さまざまな石垣が残る徳川将軍が座す天下一の城 江戸城

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江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城。
近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

間近に見える唯一の櫓、辰巳櫓、巽櫓などとも書きます。
方角の「辰巳」(東南)にあるのでこう呼ばれています。

正式には「桜田二重櫓」といいます。

写真の左奥にあるのが桔梗門です。
右手に進むと大手門です。

櫓の左の壁に出窓のようなものが見えます。
「石落とし」ですね。
出窓の下の部分には隙間があり、登ってくる敵に石を落とすために作られました。

江戸城の大手門。
大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門で、枡形門形式の門となっている。
元和6年(1620年)、外様大名の伊達政宗等の外様大名の御手伝普請で築造されたものであった。

明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失し、現在のものは昭和42年に復元されたものである。
現在は、この門の中の、本丸、二のノ丸、三の丸跡が整備され、皇居東御苑として公開されている。左の堀は桔梗濠である。

大手門は 高麗門と渡櫓門で構成された桝形門になっています

大手門の渡櫓 (わたりやぐら) の屋根で、睨みをきかせていた鯱 (しゃち) です。
江戸中を焼き尽くした明暦の大火 (1657年) で前のものが焼失してしまったため、その後すぐに作られたものだそうです。

尚、現在ある渡櫓と鯱は、戦災の後に復元されたものです。

大手三ノ門跡

大手下乗門・下乗門・極楽門ともいう。
大正8年(1919)宮内省諸施設を建設する際、桔梗門から天神濠に至る旧二の丸と三の丸の間の濠約3.9haが埋められたため、門前の石垣沿いの濠も下乗橋も現在はない。

この橋前で御三家(尾張・紀州・水戸の3徳川家)を除くすべての大名・役人は、駕籠をおりて徒歩にて入門をした。

同心番所…同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。

約50mもある長い建物は百人番所。
ここでは常に100人の同心が、オールナイトで警備をしていました。

本丸の石垣にあった築石。

大番所…本丸へと通じる中之門警備のための詰所。大番が詰めていた。

中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道があります。
この坂は、もともと江戸城 東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門(ちゅうじゃくもん)があります。

この門は、文久 3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。

当初、太田道潅が「精勝軒」と呼ばれた櫓を作り、富士山や海の眺望を楽しんだといわれていますが、富士見櫓は、その跡地に作られました。

富士見櫓は、高さ15.5mほどの三重の櫓で、万治2年(1659年)に再建されたものが今に残っています。江

戸城の建物の中では、現存する貴重な建物です。また、富士見櫓を支える石垣は、自然石をそのまま積み上げた堅牢な「野づら積み」だそうです。

南西方向からの富士見櫓
天守閣焼失後は富士見櫓が天守閣に代用されたといわれている。

慶応 4年(1868)の新政府軍と彰義隊との戦争(上野戦争)の時、新政府軍の指揮官であった大村益次郎は、富士見櫓から上野寛永寺の堂塔が炎上するのを見て、勝利を確信したという。

その後、関東大震災により倒壊、大破したが、主要部材に旧材を用いて再建している。櫓の高さは約15.5メートルで、石垣の高さは約14.5メートルある。

松の大廊下跡の碑

元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刀傷事件であまりにも有名な松の廊下は、本丸の大広間と白書院(将軍との対面所)とをつなぐ廊下で、江戸城内で2番目に長い廊下であった。

廊下に沿って襖戸に松と千鳥が描かれていたのがその由来であるといわれ、畳敷きの立派な廊下であったという。

当時の地図には、桑畑や茶畑が点々と見られ、空き地の有効活用をしていました。

午砲台(ごほうだい)とはかつて報時のための午砲(空砲)を撃っていた場所のことである。

午報所とも呼ばれた。1871年、午砲の制が定められ全国各地に設置されている。
空砲の音はドンとも呼ばれ親しまれたことから、後にドン山などという愛称が付けられた午砲台も存在する。

かつて江戸城本丸には15棟の多聞があったが、富士見多聞は、その中の唯一の遺構である。
この辺りはアジサイの名所でもある。

石室:金蔵や抜け穴などと諸説あるが、火災や有事の際の調度品を保管する場所であったと考えられている。

右手に竹林がありました。
ここは天皇陛下のお考えで整備されたそうです。

これはモウソウチクの変種で、節が交互に膨らみ、亀甲状になっています。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。
これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。

現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。
江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。

天守台から本丸:振り返れば現代的な風景が広がります。
ここに多くの殿舎が建ち並んでいた。
まさに伏魔殿であったことだろう。

現在、芝生の張り替え工事が行われていた。

この巨大さ、人と比較すればよくわかります。

北桔橋門の両袖には、白い築地塀が残されていて、天守閣の背後の守りの重要性を感じます。
この辺りの石垣は、江戸城の城壁の中でも、最も高く(18.5m内外)堅牢に野面積み(のづづみ)という工法が用いられています。

また、強度が落ちないように「ひずみ」という工法もとられています。
さらに、角の稜線部は算木積工法がとられています。

「桃華楽堂(とうかがくどう)」 です。 

昭和41年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を記念して建てられた音楽堂で建物の屋根は テッセンの花を模し 八角の外壁には有田焼・信楽焼などの陶片が用いられているほか 玄関には鬼瓦の代わりに金色の雛人形が飾られているとか。

「緑の泉」という噴水池。

皇居正門鉄橋(二重橋)

正門(江戸城の西の丸大手門)は普段は閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外は使われない。使用される時は皇居前広場 正門石橋 正門 正門鉄橋 宮殿というルートをたどる。

木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていたことから、「二重橋」と呼ばれるようになった。

正門石橋。二重橋だと誤認されることがあるが、この石橋の奥にある正門鉄橋が「二重橋」である。

手前の石橋は江戸城の西丸大手橋があった位置で、現在の石橋は明治20年(1887年)の建造である。
二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋である」との誤認が多い

通称「二重橋」と呼ばれている正門鉄橋の上から伏見櫓を見ます。
伏見櫓は三代将軍家光の頃、京都の伏見城から移築されたと伝えられているそうです。

正門 飾り電燈は、1964年新宮殿造営のときつくられた。

気になる皇居の住人の出自

昭和三年、昭和天皇の弟の秩父宮殿下の妃に、外交官で松平容保の子である松平恆雄(つねお)の娘・勢津子がなる。
ただしこれは会津との和解などというものではなく、むしろ恆雄夫人で鍋島直大(閑叟の子)の娘である松平信子の力がものを言ったのだ。

この松平信子の姉が梨本宮伊都子(なしもとのみやいつこ)妃殿下で、その娘が大韓帝国最後の皇太子だった李垠(りぎん)殿下の妃となった方子(まさこ)さんである。
戦後になって美智子皇后が皇太子妃殿下となられるにあたり反対で動いたのは、この松平信子、秩父宮妃殿下勢津子、梨本宮伊都子の三人であった。

いろいろ理由はあるだろうが、美智子皇后の母方の副島家は、佐賀藩家老で龍造寺一族である多久(たく)氏の家臣つまり陪臣だから、心穏やかでなかったのかもしれない。
ついでながら雅子さまの母方祖父である江頭(えがしら)豊はチッソ元社長だが、江頭家は佐賀藩の「手明鑓」(てあきやり)(土佐の郷士のようなもの)だったようだ。

また秋篠宮殿下紀子さまの父方祖母は、会津藩士で大阪市長だった池上四郎の娘であり、父方祖父の川嶋孝彦は紀州の人だが、父親の勤務の関係で佐賀中学(佐賀西高校)出身であった。
そして奇遇であるが、江頭豊の祖父である江頭嘉蔵は佐賀中学の用務員であった。
本当は謎がない「幕末維新史」 引用

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江戸城へのアクセス、行き方歩き方

住所:東京都千代田区千代田1-1
電話:03-3213-0095(皇居外苑管理事務所)

JR東京駅より徒歩10分
地下鉄千代田線「大手町駅」から徒歩5分

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