唐に使いする朝廷官吏や留学生のほか遣唐使船を動かす主だった乗組員は、「難波ノ津」を出る前にかならずこの住吉大社に詣で、航海の神・海の軍神である「住吉三神」(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))に渡海の無事を祈ることになっていた。
その海上安全の祭祀を司る神職(津守氏)は遣唐神主として遣唐使船に乗船し、船の舳先に立てた「三神」の護符の前で航海中ずっと神事を行うのである。
「津守」とは「津を守る(神職)」の意。
「反橋」は住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれています。
現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられている。
かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。
川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。
「反橋」を渡ったところにある鳥居は四角柱で角鳥居と呼ばれています。
このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱りの鳥居が原形となっているそうです。
なお、額は陶製で、有栖川宮熾仁の筆。
「反橋」のたもとの古木。
神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたという。
当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。
明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。
なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。
荘厳浄土寺について触れています。
住吉公園界隈の桜便り
この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。 画像は2013年3月30日訪問 … 続きを読む →
境内には今開催中の大相撲立浪部屋の土俵があります。
コロナの影響で無観客での開催となって寂しい限りです。
津守王子は、九十九王子の6番目の王子。
大阪市住吉区墨江2-3の墨江小学校にあったが現在は姿を留めていない。
現在は住吉大社境内の摂社・新宮社に合祀されたとも、住吉区沢之町1-10-4の止々呂岐比売神社(若松神社)に合祀されたともいわれている。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった津守氏にちなんだものである。
熊野御幸をした天皇、上皇たちは、この地の住吉大社に和歌を奉げた。
熊野御幸記を歩く②住吉大社~信太山
熊野御幸記を歩く第二回、今回は住吉大社~信太山まで20㎞だ。 津守王子跡 津守王 … 続きを読む →
神仏習合の影響で、神宮寺の五大力尊信仰と結びついた。
その「五大力さん」というのは、仏教の中の、五人の明王のことです。
住吉大社への観光は路面電車の阪堺電車。
関連記事