化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。
山号は華西山。
化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。
化野は古来より鳥辺野、蓮台野ともに葬地として知られ和歌では 「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞に使われています。
寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に小倉山寄りを金剛界、曼茶羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め中間を流れる川〔曼荼羅川〕の河原に五智如来を立て、一宇を建立し五智如来寺と称したのが始まりといわれています。
当初は真言宗でしたが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになりました。
1712年(正徳2)黒田如水の外孫の寂道が再建したといわれています。
本堂には本尊の阿弥陀如来像を安置し、境内には賽の河原を現出した多数の石塔、石仏が立ち並んでいます。
竹藪の小柴垣の中央に立て札が立っています 角倉了以の長男 【住倉素庵】の墓があります。
風神雷神図で有名な俵谷宗達と親交あり素庵56歳でハンセン病で61歳で亡くなるまで 此処に隔離 宗達は面倒を看ました。
死後その悲しみを雷神の身体を白色にして宗達は黒の風神図として供養したともいわれています。
寛永9年(1632年)、死去。享年62。
本墓は遺言により一族の墓所がある二尊院でなく、化野念仏寺に置かれた(二尊院にも墓所はある)。
本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。
境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。
境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
関連記事