生國神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。
うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊があった。
すべて真言宗であったので、この坂は真言坂と呼ばれた。
天王寺七坂の一番北にあるのが真言坂。
真言坂はかつて真言宗の寺が六坊並んでいた為、その名が付いた。
生國魂神社の周りは、江戸時代から大阪で最も人が集まる場所の一つで、往来客を見込んだ店が次々にオープン。
更に遊女がいる泊茶屋も次々にオープン。
この近隣にラブホテルが多いのは、泊茶屋の伝統がラブホテル街に受け継がれている為。
初代 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不詳)は、江戸時代(元禄から正徳)中期の上方の落語家。
一部書籍では1714年7月14日(正徳4年6月3日)に興行先の名古屋で死去したとされている。
本名は不明。豊笑堂と号す。
大道に床几を据えるだけの文字通りの辻咄から生玉神社(いくたまじんじゃ、現在の生國魂神社)境内の小屋に、大道芸人が技を競いあい大いに賑っていた。
そのなかで彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行している
松尾芭蕉句碑。
1694年(元禄7年)9月9日(重陽の節句の祭礼日)に奈良から難波に入り、ここ生玉で『菊に出でて奈良と難波は 宵月夜』の句を詠んだとされる。
ここの句碑は石に直接文字が刻まれておらず、タイルが組め込まれている。
2000年(平成12年)建立。
地下鉄谷町9丁目駅のすぐ南西側にある生國魂神社は幼い頃のオダサクにとって大切な遊び場だった。
この神社は『木の都』『放浪』『雨』などオダサクの作品にもしばしば登場する。
バイオリニスト辻久子をモデルにした『道なき道』や6年前に見つかった未発表の『続夫婦善哉』にも。
『木の都』には「幼時の記憶は不思議にも木と結びついている。
それは、生國魂神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟の老木であったり……」と書いた。
行き暮れてここが思案の善哉かな
大黒橋から道頓堀川を眺める。 太左衛門橋 橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開い … 続きを読む →
生玉神社といえば井原西鶴。
浮世草紙(小説、好色一代男とか)を書く前は俳諧師(俳句読み)だったらしく、なかでも夜を徹して数多くの俳句を創作する「矢数俳諧」の先駆者として有名で、この生玉神社でも1680年に一晩で四千句を読み上げたとのこと。
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