宇陀郡室生村上笠間にあった農家。
当家の口伝によれば、その昔、代官を務めた子孫と伝えている。
この主屋の建築年代は、文政13年3月(1830年)記の祈祷札(解体中に発見)や、間取り、構造などから見ても、この文政13年の祈祷札から降らない頃に建てられたものと認められる。
間仕切り箇所には突き止め溝を多用するほか、居室裏側の床が、簀の子床となるところなど、東部山間の民家の変遷をよく示している。
主屋は桁行11.2メートル、梁間8.6メートル、入母屋造、茅葺で、文政13年(1830)の年記のある銘札が見つかっており、江戸時代後期に建てられたものであることが判明しています。
間取りは右半が土間、左半が床上部となり、土間の正面に「まや」、その背後に釜屋を設け、「まや」の右手に風呂場をつくります。
床上部は「くちのま」、「おくのま」、「なかのま」、「なんど」にわかれます。
床上部は桁行に喰い違う四間取りで、前座敷型三間取りの発展形式と考えられています。
この地方の民家の変遷をうかがい知る貴重な事例です
当家の所在した室生村上笠間の集落は、奈良県の東部に位置する山間であるが、往時には伊勢街道が集落内を横断し、笠間峠を越えるとそこは名張藩藤堂家領であった。
現在でも地理的には県内の主要都市よりも三重県名張市が近い。
室生村の民家については、昭和41年度に行われた民家緊急調査においては地理的条件から平面構成に三重県側の影響があるのではないかと期待されたが、結果としては大きな相違はなかったようである。
奥の間に床を備えてはいるものの特に格式高い造作はなされておらず、全体的には標準的な農家建築の典型と云える。
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