三八城公園に残る 八戸城跡

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ホテルへチェックイン後、夕食までのわずかな時間を利用して、市内に残る八戸城跡の探索に出かけた。

八戸城は、現在の八戸市内丸に位置し、八戸南部氏が拠点としていた八戸根城とは全く別個の城郭である。

既に夕闇は迫っている。

1644年(正保元年)、南部氏第28代の重直が盛岡で没するが、嗣子がいなかったためにその遺領10万石は、盛岡8万石と八戸2万石に分封され、盛岡は重直の弟である重信が継ぎ、八戸は末弟の直房が領主となった。

早速直房は築城をして1666年(寛文6年)ごろに八戸城が完成した。

豊臣家に縁深い清正の加藤家や福島家が容赦なく取りつぶされたことから考えると、江戸幕府も南部家に対しては多少なりとも可愛げのようなものを感じていたのか、その処遇は天と地ほどの違いである。

三八城とは三戸郡八戸城という意味であり、明治の廃城令で破壊された。
現在は、三八城(ミヤギ)公園として整備され、市民の散策地になっている。

三八城神社
城跡の三八城公園には藩祖南部直房、甲斐源氏の祖新羅三郎義光、南部氏の祖である南部光行の3人を祭る三八城神社がある。

弁慶石
石の所々が人間の大きな足跡のように見えるため、「武蔵坊弁慶が足跡を残した」という伝承があるという。

弁慶石の説明と義経北行伝説

ここ八戸は、義経が平泉から逃れ、たどり着いたと言われる地。
1189年、歴史上、奥州平泉で最期を遂げた義経は、実のところ、自害することなく密かに平泉を脱出。

「けせん」(陸前高田市)の湊から船に乗り、三陸海岸を北上し八戸へ上陸。
追手から逃れるため、更なる北の隠れ家をめざし北海道へ渡ったと言われている。
今もなお八戸の各所には、義経伝説が残されている。

本丸跡
三八城公園となっている。

本丸跡碑

三八城公園に建つ
八戸藩初代藩主・南部直房公像

本丸南西側にある櫓台状の部分から八戸市街を望む

公園の北側にJR本八戸駅があるが、公園から駅側は地面ががくんと落ち込んでおり、八戸の城下町は台上にあったことがわかる。

この公園から八戸の街がよく見渡せる。

角御殿表門

現在南部会館のあるこの地には、寛政年間(1789~1801)には角御殿(すみごてん)と呼ばれた建物が存在していた。

寛政4年(1792)、煙山治部右衛門が居住し、城門を建築するように命じられて同9年に建てられた表門である。

昭和53年(1978)に風雪被害で倒壊し、同55年に復原された。

門は棟門と呼ばれる構造形式で、通常二本の柱の上部を冠木で繋ぐところを、この門は4本の柱を用いた大規模なものであった。

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八戸城跡へのアクセス、行き方歩き方

住所:八戸市内丸1-3
電話: 0178-43-2111 青森県八戸市内丸一丁目1番1号 八戸市教育委員会文化財

本八戸駅から徒歩で5分