並ぶイカ釣り船。

幣舞橋の上流の朝焼けの釧路川を。

幣舞橋と言えば、札幌-豊平橋、旭川-旭橋と共に北海道の三大名橋と呼ばれています。
日本百名橋の一つでもある。
橋上には春・夏・秋・冬を表現する「四季の像」を配し、エキゾチックな香りを漂わせています。

晩秋の広い太平洋を背景に空全体を紅に染める夕陽、夏の薄らと白い霧中に浮かぶ橋影と街路灯はまさに日本ではここでしか見られない幻想的な風景です。

幣舞橋のたもとに建てられた「釧路の夜」歌碑、前に立つと美川さんの唄が流れます。

♪霧は降る降る 今日も又
  一人歩きの ヌサマイ橋よ
  船の汽笛も 泣いている
  女心も 知らないで
  貴方がにくい 貴方がにくい♪


橋をはさんだ向かいのMOOには水森かおりさんの「釧路湿原」の歌碑が建っています。

バス停も釧路を代表する丹頂鶴です。

「釧路駅前 SL動輪のモニュメント」

JR釧路駅前広場に1本のイチイの木がそびえ立ち,その前には「風雪の樹」と刻された石碑が建てられています。

釧路駅付近の大木は,この木しかないためか秋にはツグミが根城にしており野鳥の保護にも貢献しているようです。

幣舞橋の橋上彫刻「四季の像」がシルエットで。

幸町公園に保存されているC58です。
車体は白線など派手な装飾がされていますが、屋根付きで大切に保存されています。

C58-106号機は釧路で過ごした期間が最も長く、お召し列車やSLさよなら列車も牽引した釧路に縁の深い機関車です。

幸町公園はJR釧路駅から500mほどの場所にあり、近くには和商市場やこども遊学館などがあります。

港文館前に建つ啄木の像を朝焼けのシルエットで。

石川啄木は明治41年1月21日に釧路に降り立ち、同年4月5日に釧路を発ちました。
わずか76日間という短い滞在でしたが、その間に啄木は釧路に数々の作品を残しました。

釧路停車場跡に立っていたものを港文館横へ移設した。
台座には、恋人の小奴の手による「さいはての~」の歌が刻まれた石板がはられている。

歌人石川啄木が新聞記者として活躍した旧釧路新聞社は、1908年(明治41年)に建てられた道東唯一のレンガ造りでした。
1942年(昭和17年)以降は北海道新聞釧路支社として使われ、後にとり壊されました。

1993年(平成5年)に復元された港文館の1階は休憩スペースと港湾資料の展示。
2階は釧路新聞社の記者だった石川啄木直筆の年賀状や郷土資料の展示など、休憩しながら啄木の変遷や釧路の港湾史・郷土史にふれることができます。

歩道はカラーブロックが敷き詰められていますが、一部のブロックは石川啄木の歌が切り絵で描かれているブロックになっています。

さいはての駅に下り立ち 
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき


明治41年、小樽から釧路の新聞社に招かれたのが「流浪の天才詩人」石川啄木。

「さいはての 駅に降り立」ってから下宿へ向かう途中に渡った真冬の幣舞橋は、倒壊直前の初代幣舞橋でした。

啄木の釧路滞在はわずかに3ヶ月足らずでしたが、釧路新聞(現在の北海道新聞)のコラムに掲載された「傾きかけしあやふさに・・・・」で始まる幣舞橋の詩は、彼が作者ではないかと言われています。

釧路市街地にはたくさんの啄木歌碑が建立されています。
啄木の詩集片手に、至高の文学散策はいかがですか。

小奴碑
明治四十一年日誌

2月22日
“釧路実業新報”の創刊祝いで鶤寅へ。
小蝶に小奴に春吉、小奴のカッポレは見事であった。

2月24日
鶤寅亭へ飲みにゆく。
 小奴が来た。
 散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行つた。
小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持のよい女だ。

 (啄木日記)

啄木が東京に行ってからの1908年(明治41)12月1日、小奴は前月結婚した夫・逸身豊之輔と上京し啄木を蓋平館に訪ねた。

後年、母の経営していた近江屋旅館を継承し、近江ジンと名を改めた。
この碑は、近江屋旅館のあった場所に建てられた。近江屋旅館は昭和37年11月に閉めた。
1890年(明治23)生まれの小奴は、1965年(昭和40)2月17日、東京多摩の老人ホームで亡くなった。享年 74歳。

碑文

明治四十一年一月二十一日石川啄木妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

 あはれかの国のはてにて
 酒のみき
 かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

 小奴といひし女の
 やはらかき
 耳朶なども忘れがたかり

 舞へといへば立ちて舞ひにき
 おのづから
 悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴また啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり
七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす
             昭和四十一年十一月

 

所在地 釧路市南大通り3-2
建立  1966年(昭和41)11月27日

北の海鯨追ふ子等大いなる流氷来るをみては喜ぶ

 所在地 釧路市南大通2-2
 建立  1994年(平成6)1月31日

小奴の碑から200mくらい進んだ左手に「啄木ゆめ公園」があり、交差点を右に曲がると左に釧路シーサイドホテルがある。

啄木が下宿していたのがこのあたりで、シーサイドホテルの角に歌碑がある。

こほりたるインクの罎を 火に翳し 涙ながれぬともしびの下

釧路川を渡る幣舞橋を越えるとロータリーがあり、そのすぐそばに急こう配の階段がある。
坂の上には幣舞公園や図書館、生涯学習センターなどがある。
ちょっと雰囲気のある坂道で、「出世坂」という石の看板があった。

大正二年に旧釧路中学校が開設され、この急坂を登る学生の立身出世を願い命名されたという。
きっと、こうした名前がついた坂は日本中にあるに違いない。
なにしろ日本人は「出世」という言葉が大好きだからである。

釧路和商市場
1954年に結成された釧路で最も歴史ある市場で、「わっしょい、わっしょい」という活気あふれる掛け声と、「和して商う」ことから名付づけられた。

鮮魚をはじめカニ、塩干(えんかん)、青果、花、薬、そば、珍味、菓子、漬物、食品、精肉、茶、雑貨、寿司など百店舗近くが店を並べている。
また、ご飯にお気に入りの魚介類を買って載せ、自分好みの海鮮丼を作って行く勝手丼のサービスでも有名。

くろしお丹頂市場は和商市場のとなりにあります。
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