頂法寺は、京都市中京区堂之前町にある天台宗系単立の仏教寺院。
山号は紫雲山。
本尊は如意輪観音(秘仏)。
西国三十三所第十八番札所。
敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。
この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。
これが後の頂法寺本尊。
太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。
そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。
その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。
観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。
そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。
六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。
六角堂が史料に現れるのは11世紀初め。
藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。
他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。
『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷(清水寺、石山寺、長谷寺)などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。
こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる。
鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。
正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。
ヘソ石
『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。
この六角堂に恋の伝説があった。
平安時代初期のこと。
妃を探していた嵯峨天皇はある夜、不思議な夢を見た。
如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」と告げた。
さっそく帝が六角堂に人を遣わすと、境内の柳の下にこの世の人とは思えないほど美しく、良い匂いのする女性が立っていた。
この時代は良い香りがする女性が、美人の条件の一つだった。
天皇はその女性を妃に迎え、寵愛したという。
その伝説から、「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」とか「恋が成就する」といった噂が広まり、縁結びや恋が叶う場所として信仰されるようになった。
本堂前の柳の枝におみくじが結んであるのをよく見かける。
2本の柳の枝をひとつにし、おみくじを結んでおくと縁結びの御利益があるようだ。
早咲き六角堂の御幸桜
頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。 山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。 西 … 続きを読む →
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