奈良県中央部、国中平野、元、橿原市中町有り、庄屋を務めた国中地域を代表する典型的な茅葺き屋根の上級農家建築。
本瓦葺き下屋の上に桁行約13m、梁間8.5mの入母屋造、茅葺母屋を載せて居る。
建築年代は確証を欠くが、当家の過去帳によれば元禄16年(1703)に山ノ坊村より分家した頃の建築と推定されている。
国中の代表的な屋敷構えは、中央に南面して主屋を建て、表か裏かに物干し場をとる。
表側には長屋門を構え、この門の両端から奥へ、コの字形に納屋・稻小屋・米蔵・内蔵離座敷などの建物で取り囲むのが、いわゆる囲造りである。
当家もこの囲造りで、物干し場は主屋裏にあった
旧敷地は西側に南北の道に接し、南側に路地を作って南から主屋に通じていた。
主屋は、喰違(くいちが)い4間取り、屋根は大和棟、周囲に本瓦葺の庇をめぐらしており、吉川禎一家と比べると、土間とミセノマ境・ナンド入口などが開放的となり、発達した形式を示しています。
特に居室部の間仕切りの発展を知るうえでも貴重です。
関連記事